20211121

「共産党宣言」 マルクス/エンゲルス ~最終回~

 

<概要>

 1848年に公表にされた,マスクスの根本思想を示した共産主義者同盟の理論的・実践的な党綱領

 

1)共産主義の特徴

 共産主義の特徴とは,私有財産の廃止と家族の廃止だ。前者はブルジョア的所有の廃棄のことだ。後者について,完全に発展した家族は,ブルジョア階級にしか存在しない。その家族は資本と,私的営利を基礎にしている。そして,それを補うものとしてプロレタリア階級は,労働力という形での家族の喪失と,公娼制度を強いられているのだ。

 共産主義の実現,つまり労働者革命の第一歩は,プロレタリア階級を支配階級にまで高めること,民主主義を闘いとることだ。よって,ブルジョア的所有の廃棄を勝ち取るために,政治的支配を利用し,生産用具を国家の手に集中することになる。そのアプローチは各国で異なることになるが,次の諸方策は,一般的に適用し得る。

 土地所有の収奪,強度の累進税,相続権の廃止,反逆者の財産没収,国家資本を管理する国立銀行,運輸機関の国家への集中,用具の増強と工場・耕作地の改良,平等な労働強制,農業と工業の経営結合,教育の無償化

 

 

<ひと言ポイント>

マルクスを持ち出す理由

 

 マルクスが実現しようとしている共産主義,マルクス自身が本書の中で「その特徴」と表現していることとして,私有財産の廃止と家族の廃止があります。特に後者については,「ん?」と思う方も多いと思うので,その言わんとしているところは,当時のドイツを中心とした労働環境についても確認した上で,解釈いただいた方がよいと思うのですが・・・。

 

 いずれにしても,その実現に向けて「10のこと」は,どの国でも共通して実践できることだ,と言っている一方で,その他にも国によって実践すべきことがある,と言っています。つまり,共産主義の実現という目指す姿はあっても,アプローチは国ごとに異なる,と言っているわけです。

 

 中国共産党の6中全会を受けた公報を読み解こうと思う時,これは大きなポイントだと,私は思います。1つだけの特定のアプローチがあるわけではない,という点。だから,マルクスを持ち出しつつも,「習近平の中国の特色ある社会主義思想」を唱えることができる。それをマルクス自身も認めている,と考えることができるからです。

 

 もっともそれは当たり前かもしれません。例えば資本主義社会の実現の場合でも,優れている分野は,国によって異なるでしょうから,その実現に向けたアプローチはたくさんある。それでも,中国が,あえてここでマルクスを持ち出しているのは,自らの正当性を示すためだと,私は思います。そして,本来政治家って,それぐらい,自らの主張の正当性を,何らか裏打ちされたものに基づき,示すことが求められるのではないか? とも思うのです。


 20211114

「共産党宣言」 マルクス/エンゲルス ~第1回~

 

<概要>

 1848年に公表にされた,マスクスの根本思想を示した共産主義者同盟の理論的・実践的な党綱領

 

1)プロレタリア階級の勝利は不可避,とする理論

 あらゆる社会の歴史は,階級闘争の歴史である。

 そして今,時代はブルジョア階級とプロレタリア階級とに分かれている。大工業は世界市場を作り上げ,世界市場は,商業と交通を飛躍的に発展させた。結果ブルジョア階級は発展し,中世までの階級をすべて背後に押しやった。つまり,ブルジョア階級の発展とは,一つの長い発展工程の産物なのだ。

 ブルジョア階級は,人間の無数の自由を,商業の自由のみと取り換えてしまった。現金勘定以外のどんな絆も破壊したのだ。ブルジョア階級は,生産関係を,絶えず変革しなければ存在しえない。そして,自らの欲望のために,世界市場の搾取を通じて,あらゆる国々の生産と消費を,世界主義的なものとした。生産手段を集中させるが故に,政治的な中央集権をも実現したのだ。それは,ブルジョア階級による政治の支配であり,近代国家権力とは,ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会に過ぎないのだ。

 ブルジョア階級の発展は,機械の拡張や分業によって,単純,単調,容易く習得できるこつを,プロレタリア階級に要求する。結果,プロレタリア階級にとって,労働の魅力を失わせ,独立的性格を失わせた。また,ブルジョア階級内においても,中産階級はやがてプロレタリア階級に転落する。大資本との競争に負けるからであり,熟練が新たな生産様式によって,その価値を奪われるからだ。

 こうして,プロレタリア階級はその数を増やすことになり,その内部における利害や生活状態は平均化されていく。そして,労働賃金を維持するためにやがて団結を生むことになる。その要求は,一部は法律の形で承認されることになるが,そこには常に,ブルジョア的利益がある。また,ブルジョア階級の存在と支配にとって,本質的な条件は,資本の形成と増殖にあるから,それを満たし続けることはできない。労働者は競争により孤立化する一方で,革命的な団結をしていくことになるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

プロレタリア階級?

 

 中国では,共産党の6中全会が開催され,「習近平の中国の特色ある社会主義思想」を「21世紀のマルクス主義」と位置づけ,歴史決議を採択して閉幕しました。今回,共産党宣言を取り上げたのは,そんな中国の動きの元となっている,マルクスの考えとは,一体どんなものなのか,押さえておいた方が良いのではないか,と考えたからです。

 

 マルクスが「実践せよ」と言っていることについては,次回,確認しようと思うのですが,ここまでの段で示されていることは,「ナゼ,プロレタリア階級が勝利するのか」という点であり,その論理。つまり,ここまででマルクスは,「最終的に勝利するのは,プロレタリア階級だ」と言っていて,それを説明することで,プロレタリア階級に対し動機づけをしている,ということになるわけです。中国の6中全会の公報は,全文が紹介されていますが,「マルクス」というワードが複数回に渡って登場します。つまり,このマルクスの考えに基づき動機づけされている,あるいは,マルクスの考えを利用している,と理解できる。ただ,そのマルクスが言っているのは「プロレタリア階級が勝利する」ということなわけです。少なくともここまでは。

 

 実は,今回,本書を紹介するにあたって,再度読み直してみたのですが,以前はあまりに気にならなかったことが気になっています。と言いますか,受け流したことが,受け流してはいけないことのように感じる部分がある。その一つが,「プロレタリア階級が勝利する」と言っている点。そして,思ったわけです。「あれ? マルクスって,プロレタリア階級なのか。で,中国共産党員の指導部層って,プロレタリア階級って位置づけ?」


 20211107

「TRICK」 エスター・ウォジスキー ~最終回~

 

<概要>

 高校教師としてジャーナリズムを教え,YouTubeCEO・カリフォルニア大医学部准教授・バイオベンチャーCEOという3人の娘の母親でもある筆者の子育て・教育のメソッド

 

1)Kindnessは,弱さではなく,人生の最高の喜び

 多くの人が,他者に勝つことだけに目が行く。しかし,個人の成功と完璧さだけに目をやれば,優しさと共感力のない自己中心的な人物が育つことになる。実はそれは,社会を生きる上での代償となる。というのも,経営スキルのうちで,最も大切な7つのスキルのうち,共感,価値観や考え方の違う人への配慮,役立つFBを与え導く,キャリアについての意味ある対話は,Kindness=優しさ,に直接関連するものだからだ。

 優しさは礼儀から始まる。それは他者の存在を認めることから始まるからだ。同様に,感謝の気持ちはやさしさの一部だ。他者の存在に気づき,自分の人生への貢献を考え,そのことへのお礼を伝えるための方法だからだ。また,たとえば日記にその日の感謝を記す,礼状を書くといった習慣は,脳内にも良い影響を与える。

 共感とは,他者が「どう考えたのか」「なぜ,そのような行動をとったのか」といったように考えられることであり,それを理解することだ。だから,自分の人格から抜け出すこと,と言い換えることができる。このような共感の力を身につけることが必要なのだ。

 ネット上でのいじめがますます酷くなっているが,それは身元を隠せることで,礼儀を見失い,他者への共感が完全に消え失せてしまっているのだ。いじめの核心にあるのは,優しさの崩壊なのだ。

 人間というものは,異質な人を槍玉にあげるもの。だからこそ,何らかの形で,世の中の役に立つこと。その機会があれば,社会からつまはじきになることを防ぐきっかけにもなる。仲間外れは,いじめよりも辛いものな。ただ,世の中の役に立つ機会はたくさんある。たとえばSDGsの17の目標などは,課題があるからこその目標であり,また,一人ひとりが積極的に関われる目標でもある。そこではみんなが一丸となることが大切だ。そこで必要とされるのが,TRICKなのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

オアシス運動で考える優しさ

 

 オアシス運動をご存知でしょうか? 「おはようございます」「ありがとうございます」「失礼します」「すみません」という4つの言葉を日頃から積極的に使おう,という運動です。若かりし頃,「この運動,何なんだろ?」と,斜に構え,深く考えなかった自分がいました。「別に言われなくてもおはようぐらいは言うし・・・」というような感覚でいたわけです。

 

 その後,この運動に関わることもありませんでしたし,この運動自体を思い出すこともなかったのですが,今回この本を読んでいて思い出しました。「そういえば,あったなあ・・・オアシス運動」。そして,これの意味って,言葉にすると冷たい印象を受けるかもしれませんが,それでもあえて言うのなら,孤立しないためのしくみなんだろうな,と思ったのですが,同時に,「なんで,当時その目的を言われなかったのだろう?」とも思ったのです。調べてみても,その目的は説明されていないし,「その意味がどこにあるのか,考えよ」と言われた記憶もないし,そんな議論をした記憶もない。「皆まで言うな」ということなのかなあ・・・。

 

 「でもなあ」と,私は思うんですよね。それって,ちっとも優しくない。押しつけやルールのように感じる。あるいは,同調圧力と言うか・・・。

 

 優しさって難しいな,と,私自身は思っています。私のことを,優しいと言う人もいれば,厳しいと言う人もいる。その両者の意味を込めて,冷徹人間と言う人もいるのですが(苦笑),その場その場を取り繕うような安易な優しさって,本当の優しさではないと,私は思っている。

 

 たとえば,「みんな仲良く!」と言ってみても,深刻な場面であればあるほど,意見の対立は生じるわけです。関わる人々が,それぞれ真剣に考えた「仮説として」の自分の意見を提示し,その中から「これがベター」という選択をするしかない。意見の対立を避けることが目的なのではなくて,ベターな選択が目的なのだから,その意見が納得できるものでないのだとしたら,それはなあなあで受け入れるべきではないと思う。むしろ,なあなあで受け入れないことが優しさなのではないか,と思うわけですね。

 

 そんなわけで,目的が何なんだかよくわからないから,オアシス運動って腹落ちしていないのです。押し付けのように感じる。「オアシスって,先人の知恵なんですよ~! どういうことだと思いますか?」って言われた方が腹落ちするんだけどなあ。


 20211031

「TRICK」 エスター・ウォジスキー ~第5回~

 

<概要>

 高校教師としてジャーナリズムを教え,YouTubeCEO・カリフォルニア大医学部准教授・バイオベンチャーCEOという3人の娘の母親でもある筆者の子育て・教育のメソッド

 

1)Crablateは,T,R,Iの上に成り立つ

 20世紀は,ルールに従うこと,が,大切なスキルの1つだった。だから,学校という場の場合であれば,教師が支配者であることを徹底的に叩き込むことが求められた。それが,ルールに従うことの土台だったからだ。

 当時の育成スタイルは専制型,権威型,迎合型,放任型の4パターンに大きく分類できるが,今の時代に求められるスキルを育もうとすれば,それぞれに短所があると考えられる。そこで考えられるのが,協力型だ。それは,指示・命令ではなく,「自信の考えを聞いたうえで,一緒に解決する」という,育成スタイルだ。

 それは,学ぶ者,学びを導く者との間の協力であり,学ぶ者同士の協力であるが,それが成り立つには,信頼,尊重,自立と,学ぶ者の目標という土台の上に成り立つ。加えてそこに目標があるのなら,時間をかけ,やることを整理することで,学ぶ者は必ずやってくれる。だから,もし,学ぶ者が必要なレベルまで到達できていない,とするなら,それを確認した上で,考えるよう導くことになる。学ぶ者が,「無理」「どうしたらいいか,わからない」ということなら,さらに話し合えばよい。

 ここでのスタイルは,命令ではなく,提案だ。「○○しない?」という提案であったり,「△△したい? それとも,××したい?」というような選択を促す提案。これは,友人や取引先などには絶対にしないような語り口では話さないことが,1つの基準になる。逆に言えば,他者を説得する際のお手本を,学ぶ者に見せることが大切だ,ということだ。

 それは,日々の生活で見せる,示すことができるものだが,特別な機会を利用するという方法もある。たとえば家族なら,休暇の計画を立てさせる。また,どこかの時点でスポーツに関わることも,チームワークや他者への責任を学ぶ機会になる。目標に届かなかったときにどうするか,あるいは,違う意見を持つ他者であっても,見方が違うに過ぎないことを学ぶ機会にもなる。つまり,仮に敵であったとしても,共通項はあるのだ

 国家間の争いや政治にしても,自分たちの目標の達成の下,動いているという共通項がある。その共通項を出発点とすれば,ナゼ,他者がそのように考えるのか,行動するのか,といったことに気づき,そして,そんな他者を尊重できるようになる,ということなのだ。たとえば,問題の根源を自分だと認めたくない,というのも,共通項だ。

 学ぶ者は学びを導く者の姿を見ている,という点も共通項だ。だから,適切な姿勢を見せることが大切になる。そのポイントは,時間を守る,身なりへの気遣い,店員なども含む人との接し方,片づけ,テクノロジーとの健全な向き合い方,食生活の健全な向き合い方,親戚や家族との付き合い方,きわどい話題との向き合い方,ウソ,怒鳴る,挫折や逆境への向き合い方,自分の間違いを認め,失敗を学ぶ勇気だ。もちろん,誰もが完璧ではない。だから,学び,変化しようとする態度を見せることが重要になるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 準備の視点としての共通項

 

生きていれば,自分の思うようにならないことはたくさんあります。意見の対立,なんていうものは,しょっちゅうあるものでしょう。そして,このようなとき,自分の考えをいくら言っても,まるで理解されない場合があるのではないか,と思います。

 

実は先日,そんな機会に出くわしました。お相手は明らかに不機嫌。別にケンカを売ったわけでもなかったのですが・・・。

 

「なんでだろうか?」と考えたとき,そのお相手は,自分が非難されているかのように受け取った模様。私自身には,そんなつもりはありませんでした。現実から考えたときに,現状をどうとらえているのか,意見を聞きたかっただけ。ただその言動からすると,お相手の方は非難されていると,受け取ったと思われる。そして反省したわけです。「予想できたことなのに,準備してなかったなあ。準備不足で,その議論をふってしまったかな」と。

 

予想できること,については,本来的には準備ができます。もしそこで,何か起きても,対処の具体策を考えておけばよい,ということだからですが,ここで考えたいのは,では,「予想できることってなんだろう?」ということです。予想には,さまざまなタイプのものが実際にはあると思うのですが,その1つが,本書で指摘されている「共通項」なのかな,と思います。人ってこういうものだ,というのは,1つの共通項だと思います。

 

たとえば,マズローの5段階欲求説として示されている「欲求」というものも,その1つだと思います。他にも,ラクをしたいというのも,人間というものの1つ共通項。他にも,認知バイアスといったものの存在も,1つの共通項なのだと思います。共通項を押さえておくと,実際にそれが起きるかどうかは別として,可能性として洗い出すことはできる。

 

翻って,議論がかみ合わなかった件,私には甘えがあったと反省したわけです。そこまでは不要かな,と考えていた。つまり,共通の前提条件で話し始めたつもりだったわけです。でもよくよく考えれば,そうであるとは限らないし,実際共通の前提条件も下で話していたわけでもなかった(と理解すれば,つじつまがあうと気づいたわけですが)。

 

そもそも異なる前提条件で議論を始めてしまう可能性がある,ととらえておけば,「前提条件はこれだよね」と話した上で,話始めるといった対策を考えておける。議論がかみ合わなくなったら,「前提条件はこれだったよね?」というところに立ち戻ることを促すこともできる。

 

このような準備の視点が共通項。

 

「共通項には何があるだろうか? と洗い出してみると,おもしろいのかもしれない」,そう,この文章を書く中で思いました。ということで,しばらくの間,1日1個,共通項を洗い出していってみようかな,と思っています。


 20211024

「TRICK」 エスター・ウォジスキー ~第4回~

 

<概要>

 高校教師としてジャーナリズムを教え,YouTubeCEO・カリフォルニア大医学部准教授・バイオベンチャーCEOという3人の娘の母親でもある筆者の子育て・教育のメソッド

 

1)Independenceは,TとRの上に成り立つ

 自立は,信頼と敬意・尊重という土台の上に成り立つものだ。自制心と責任感を身につけるから,困難を乗り越えられるようになる。親は良かれと過保護や過干渉をするが,それでは子どもを無力化してしまう。指示待ちの人間を作ってしまうのだ。

 たとえば,ひとりで眠れないのは,ぐずれば親が来てくれることを学んでしまったから,ととらえることができる。癇癪も同様だ。子どもに理屈は通らないが,だからこそ「言葉で説明すること」を促すこと,それを徹底することで,多くを学ぶことになる。責任を与えること。すると,誇りを感じるようになり,また,その役目も果たせるようになる。ただし,その条件は,安全なことであり,本人が理解できる責任であり,できることだ。つまり,自立には,土台になるものと,支えが必要なのだ。

 最初から成功しては,何も学べない。失敗することで,学びと努力が報われることを学ぶ。単に禁止すれば,それをますます欲しがるのが人間。自主的にルールを決めるから,自分で守ることを学ぶのだ。生徒たちにとって,最も難しい問いは,「自分で考えたトピックについて書くこと」だ。生徒たちの関心は「成績Aが取れるトピック」だからだ。しかし,好奇心を育てると,人の想像力は発達する。それが創造性につながる。自立と好奇心の副産物が創造性なのだ。

 自立には,やり抜く力も必要だ。それは,誠実さ×粘り強さ,とする研究もあるが,自制心,目先の欲求を辛抱する力,我慢強さ,勇気もこれに含まれる。逆境は,それ自体がやり抜く力を育む。やり抜く力とは,生き延びようとする意志そのものだ。だから,才能より努力をホメること,挫折が大切な学びの機会であることを教えることが大切なのだ。それらが一体となって情熱を育み,それがやり抜く力を育み,勇気となって外に表れるようになるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 言葉の選択

 

「いくつかの言葉に対して,ポジティブなイメージを持つか,あるいは,ネガティブなイメージを持つか」ということが,実は人の行動に大きく影響を与えているのではないか,という仮説を持っています。

 

たとえば,少年ジャンプの三原則は,「友情,努力,勝利」と言われていますが,その発行部数は,現在,全盛期比の3分の1程度。もちろん,メディアの転換や購買人口もあるでしょうし,部数のカウントの仕方の問題もあるでしょう。それは,「友情,努力,勝利」という言葉に対する,イメージの違いが影響しているのではないか? つまり,言葉に対するイメージが,ある層ではプラス,別の層ではマイナス,ということがあるのではないか,ということです。

 

もし仮説どおりだとするなら,対象や場面ごとに,その配慮をすれば,より高い成果が得られるのではないか,と思います。

 

たとえば,教育をする場面で,ネガティブなイメージを持つ言葉を使ってモチベーションを喚起しようとしても,恐らくそれはうまく行かないのでははないか。その言葉の持つネガティブなイメージに引きずられて,心を閉ざされてしまい,中身を聞く準備が整わない。結果,それが,全体としてはどんなに素晴らしい内容だったとしても,インプットされない・・・。

 

言葉の選択だけで差が出るのであれば,それは配慮した方がよいことだと思うのですが,その意味で,「Independence=自立」という言葉,ちょっと注意が必要な言葉なのではないか? と,直感的には思います。そして,このようにも思うのです。自立というような言葉の使い方を考えることで,言葉を扱う上での配慮というものを学べるのかなあ,と。


 20211015

「TRICK」 エスター・ウォジスキー ~第3回~

 

<概要>

 高校教師としてジャーナリズムを教え,YouTubeCEO・カリフォルニア大医学部准教授・バイオベンチャーCEOという3人の娘の母親でもある筆者の子育て・教育のメソッド

 

1)Respectは,個性と自主性を大切にすること

 子ども自身が目標を見つけることを助けることが,親の役割だ。どんな人生を送るべきか,仕事に就くべきかなど,押しつけることは,その正反対の行為と言える。

 子どもが何かをやっていれば問題ない。それは,何らかの形で家庭を含む社会に貢献する,ということだ。子どもが自分のよくわからないことに興味を持つと不安になる。その恐れや心配が,子どもに投影されるのだ。

 子どもは親の言うことを聞く。それは認められ,愛されたいからだ。しかし,子どもが本当に幸せになるには,子ども自身の声に耳を傾けることが大切だ。フリードマンが言うように,今は自己学習と情熱の世紀だからだ。そして,子どもは,何かの専門家になれると自信を持つ。だからこそ,高い水準を設けることも尊重の一部なのだ。ただ甘やかすことは,子どもの能力を尊重していないことになるからだ。

 筆者は,子どもが間違った行動をとったときには,反省文を書かせ,どうやったら改善できるかを考えさせた。書くことは考えることであり,考えることで変化が起きる。学校新聞における生徒指導では,筆者の意見を伝えた上で,助けてほしいか,自分で考えるか,選択させた。これが,尊重するということの,1つの方法だ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 「問い」と「反省文」

 

学習動機づけ理論というものをご存知でしょうか? 学習動機づけは,6つの志向で整理することができる,という東大の市川先生が提唱している理論です。

 

6つの志向とは,そのこと自体が楽しいからやるといった「充実志向」,自己鍛錬を目的に行うといった「訓練志向」,仕事に活かせるからやるといった「実用志向」,周りがやっているからやるといった「関係志向」,ライバルに負けたくないなど,プライドや競争心から行動することを指す「自尊志向」,そして,ホメられる,対価が得られる,怒られたくない,マイナスの評価が嫌,といった理由から行動するという「報酬志向」です。また,これら6つの志向は,外発的な度合いが強いものと,内発的な度合いが強いものとがある。たとえば報酬志向は,極めて外発的である一方で,充実志向は,極めて内発的。市川先生は,学びには,「複数の動機づけがあった方がよい」とした上で,「内発的な動機づけが大切である」ともおっしゃっています。

 

このことを,著者が指摘していることに照らし合わせると,内発的,つまり,自主性を育むための前提が,Respectなのだ,と,とらえられるでしょう。その上で,著者は,具体的な2つの手法を提示しています。その2つは,機会を利用した,「問い」と「反省文」です。

 

本書を見る限り,「問い」にはポイントがあることがわかります。それは,「どうしたいか?」,という自分の意思を問うものである,という点です。そして,二者択一の問いが,事例としては取り上げられている。「どんな選択肢があるのか,わからないから,どうしたいかわからない,というケースは多いのかもしれない」ととらえれば,この方法は非常に効果的だと考えられます。「どちらも嫌」なら,「では,どうしたい?」と,問える。同様に,「反省文」にも,多くの「考えるを教えるしかけ」がある。「自分がしたことのふり返り,その理由,ナゼそれが間違った行動なのか,ではどうするか」といったことを,「自ら考える」必要があるからです。

 

「尊重するのだから,怒るのではない。でも,どうする?」といったような場面は,誰にでも,そしてたくさんあるでしょう。そのようなさまざまな場面で,使える手法が「問い」と「反省文」なのではないか? と思うのですが,いかがでしょうか。


 20211008

「TRICK」 エスター・ウォジスキー ~第2回~

 

<概要>

 高校教師としてジャーナリズムを教え,YouTubeCEO・カリフォルニア大医学部准教授・バイオベンチャーCEOという3人の娘の母親でもある筆者の子育て・教育のメソッド

 

1)Trustは,自分への信頼から始まる

 世界中で信頼は崩壊している。結果,親たちは不安を抱え,リスクを恐れ,正義のために立ち上がれない。それが子どもに伝染する。だからまずは,大人が自分を信頼することから始める必要がある。そして,大人が自分の選択を信頼し,自信が持てれば,子どもを信頼し,自信を与えられるようになる。

子どもが信頼に値することを証明していれば,より大きな自由と,同時に責任を持たせる。約束を守れなければ,何がいけなかったのかを話し合い,いっしょに問題を解決する。そういう機会を与えることが大切なのだ。

 たとえば買い物は,子どもの自主性を育てる絶好の機会だ。初めは親がすべて仕切り,次に子どもと一緒に店に行き判断を任せる,さらに子どもが必要なものを選ぶ時間を与えレジで待ち合わせる段階を経て,最後にひとりで買い物をさせる。このようなステップを踏む中で,親の信頼を伝え,その関係を築くのだ。他にも,幼い頃の寝かしつけでは,子どもは機会が与えられれば,自分で自分を落ち着かせることができる。

 大人が子どもの人生にとって,極めて大きな存在であることを忘れてはならない。そんな大きな存在が信頼を示さなければ,子どもの自信を粉々に打ち砕くことになる。一方で,そんな大きな存在から信頼されれば,子どもは自信を持つ。だから,小さなことでも,何かできれば「スゴイ」とホメる。そうすることで,一番よい選択ができるように導くのだ。

 何度も判断の練習をさせることで,適切な判断ができるようになっていく。ただ思春期には,子どもは親の信頼を裏切るようなことをする。もちろん,その際に責任を問わないわけではない。しかし,信頼を前提として,「がっかりした」ことを伝えることが大切だ。逆に大人が子どもの信頼を失うようなことをしたなら,必死で謝る必要があるし,その後の態度で,信頼の回復に努めるべきなのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 事実を把握する

 

「大人が世の中を信じることができていない」と,筆者は指摘しています。それが大人を不安に掻き立てる。だから,リスクを過度に恐れる。自分の判断に自信が持てない。自分を信頼できない。それが子どもに伝播している,それを子どもが感じ取っている,と。

この指摘に対する賛否は冷静に行った方がよいとは思います。ただ,仮にそのようなスパイラルが働いているのだとすれば,説明できるのではないか,と思うことがあります。それは,過度とも言えるような同調圧力や,炎上と呼ばれる現象です。

 

自分が自分を信頼できない,だから,ちょっとおかしいと思っても,周囲の意見に合わせようとする。あるいは,誰かのちょっとした意見と,自分の意見が「同じ」だと感じると,一気呵成に責め立てる。それまでに溜まっているものがあるから,ここぞとばかりに過剰に発散してしまう。。。

 

大人が世の中を信じるために,「統計を見て,(世の中は)危険すぎるという思い込みを見直すべき」だ,とも指摘しています。米国人の6割は,暴力・窃盗などが増え続けていると感じているのだそうですが,実際は逆。その上で,「そのように感じてしまう1つの理由は,日々のニュースに引きずられ,今は戦争と犯罪がまん延する大変な時代のように感じがちだから」とも指摘しています。

 

このことには,私たちにも心当たりがあると思うのです。「今日も平穏でした!」では,ニュースにならない。特別なことしかニュースにならないですから。そして,特別なことばかりがくり返し取り上げられる。新型コロナの新規感染確認者数も,増えれば取り上げられますが,落ち着いたら,それほど取り上げられはしない。

 

事実を把握する。冷静になる。信頼には,それが最も重要なことなのかもしれません。


 20211003

「TRICK」 エスター・ウォジスキー ~第1回~

 

<概要>

 高校教師としてジャーナリズムを教え,YouTubeCEO・カリフォルニア大医学部准教授・バイオベンチャーCEOという3人の娘の母親でもある筆者の子育て・教育のメソッド

 

1)子育て・教育の基本的価値観としてのTRICK

 人が持てる能力を活かし実りある人生を送るには,5つの基本価値観があればいい。その価値観が「TRICK」だ。

 それは,Trust=信じること,Respect=敬意を示すこと,Independence=自立を促すこと,Collaboration=協力すること,Kindness=やさしさと気づかい,の頭文字をとった,日々の生活の中で思い出せるようまとめた,子育て・教育の基本的価値観だ。

 

2)どのように育てるか

 人は自分が育てられたように子どもを育てがちだ。そのやり方しか知らないからだ。だから,最初にすべきは,自らの体験を振り返ることだ。ただ実はこれが難しい。どう振り返るか,何を自問するか,どんな答えを探すべきか,わからないからだ。その視点がTRICKだと言える。

 家族はTRICKの価値観を大切にしていたか? そうではなかったか? 改善できるところはどこか? と検討すること。また,自分の出身,その文化や宗教も,子育てに影響を与える。パートナーの家族と文化についても同様だ。

 ただ,親も人間だ。失敗することもある。完璧な親も,完璧な配偶者も,完璧な子どもも存在しない。だから,失敗しても責めない。許す。そして,TRICKの原則を使い続け,諦めないことが大切なのだ。 

 

 

<ひと言ポイント>

 

 考える素材としての信頼,尊重,自立,協力,やさしさ

 

本書は,筆者の子育てと教師としての指導経験とに基づいた,子育て・教育に関するメソッドをまとめたものです。読み進めるとわかるのですが,メソッドとしてのTRICKとは何なのか,具体的な事例を用いながら,説明を試みています。そのため,正直言うと,冗長的過ぎる部分が多分にあるように,私には思えます。ただそうではあっても,はじめて親になる方はもちろん,自分の子育てに自信が持てない方など,さまざまな方の参考になるものだと思います。

 

一方でメソッドとしてのTRICKは,子育てだけではなく,会社や組織などの中で,人を育てる立場にある方,あるいは,その教育を受ける立場にある方にも,参考にできる部分が多々あるとも思います。実際このメソッドを,自社の社員教育に取り入れる企業もあるようです。

 

確かに,そもそもTRICKというものを会社,組織の教育の基本原則ととらえること自体が参考になると思います。

 

また,「TRICKについて考え,自分の意見をまとめる」といった取り組みをしても,面白いかもしれない。たとえば,TRICKが原則だとして,それは無条件に成立するものなのか? と考えたり,あるいは,それを土台として,深化させ続けるものであると考えたり,といったことができるでしょう。

他にも,自分のTRICK度を,教育をする立場,教育を受ける立場で考える,TRICKを利用した場合,こんなときにどんな対応を取るかといったケーススタディをするといったことも考えられるでしょう。教育する側,される側,それぞれの立場で検討してみることで,信頼,尊重,自立,協力,やさしさとは何か,冷静にとらえられるようにもなるのではないだろうか,と思いますし,もしかしたら自分自身を見直すきっかけにできるかもしれない。

 

いずれにしてもTRICKという言葉を知っているだけでは,恐らく使い物にならないでしょう。だから,具体的な事例を用いながら,説明を試みるのだろうな,とも思うのです。


 20210926

「戦略がすべて」 瀧本 哲史 ~最終回~

 

<概要>

 戦略的思考を磨くためのケースブック。様々な話題を利用した,「戦略的に思考するとはどういうことか」に関する筆者の思考展開,仮説。

 

1)学び,教育の戦略

 企業の採用から教育というものをとらえることができる部分がある。企業の採用では,育成型指向と,競争型指向とがあるが,優秀な人材ほど競争型を志向する。つまり,社会に出る前に,必要な力を身につけさせることを,企業は大学教育に求めているということになる。そこで求められているのは,思考力,多様な視点,コミュニケーション能力だ。イノベーションを生むには実学だけでは不十分で,多様な分野間での,独自性と融合の両立が必要。大学にも,そのような視点での取り組みによる,独自性が必要になってくる。人は,生きてきた環境に染まることによって,独自性を身につける部分があるが,だからこそ,「他はどうなのか」を客観視できるだけの知識は,教養のレベルなのだ。それを体現しているのが,東大入試ととらえられ,そこで測定されているのは,適切な知識に基づく,高速な論理操作や判断推理の力なのだ。

 変化を生むには,しくみから入ることも一案だ。大学入試制度の変革は,入試制度の変革という意味だけでなく,大学教育の,あるいは,高校教育の変革という意味でとらえるべきことと言える。

 

2)政治・行政から考える戦略

 資本主義は,その性質上,必ず勝ち組と負け組をつくる。これは,政治・行政面でも同様であり,自治体であっても,勝ち組と負け組をつくることになる。つまり,地方自治体も,サービスによる違いが生じることになり,サービスによる競争で,淘汰されるべき自治体が生まれるのは,当然のことなのだ。

 選挙で政治家を選ぶこと,を,商品・サービスを購入する消費行動ととらえると,気づけることがある。それは,選択にかけられる時間に対し,情報が過剰であり,また,商品・サービスがコモディティ化しているのと同様,政治においても差別化が難しくなっているという点だ。すると,細かな政策よりも,ブランドイメージの方が重要になっているという点が浮かび上がる。だからワンフレーズ選挙の隆盛は,戦略的に合理的ととらえられるのだ。このときに利用できるのは,「誰が支持しているのか?」という点だ。支持している組織がどこなのかがわかれば,政治の方向性が理解できる,ということなのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 今後の学びの戦略を考える

 

みなさんが何かを学ぼうとするとき,その理由となっているものは何でしょうか? 

もっとも多いパターンは,「必要に迫られたから」だと思うのです。たとえば,学生時代の学びであれば,一部の選択科目はあるものの,高校までは,ほぼ学校側に指定されているはずです。大学では,個人の裁量の部分が増えるとは言え,それでも,必修科目が設定されているはずですし,選択科目にしても,「この中から,いくつは選択すること」といったような形式になっているのが一般的でしょう。社会人になってからでも,会社側から「これ学べ」「あれ学べ」と,指定されるものがあると思います。

 

では,そのように「指定されたもの以外」について,みなさんはどのように,学ぶことを選択していますか? 今,学んでいることがあったとするなら,それを学んでいる理由はなんでしょうか?

 

「何かを学んでいる」という方々のことを,私は無条件に尊敬します。日々,やらなければならないことで埋め尽くされるような毎日の中で,自ら学びの時間をつくること自体が,スゴイことだと思います。ただ一方で,今後はより戦略的に,何を,どのような順で学ぶのか,考える必要が出てくるのかもしれません。世の中で求められる力が変わってきているからですし,それをできる人が少ないのであれば,学んだことのレベルが高度でなくても,勝てる可能性が高くなる。

 

戦わずして勝つ,あるいは,ブルーオーシャン戦略に近いような考え方を,学びにおいても考える。これって,やっていない人が圧倒的多数なのではないか,と私は思います。だからこそ,差別化につながるのではないか,と思うのです。そして,仮に企業レベルでこれをやったら,それ自体がその企業の武器になるのではないか,とも思います。たとえば,ワークマンがやっていることは,そういうことなのではないかな,と,私は思うのです。


 20210920

「戦略がすべて」 瀧本 哲史 ~第3回~

 

<概要>

 戦略的思考を磨くためのケースブック。様々な話題を利用した,「戦略的に思考するとはどういうことか」に関する筆者の思考展開,仮説。

 

1)勝つための戦略

 勝つことを目的としたとき,いくつかのアプローチがある。

 1つは,勝てる土俵を選ぶということ。五輪であれば,メダルを取りやすい競技を定め,そこに資源を集中的に投入することだ。投資は,ヒト・モノ・カネの配分ということになるが,連動するような投資の仕方が必要になる。

 イノベーションは,合議制では生まれない。ハイリスク・ハイリターン案件が捨てられるからだ。このような案件を育てに行くことも,大きな戦略と言えるのだ。すると,内部組織だけで考えるのではなく,外部の異見が大切になることもわかる。外部ブレインの招聘は,その意味で重要なのだが,同様の効果を得られる可能性があるのが,異業種での事例を応用するという方法なのだ。

 

2)情報の性質から考える戦略

 ネット社会では炎上がつきものだ。匿名性が高く,スクリーニング機能が弱いからだ。一方で,炎上しやすいコンテンツほど,カネを生む面もある。広告モデルで言えば,関心を集めるほど収益が上がる構造になっているからだ。また,極端な情報は,極めて少ない信者を生み出す可能性もある。そのような信者が,同じ著者による同じような著書を購入するというような形でカネを生んでいるととらえることもできる。このような構造が,実は新聞の誤報を増やしているという部分もあるはずだ。「見出しで釣る」ことが,収益に直結するからだ。

 情報に振り回されないようになるには,教養が必要だ。また,たとえば,自分の仮説と逆の考え方や事実を探し,クリティカルに考えるといったことで,新しい商品・サービスの芽が出てくる可能性もある。さらに,さまざまな見方があることを実際に知ることも必要になるだろう。熟練者であれば,若者の視点が有効である場合もある。たとえば若者は,デジタルプラットフォームしか知らないが,その視点から既存の商品・サービスをとらえ直すことが,ビジネスチャンスになる可能性もある,ということだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 炎上商法

 

海外向けに日本の商品・サービスを提案するサービスをする会社の支援をした際,そのご担当の方が「炎上商法」という言葉を使われていたことがあります。

 

その会社で考えられていたことは,そもそもは,発信力の高い「インフルエンサー」と呼ばれる人たちに,各人のSNSで商品・サービスを告知してもらうことで,商品・サービスの認知を上げ,購入につなごう,ということ。実際このような活動は,この会社でなくても行っていることです。この話をしていた時に,出てきたのが件の言葉です。

 

ここで注目したいのは,そのような言葉が発明(?)されるほど,「注目を集める,認知される」ということが,既存のアプローチでは難しくなっているのだろう,ということ点。そして,その事実は,消費者サイドの感覚としてではなく,ビジネスサイドの肌感覚としてとらえておきたいものではないか,と思います。

 

カミュの小説として,また,世界的な名著の1つとして「ペスト」がありますが,この小説は,新型コロナのパンデミック発生で,そのブームが再燃したとのこと。良いものだから売れたのはもちろんですが,良いものであれば売れるわけでもない。その時が来てから準備をしても遅い。

 

炎上というものが生む効果を,ビジネスとしてとらえる,ということ。たとえば,炎上を待ち,それをきっかけに伸ばすぐらいの準備をしておくこと。準備が出来ている具体化された「弾」が複数あればあるほど,その時が来る可能性も高まる。現代のビジネス社会での生き方って,そういうことなのかもしれません。


 20210912

「戦略がすべて」 瀧本 哲史 ~第2回~

 

<概要>

 戦略的思考を磨くためのケースブック。様々な話題を利用した,「戦略的に思考するとはどういうことか」に関する筆者の思考展開,仮説。

 

1)ヒットコンテンツの評価を通じ,戦略を学ぶ

 ヒットコンテンツというものには,戦略的なしかけが組み込まれている。たとえば,AKB方式は,人を売るビジネスにおける「結局,誰が売れるかはわからない」といった課題を,戦略的に解決しようとした方法であり,それが当たったのだ。同様に,鉄道会社には,戦略的な共通点がある。それはプラットフォーム型であり,その優劣はブランドの打ち出し方,人々の生活スタイルやそのクオリティの提案が成功のカギになるということだ。

 

2)人材として評価されるための戦略

 人材として評価される,ということについても,戦略的にとらえることができる。たとえば,それを報酬に求めるのなら,「報酬は何で決まるか」という視点が欠かせない。実は大企業と中小企業では報酬に差があるが,それはスキルの高低による差異よりも,もともと社員に与えられている資源量で給与差が発生しているのだ。さらにそれを見ると,ビジネスというもの全体を理解し,「資本=もうけるしくみ」」に参画しないと,他者に上限を依存することになる。

 このような,資本主義社会の歩き方を学ぶことも大切になる。たとえばRPGは,アイテムを適材適所で使うなど,資本主義のルール組み込まれていることがわかる。ネットコンテンツビジネスが,書籍との比較で「利益を上げることに徹している」という違いがあり,そのコンテンツはコンピュータに作らせていることを考えると,コンピュータにできない仕事をすることが大切になることがわかる,成長する企業は,優秀な人材が定着しているか,からわかる。

 今,組織で働いているなら,社内での評価を勝ち取ることが,まずは大切だ。リスクが低いという点も,押さえておく必要がある。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 戦略的に考える訓練

 

本書の位置づけについて,筆者は「戦略的思考を磨くためのケースブック」としています。その上で,トピックを取り上げ,筆者が,その一例を示す,という形式で構成されています。「戦略的に考えるとは,どういうことなのか?」を理解するのは,なかなか難しい。だから,その理解のために,具体例が示されている,ということなのだと思います。実際筆者は,問いを立てつつ,その問いに対する筆者なりの考えを提示していますが,その答えは「唯一のとらえ方でもない」ともしていますし,確かにそのとらえ方は,他にもたくさんあるのだと思います。

 

このことについて考えると,戦略的な思考を磨く訓練として最も有効な手法の1つは,「いかに,考えるにあたって適切な素材を見つけられるか? 見つけるか?」ということになるのではないか,私はと思います。言い換えれば,「自ら問いを立て,その問いに自ら答えてみる」ということですし,それを他者に理解できる形で示せるか,ということ。

 

今回の範囲で取り上げられているAKBにしても,鉄道にしても,RPGや編集物としてのコンテンツにしても,事例に過ぎない。それよりも,「このような例を取り上げのは,ナゼか?」ということだし,そもそもそれを問いにできるか? 

 

もちろん,アウトプットされたものに対して批判することも,思考を磨く訓練になると思います。けれど,どの事例を抽出するのか,というのは非常に難しい。言い換えれば,まずは問いを立てること,その問いに自分なりに答えること,そして,それらの問いと答えの中から,どれを提示すると目的を達成できそうかと考えること。これが,実は戦略的に考える訓練として有効なのではないかな,と思います。


 20210905

「戦略がすべて」 瀧本 哲史 ~第1回~

 

<概要>

 戦略的思考を磨くためのケースブック。様々な話題を利用した,「戦略的に思考するとはどういうことか」に関する筆者の思考展開,仮説。

 

1)戦略的思考とは?

 戦略的思考とは何か,を考えるには,戦略的ではないということを考えればよい。平均的な日本人は,戦術レベル,もしくはせいぜい作戦レベルに注力しがちだ。競争に勝つために,ルール内での努力を志向しがちだが,実際の競争は,ルールを変えたり,別のルートを考えたり,新しい技術を使ったりした者が勝つ。つまり,戦略を考えるとは,今までの競争を全く異なる視点で評価し,強み・弱みを分析して,他者とは全く違う努力の仕方や投資の仕方を考えることなのだ。

日本の企業の中でもグローバルに勝ち続けている企業は存在する。こうした企業の共通点は,環境変化や変曲点で,経営者が戦略的な意思決定をし続けてきたことにある。

 このような力をつけるには,多くのトレーニングが必要だ。身のまわりに起きている出来事や日々目にするニュースでも,戦略的に「勝つ」方法を考える習慣を身につければ,その力は確実に高められるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 戦略とは?

 

そもそも戦略という言葉は,軍事用語です。よって,勝つことを目的に練られるもの,ととらえることができるのですが,筆者によれば,意思決定はそのレベルに応じて,戦略,作戦,戦術の3段階に分かれているとのこと。つまり,最上位の意思決定が,戦略レベルということになります。

 

と,このように言われても,「戦略って何?」という答えにはならないのだと思います。ナゼか? 

 

恐らくそれは,抽象度が高いからなのではないかと,私は思います。仮に抽象度が高いからわからないのだとしたら,具体例に落としてみるという方法が考えられる。本書が示しているのは,そんな具体例なのだと思います。

 

本書の最後で著者は,こんなことを言っています。「私なりに戦略的にはどのように考えたらよいかの仮説を展開した」と。私がここで注目したのは,「仮説」という言葉。つまり,戦略とは仮説なのではないか,と。そのようにとらえると,様々な情報をもとに,「勝つことを目的に」論を組み立てていったシナリオ,あるいはストーリー,これが戦略だ,ということになる。そして,不確実な要素が多い次元のことほど,戦略性が高いということになる。

 

それでも勝つことが目的なのですから,確度の高い選択をするのが当たり前。そこで必要になるのが,確度の高い情報と,その論理展開なのかな,と思うわけです。

そして,確度の高い情報って何だろう? と考えると,その1つが成功事例であり,失敗事例なのかな,とも思いますし,データ分析の結果,つまり,統計なのかなとも思います。


 20210829

「具体⇄抽象」トレーニング」 細谷 功 ~最終回~

 

<概要>

 考える方法論・フレームワークとしての「横軸」×「縦軸」,「横軸」としての知識・情報の量的な拡大,「縦軸」としての具体化と抽象化

 

1)「具体化と抽象化の行き来」という考え方の応用

 「具体化と抽象化の行き来」という考え方は,仕事や日常生活で応用できる。

問題解決は,一般的に川の流れ,時の流れとしてとらえることができるが,その川上にあるのは常に抽象化だ。よって,川上と川下の違いは,抽象と具体の違いと言える。つまり,全体と部分,境界ありとなし,原則と例外,自由度の高さと低さ,少人数と大人数,総論と各論といった形で,それが川上のものか,川下のものか,判断できるということだ。

 川上と川下という視点により,仕事は抽象と具体に分類できることになる。たとえば,書類を作るという仕事にも,川上の仕事と川下の仕事があるし,PCのアプリケーションも,川上と川下の視点を用いれば,抽象と具体に分類できる。

つまり,新商品の開発,ITシステムの開発,商品・サービスの購入などにおいても,川上工程と川下工程があるのだから,その工程が川上なのか,川下なのかを考えれば,議論の視点や対応方法も明確にできることになる。

 一方で,不毛な議論や軋轢の発生などの原因は,川上の工程で川下の手法をとったり,その逆を行ったりする場合に起きる。たとえば,ITシステムの刷新というような川上の業務で,多数の人間が集まったワーキンググループで議論する,といった場合に起きるということだ。

 また,構成するメンバーのレベルにより,コミュニケーションギャップが発生する場合もある。依頼ごとを例にすれば,依頼される側が具体を求めているのに,依頼の抽象度が高いとバトンタッチできない。このように考えると,依頼される側の抽象と具体と,依頼する側の抽象と具体という2軸のマトリクス,つまり,4象限でとらえると,つまくいくパターン,いかないパターンが明確になり,各パターンでどのような声が依頼される側から上がるのかもわかる。このような声をとらえ,解消する動きを取ることが,仕事を川上から川下へのバトンタッチする際のポイントと言える。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 トレーニングの必要性

 

3回に渡って確認してきた本書のテーマは,思考の技術,つまり,思考のフレームワークとしての具体化と抽象化,というものでした。「トレーニング」という言葉がタイトルに含まれていることからもわかるとおり,本書では実は複数の問題が提示されています。その問題が適切なのかどうかは,読者によって求めるレベルが違うでしょうし,判断しかねるのですが,抽象化,具体化というものが,思考の技術であるとするなら,使いこなすためのトレーニングが必要だとも思います。

 

実は「思考」と検索してみると,論点思考,仮説思考,批判的思考,論理的思考・・・などなど,それこそたくさんの思考と呼ばれるものが出てくるのですが,それらは「概念や考え方,姿勢や態度」の側面が強いものと,「技術・スキル」の側面が強いものと,大きくは2つに分けられるように思います。

 

前者は,学術用語として利用されるもの,と言い換えられるかもしれません。一方後者は,フレームワークと呼ばれるものがその代表例だと思います。ビジネスフレームワークで言えば,3C,4P,SWOT,ロジックツリー,マトリクスなどなど。これもあげればキリがないほどあるわけですが・・・。

 

後者のタイプは,使うこと,あるいは,使いこなすことが目的なのですから,トレーニングが必要です。足し算というものを知っていることと,実際に足し算ができることとは異なるように,それ自体を知っていること自体は必要ですが,「知っている=使いこなせる」というわけではないわけです。

 

トレーニングが必要なものは,トレーニングをするしかない。

 

具体化と抽象化のようなものは,5分,10分のいわゆるスキマ時間で,トレーニングをすることができると思います。たとえば,具体的な何かを説明しようとするとき,それを別の言葉に言い換えるとどうなるか,あるいは,たとえ話で示すとどうなるか,といったようなトレーニングです。と提案したからには,自分自身がやろうかな,と思っています。散歩しながら・・・。


 20210822

「具体⇄抽象」トレーニング」 細谷 功 ~第2回~

 

<概要>

 考える方法論・フレームワークとしての「横軸」×「縦軸」,「横軸」としての知識・情報の量的な拡大,「縦軸」としての具体化と抽象化

 

1)抽象化とはWhyを問うこと

 抽象化とは,プロセスで言えば,「具体→抽象→具体」という,問題の本質的な解決のための,前半のプロセスと言うことができる。

 抽象化は,さまざまなとらえ方ができる。解釈の自由度を上げ,次元・変数を増やすこと,目的に合わせるということ,1つにまとめて全体を俯瞰できるようにすること,単純化により捨てるということ,一言で特徴をまとめること,具体的なもの同士を線でつなぐこと,あるグループとグループとの間に線を引くこと,などだ。つまり抽象化とは,個別の事象である具体の関係性を表現することだから,Whyを問うている,ということになるのだ。

 

2)具体化とはHowを問うこと

 具体化とは,「具体→抽象→具体」というプロセスの後半のことである。問題の本質的な解決のために,抽象度の高い理論や法則を利用して,具体的なアクションに落とすこと,と言うことができる。

 具体化も抽象化と同様さまざまなとらえ方ができる。まずは,抽象化とはHowを問うている,ということになる。また,抽象化によりグループ化されたものを詳細化することになるから,数字や固有名詞で語ることになり,解釈の自由度は下がることになり,逃げ道もなくすことになる。また,抽象化との対比で言えば,抽象化は共通点を見出すことだから,具体化は違いを明確にすること,と言える。なお,具体化においては,知識や情報量が必要になる。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 具体なものとは?

 

 

課題の解決策を検討しようと,案の洗い出しをしようとしているとき,案自体の具体例を示すことがあると思います。このとき,例として出したことについて,これがおかしい,あれがおかしい,といった意見を言う人が出てきたり,あるいは,例をそのまま実行しようとする人たちが出てきたり,といった経験をされたことがある方は,かなり多いのではないかと思います。抽象度が上がると理解にバラツキが生じるから,それを避けるために,あるいは,そのバラツキを小さくしようとするために具体的な例をあげただけなのに,何だかおかしな事象が生じ,批判が生じ,非難が生じるようになっていく。。。これが筆者の言う,抽象派と具体派の対立の1つだと思います。つまり,このような対立は,本来やりたいこととズレたところで起きている。

 

このような事態が生じる1つの理由は,そもそもの目的に対する共通認識,共通の理解が出来ていないこと,あるいはその理解度のバラツキが大き過ぎることにあるのではないかと,私は思います。もし何らかの目的があって,その目的を果たすために何らかの行動を促しているのに,それがままならないとするなら,目的の理解,あるいは,現状の理解にバラツキがあることを疑った方がいい。

 

では,どうしたら目的の理解に対するバラツキは小さくできるのか? 目的を理解している人が多数派の場合,それに引っ張られるように,目的を理解する人は増えるのかもしれません。同調圧力のようなものがそこにはありますし,多数派の人々が,少数派に個別にフォローもするようになることが予想されるからです。ではそれが逆の場合は? 当然,逆の論理が働いてしまうことになると予想されます。目的を理解している人は,そのレベルの行動をしているか,するはずなのに,目的の理解をしていない人の行動に引っ張られることになる。

 

つまり問題は,どこまで行っても,目的の理解が出来ていない人に,どう理解してもらうのか,ということになる。

 

目的の理解というものは,本来なら,それができる土台を地道に築いておくべきことなのだと思います。しくみ自体の整備もその1つだと思います。ただ,それができていないのであれば,何らかの行動をするしかない。

 

その行動は,具体的なものであればあるほど良いのだと思いますし,具体的な表現の方が良いのだとも思います。

そしてその具体的な表現として最も効果的なのは,恐らく「その人自身に起きる話」なのだと思います。その次が,現実に起きている他人の話。本来は数字も効果があるはずなのですが,新型コロナ関連は,もう難しいかもしれません。数字が示すことに,本来的な意味ではなく,自分が解釈する個人の感覚が意味づけされてしまったから。。。


 20210815

「具体⇄抽象」トレーニング」 細谷 功 ~第1回~

 

<概要>

 考える方法論・フレームワークとしての「横軸」×「縦軸」,「横軸」としての知識・情報の量的な拡大,「縦軸」としての具体化と抽象化

 

1)具体と抽象との関係

今の世の中は,「具体病」と「抽象病」がまん延している。「抽象病」では,行動が伴わない。一方で「具体病」は思考停止した状態。「客観的な一般論に対する主観的かつ個別論からの反論」のような不毛な議論,コミュニケーションの齟齬は,この2パターンの人がそれぞれいて,違う側面を議論していて,そのことに気づいていないから起きている。知的活動には,具体と抽象を行ったり来たりする必要がある。たとえば問題解決で言えば,具体→抽象→具体という形,「縦軸」で思考することで,本質的な解決につながるのだ。

「具体:抽象」とは,「N:1」あるいは,「複雑:単純」といった関係になっている。また,理解できる人数では,「多:少」という関係にある。一方で,「具体:抽象」は,「1:M」という関係でもある。これは,「単体:構造と関係性」,「枝葉:幹」,「自由度小:自由度大」,「公倍数:公約数」,「すべて同等:優先順位有」という関係でもある。 

 

 

<ひと言ポイント>

 

 リスクマネジメントと,その失敗の要因

 

政府の新型コロナ対策分科会が,「東京の人流を5割減らす」との提言を出しました。

これについてよくよく理解すべきなのは,分科会の性質上,「政府に対して示した提言である」という点です。つまりこの分科会は,政府が「実効施策」を検討するにあたっての「目標とすべき数字」を提示している,ということ。この目標の実現に関する政策を示し,実行するのが政府なわけです。

 

たとえば,「政府だけで考えられる具体的なアイデアには限りがある」と考えるのなら,そのアイデアは国会議員や,メディア,民間企業や個人も含め,広く募集すればよいわけです。集まったアイデアから,実効性の高い施策を政府がピックアップして,実行の判断をする。。。

 

このようなしくみを考え,実行した方が,実効性が高いのではないか,と思うのですが,どうなんでしょう? ついでに採用され,効果が出たらいくら,みたいなイベントにしてしまう,とか。

途端に面白いことが起きそうな気もするんですよね。だって,自分が考える具体策で,お金をもらえる可能性があるのだったら,やる人は出てくるじゃないですか。

 

そうやって,みんなを巻き込んでいく施策にしないと,誰かが一方的に発信したって,限界があると思うんですよね。政府の発信力が弱いとか,何とか言っていても,埒が明かないし,そもそも政府の発信が届くような人は,ある程度行動抑制してるんじゃないのかなあ? たぶん・・・。


 20210808

「ザ・会社改造」 三枝 匡 ~最終回~

 

<概要>

 著者によるミスミという上場企業の改革の連鎖の中で起きた現実,プロの経営者として発揮した力

 

1)改革に必要な,新コンセプトと新コンセプトに基づく業務の標準化

 企業規模が大きくなると,オペレーションの外注化が発生する。ただ,組織内で革新への感性まで奪ってしまうほど外注化を進めると,戦略を自律的に切り替える能力まで失うことになる。ミスミでは,カスタマーセンターがその1つだった。全国に点在するセンター拠点,顧客との営業接点における矛盾,仕事を組織間で受け渡すときに責任のなすりつけ合い,といったことが表れていたカスタマーセンターの集約PJは,2度の挫折を経験し,3度目にようやく完遂できたPJとなった。

 1度目の失敗は,コンサルタントにリードされたことが原因だった。わずか3カ月でITシステム化の提案がなされるなど,必要な作業が省略されている状況であった。これを受け,中止を決断せざるを得なくなった。

 1度目の失敗を受け,センター社員に「センター集約の方針の共有し,雇用の保障を約束し,業務委託先には計画が具体化した後にしっかりと説明することを約束すること」から,2度目の挑戦は始まった。しかし,否定されたはずの1度目のアウトプットが引き継がれてしまうなど,指示し,勉強を促したはずの「1個流し」というコンセプトが業務に組み込まれず,工程間の仕事の引き渡しが増え,仕事のムダと滞留が発生する業務のしくみ及びITシステムが作られてしまった。結果,実験段階である小規模3センターの統合時に,生産性の低下が露呈,企画推進サイドと現場サイドとの間に,感情面での軋轢が発生するほどの状況を生んだ。これを受け,センター集約を中止,新センターの業務の立て直しを指示する結果となった。

 改革レベルで必要なことは,新しいコンセプトから業務を組み立て直すことであり,新コンセプトに基づき,現場で試行錯誤を積み重ね,新たな業務標準を組み立てることだ。3度目の挑戦は,企画推進サイドと現場サイドとが一体となった「2度目の失敗の原因分析」から始まった。初動で現場課題の対症療法的な施策の羅列から始めてしまう,出始めた成果を否定するような社員の発生など,起こりがちな課題が発生した。それでも乗り越えられたのは,社員の努力の成果であり,社員のこの業務を通じた成長の結果でもあるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 リスクマネジメントと,その失敗の要因

 

中小企業庁は,リスクマネジメントとは「リスクを組織的にマネジメントし、損失等の回避又は低減を図るプロセス」のことであり,「従来から、企業が意思決定を行う際には無意識のうちにリスクマネジメントを行っていた」が,「以前よりもリスク管理の重要性が増している」と指摘しています。同庁の管轄が「中小企業」である以上,この発信は中小企業に対して行われているものです。ただ同様のことは,家族に親族,学校の他,企業や団体,国の機関に国際機関に至るまで,性質も大小も異なる「あらゆる組織」にあてはまるはずです。同じ社会環境下にあるのですから。

 

では,マネジメントすべきリスクとは,どういったものなのか? 

 

たとえば新型コロナはリスクととらえられます。しかし新型コロナは,過去のある時点では拡大するかもしれないし,収束するかもしれないもの,つまり可能性に過ぎなかったものです。同様に考えると,病気やケガなどを含むありとあらゆるものが,個人のレベルで言えばリスクとしては想定できることになる。これらのリスクをマネジメントする際に問題になるのは,「それが起きる確率がどの程度あるのか?」であり,「それが現実のものになったときに何が必要」になり,「そのために事前に何をしておくのか?」 ということになるわけです。

 

このように見てくると,リスクマネジメントが失敗した場合,その要因がどこにあるのか,分析する視点がわかりやすくなると思います。その要因とは,「1.リスクを想定できなかった」か,「2.そのリスクが起きる可能性を低く見積もった」か,それが起きたときに「3.必要となることが洗い出されていなかった」か,必要となることのうち「4.事前に準備することを決めていなかった」あるいは,「5.決めた準備内容の妥当性が低かった」か,「6.準備することは決めていたのに,それをやらなかった」か,「7.それが起きる兆候を見落とした」か,ということになる。(もちろん,他にも要因となり得ることはあるかもしれませんが。)

 

著者がミスミで推進した「カスタマーセンターの改革」について言えば,経営者としての著者にも,「リスクマネジメントの点では課題があった」と考えられます(それが私の感じる読了感にも影響しているように思います)。

 

そして思うのです。「ひとりで何もかもはできない」と。やはり個人の力には,それがいくらプロであっても限界がある。だから,チームの力が必要だということを。そして,また思うのです。新型コロナの感染拡大について,今のようなドタバタ劇を繰り広げている「要因は何なのだろうか?」ということと,「チームで対応することはできなかったのだろうか?」ということを。


 20210801

「ザ・会社改造」 三枝 匡 ~第4回~

 

<概要>

 著者によるミスミという上場企業の改革の連鎖の中で起きた現実,プロの経営者として発揮した力

 

1)弱点を補強する

 経営統合は,さまざまな目的で行われるが,ミスミの場合は弱点の補強であった。それは,専業商社からメーカー機能をグループ内に持つという判断だった。国際戦略上の最大の制約条件が,最初の海外進出でも明らかになったからだ。従来からの協力メーカーとの経営統合に踏み切ったが,そこに壁があるのは当然だ。実際統合される側にとっては,面白い話ではないし,露骨に態度を見せることもある。その時ほど,経営者の力は試される。

 そもそも会社の危機と,社員が抱く危機感とは逆相関の関係とも言える。市場競争に敏感な成長企業では,顧客や競争相手,世界の新技術の動向など,外の動きに敏感に反応している。一方ダメな会社というのは,社員が「内」の論理で動いているからだ。

 だがそれを訴えても変わらない。そこで必要になるのが,戦略的なアプローチと具体的なアクションを用意することで,既成組織と価値観を切り崩すことだ。そのひとつが改革だ。

 ミスミが取り込んだのは,トヨタ生産方式の導入による生産改革であり,それは,1個流しでの生産だ。トヨタ生産方式を学んでもいない人は,「1個流しなどしたら生産性が落ちるに決まっている」と反発するが,学んでもいない,やってもみていないのに,そう言えるのはナゼなのか? 学んでもいない,その手法を本気で試してもいないから,説明もできない。リーダーがリーダーの役割を果たしていないと,その圧力が本当に身に迫ってきた時になって,本人が「気づいた」「反省した」というケースも起こりがちなのだ。

 「改善したら残業が減り,給料が少なくなる」といった意識レベルの人たちは実際存在する。そこでは,「椅子職人の悲劇」というメタファーが表れている状態とも言える。「椅子を丸ごと一つずつ組み立て,それを売る職人は,顧客満足に敏感だ。しかし分業が導入されると,モノづくりの楽しさを忘れ去られ,顧客満足に鈍感になり,完成した椅子が売れることではなく,賃金がもらえさえすればいいという人が増える。」

 ミスミが取り組もうとした1個流しは,その解決策であり,また,協力メーカーの生産改革のモデルづくりでもあったということだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 スペシャリストにこそ,ジェネラリスト的な教育のしくみが必要?

 

 著者が「椅子職人の悲劇」と呼ぶ状態,日本企業の多くで見られていると思います。

 私は分業自体が悪いことだとは考えていません。「餅は餅屋」という言葉があります。それを分業と言っていいのかはわかりませんが,専門家にその専門の内容を任せることは昔から有効な方法であり,先人たちの知恵だと言える。その知恵は,私たちも使うべきだとも思います。

 

 確かにあまりに進み過ぎた分業には,さまざまな問題を引き起こすとは思います。その1つは,著者が指摘するように,そもそもの目的が忘れ去られる,ということなのかもしれません。もう1つの問題は,特に日本の場合は,サラリーパーソンが,「自分が何屋さんなのか,自覚しにくいこと」と関係していると思います。

 

 日本の場合の就職が,就職と言うよりは就社とも言えるような側面が強いことは,皆さんもご存知のとおりです。ただ,さまざまな業務を担当するようなしくみを機能させることで,「分業であることの自覚=自分1人では何もできない自覚」をすることができたのではないか,とも思うのです。

そう考えると,安易にスペシャリスト的な制度を導入するのは危ないということになる。

 

 恐らく昔の専門家たちには,共通する基本が備わっていたのではないか,と思います。それは,「商売をすること」に共通する一連のプロセス・工程について,各プロセスで労力がかかり,努力が必要であることを,肌感覚でも知っているということです。それを一人ひとりがやらざるを得なかったから,という結果論なのだとは思いますが。

 

 一方で,今のスペシャリストは,「プロセスごとのスペシャリスト」になってきている。すると,それ以外のプロセスについては知らない可能性が高まると考えられます。さらに,専門とするプロセスが提供する価値が,どのようにして顧客に提供する価値となるのか,もわかりにくい。そう考えると,スペシャリストにこそ,ジェネラリスト的な教育のしくみが必要なのかもしれません。


 20210725

「ザ・会社改造」 三枝 匡 ~第3回~

 

<概要>

 著者によるミスミという上場企業の改革の連鎖の中で起きた現実,プロの経営者として発揮した力

 

1)市場を拡大しようとするときには,パワーの集中投下が必要

 海外も含め新市場に進出するには,投資が必要になる。ただそれは上限ありきではない。戦略に依存するからだ。たとえば,海外進出において,日本のビジネスモデルの移築により海外一拠点が立ち上がったのなら,それは他国の立ち上げでも利用可能なモデルになることを意味するからだ。このような戦略性が,以前のミスミには圧倒的に不足していた。

 新市場ではじめて出すものは,チャチではならない。立ち上げ期の顧客の反応は,後々まで尾を引く。いったん興味を失った人は,余程のことがない限り戻ってこないし,1回目でネガティブ体験をすると,2度と買わないどころか,市場の中でネガティブ顧客となってしまうからだ。よって事前に,事業として必要な形をそろえるのに,どの程度のマンパワー,キャッシュが必要なのか,そして,利益化のタイミングがどの時期になるのか程度の予測が必要になる。

 このように見てくると,何らかの制約条件,あるいは,要求事項がある場合でも,それが無理であるなら無理であると言うのが,リーダーの役割であることもわかる。無理だとわかっていても突き進み,最後に破たんしたのでは,会社の戦略に傷をつけることになるからだ。これは,早期の抜擢人事などを行う際の注意点でもある。責任が上がったのに,下位のポジションの思考や行動を持ち込むケースが多いことから,無理を無理と言えないケースがあるのだ。その時に有用なのは,時間軸の解放,つまり期限の解放なのだが,重要なのは,「会社の戦略に傷をつけない,傷つけさせない」ということであり,それに気づかせることなのだ。

 なお海外進出の場合は,技術流出の問題もつきまとう。たとえば,品質向上のしくみを教えれば,それはやがて自社の脅威となる。このような視点を持つことも,戦略性の1つである。たとえばその対抗策として考えられる1つの方法が,日本の協力メーカーを進出先に集める,という方法なのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 新しい言葉をつくる

 

 戦略や戦術といった言葉は,ほとんどの社会人が聞いたことがある言葉だと思います。ビジネスの場面では頻出しますし,ゲームやスポーツなど,それこそさまざまな場面でも使われているからです。もちろん,「戦」とつくのですから,元々は軍事用語です。

 

 このような「ほとんどの人が知っている」言葉には,メリットがあります。それは,「少なくとも大まかには」,共通の認識を得やすいという点です。

 

 一方で,当然のようにデメリットもあります。同じく戦略や戦術といった言葉を例に考えると,これらの言葉は,本来の意味からすると明らかな「誤用」が頻発している,という点です。つまり,誤用を正しい用法として認識されている可能性があるわけです。すると,「それが意味することを,それぞれの理解の中で解釈してしまう,解釈されてしまう」ことになってしまう。つまり,実際にはよくわかっていないのに,わかった気になってしまう,あるいは,実際にはわかってもらえていないのに,わかってもらえたように感じられてしまう,ということです。

 

 2つの言葉が同時に使われていれば,あるいは,同時に使えるなら,その位置づけの違いは意識しやすいと思います。

 

 ただ,どちらか一方しか使われていない場合,「どういう意味で使っているだろうか」と,聞く側の場合では思ってしまう。そう思う人はいいのですが,そうは思わない人たちもいるわけで(その方が圧倒的多数かもしれません),すると意味理解に幅ができてしまうことになる。だから,手垢がついている言葉は,実は非常に使いづらいのです。

 

 そんな手垢のついた言葉はたくさんあると思います。

 そして,実は「人権」という言葉は,そんな言葉の1つなのではないか? と思うに至ったのですが,どうなんでしょうか? それを認めるのは,極めてさみしいこと,なのですが・・・。


 20210718

「ザ・会社改造」 三枝 匡 ~第2回~

 

<概要>

 著者によるミスミという上場企業の改革の連鎖の中で起きた現実,プロの経営者として発揮した力

 

1)強烈な反省「論」とは,「個に迫る」こと ~ 「個に迫る」から始まる戦略立案

 ミスミの改革では,ファクトリー・オートメーション(FA)事業部とした。理由は,事業として伸び盛りであること,と,何より事業部長が磨けば経営人材になりそうであったからだ。絶対的な最優先事項として改革を受けて立つリーダーが必要だからだ。

 改革では,1枚目=強烈な反省「論」が何より重要だが,そのポイントは「個に迫る」こと。事業全体の売上・利益を見ていても,改革はできない。問題の核心に迫れないからだ。個別の問題を,何らかのフレームワークを使って整理することで,「共通する問題」が見えてくる。

 FA事業部の場合は,目標を持たないこと,が問題点だった。良い顧客と悪い顧客,良い商品と悪い商品を「語れない」のは,個別の,また,目標に対する営業損益が不明だったからだ。これを明らかにするフレームワークとして,ABC(Activity Based Costing)分析を使い,その上で,PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)に商品をプロットした。

 戦略とは,定義した市場の中でNo.1になるための将来予測だから仮説である。仮説だからこそロジックが必要になる。No.1である商品,No.1にする商品に注力するのだから,過去・現状は押さえつつ,将来の市場動向,競合との関係が考慮される必要がある。だから,ABC分析とPPMが,フレームワークとして有効なのだ。

 このような,自分の「基軸理論」を持つことは非常に重要だ。この基軸理論を活用できることが経営リテラシーである。

そして,打ち手として,自社の強みを強化し,弱みを減らせる具体策を考えるのだ。つまり,どんな価値を顧客に提供し,何が提供できていないのかを整理し,それを伸ばす・解消するための具体的なアイデアを出していくことになる,ということだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 反省だけなら・・・

 

 本書で著者が指摘している,強烈な反省「論」の重要性は,私たちにさまざまな問いを投げかけているように思います。その昔,「反省だけならサルでもできる」というキャッチコピーが流行ったことがあります。しかし,もしかしたら反省すらしていないのかもしれません。と言うよりは,スピードが速く,多くの情報があふれているから,フローでさばくことに終始していて,反省することすら意識的にならないとできないのかもしれない,ということです。

 もちろん,どうでもよいことはそれでいいのかもしれません。しかし,本当に必要なことであれば,そういうわけにはいかない。しっかりと振り返り,将来に向けてどうした方がいいのか,そして,実際それをやるのかやらないのか,判断することが必要になる。それが本書が指摘する強烈な反省「論」であり,その具体的な方法の1つが提示されているのだと思います。

 

 さて,この場では取り上げないのですが,実は本書ではABC分析について1章分を割いています。そこでは,具体的なステップの踏み方の他,分析結果明らかになった商品別損益・顧客別損益が社内の感覚値とは大きくズレていたこと,それどころか,「ドル箱商品だと思っていたものが赤字を累積させていた」といったことが明らかになったという事実,一方で,それをやること,使い続けることは,非常にパワーがかかることであることも,同時に説明しています。

 

 実際,私自身にはその経験があるのですが,正直相当なパワーがかかります。やることは,「業務プロセスとそこでかかるコストを明らかにし,それを商品・サービスと対象顧客に紐づけ」て,そのデータを使って,商品別収益,顧客別収益にまとめるだけ,です。しかし,そもそも必要なデータが,そう簡単には入手できない。それ以前に,業務プロセスとその役割が不明確,データは紐づけ用のキーがつけられていない,そのデータをとっていない,といったことが起きます。

 

 実際のところ,もしABC分析にすぐに着手できるという状態であるなら,その会社・事業の「データ管理」は極めて高いレベルにあると考えられます(試しに,ご自身の会社や,ご自身が関わっている商品・サービスについて確認してみては?)。仮に現場を巻き込めば補完できるとするだけでも,平均を大きく上回っていると言って差し支えないと思います。

 

 「やるなら,相当の覚悟が必要な代物」というのが,ABC分析というものです。

 

 加えてもう1つ。1度だけABC分析をやるのは,パワーという意味ではまだマシです。これを運用の中で行えるようにするには,さらにハードルがあります。これは,ABC分析に限らず,一般的な「PJから実運用に切り替えたときに起きること」を想像すればわかるのではないかと思います。どうせやるなら 「しくみ化までする覚悟」が必要だ,ということです。効果が半減どころか,大幅に少なくなります。

 

 それでも「やる」という決断をできるのは,その有用性を理解している人,そして,本気で会社に向き合っている人だろうとも思います。「ドル箱商品だと思っていたものが赤字を累積させていた」といったことが明らかになるなら,それは是が非でもやりたいですから・・・(やるなら,お金の面で,ある程度安定しているときの方が良い,とも思います)。


 20210711

「ザ・会社改造」 三枝 匡 ~第1回~

 

<概要>

 著者によるミスミという上場企業の改革の連鎖の中で起きた現実,プロの経営者として発揮した力

 

1)プロの経営者とは?

 著者が目標として定義するプロ経営者とは,「問題の本質を短期間で発見,シンプルに説明し,それをもとに幹部・社員の心と行動を束ね,成果を出せる。それをどこの企業ででも通じる汎用的な経営スキル,戦略能力,起業家マインドとして蓄積し,その裏づけとして『過去にあったこと』としてフレームワーク化され,常に同様の判断と行動ができる」人である。そのために著者が磨いたのは,シンプルな戦略ストーリーとしてまとめ,組織・ビジネスプロセスに落とし,変革を進められる人を見極める力である。

 

2)ミスミの強みは,強みとして整理・浸透していなかった

 ミスミの強みは社内では「標準化」と語られていた。それは,顧客が一つひとつ特注の金型だと思っていたものを,カタログから選べるようになり,標準部品と同様に扱えるようになったということだった。ただミスミは,これをモデルとして整理・構造化し,強化の戦略を描く前に,しくみのみを利用した多角化に着手した。結果,それらは事業のシナジーが得られるような多角化ではなく,米国進出と居酒屋向けタコ焼き販売が同列で,かつ,同じ担当者が説明するレベルでもあった。このような社内の多角化ブームにより,本業が最小の陣容となり,競合にシェアを奪われる事態も発生していた。

 

3)改革は,1枚目,2枚目,3枚目を考え抜いてスタートする

 商売の基本サイクルは,創る・作る・売る,だ。その高速化は,カンバン方式やサプライチェーンにも見られる思想であり,企業競争力の原点だ。ミスミの強みとは,「QCT(Quality・Cost・Time)を軸に,顧客サイド(=フロントエンド)と調達サイド(=バックエンド)とが連動する事業モデル」であり,創る・作る・売るの高速化のモデル・構造として整理できる。

 事業モデルが構造として整理できておらず,社員に理解されていない場合,総合戦略を描けていない可能性が高い。実際ミスミでは,自社の事業モデルが構造化された形では認識されておらず,それを強化する戦略も活用する戦略も描かれていなかった。その結果として,8つの弱みが露見される状況にまで陥っていた。

 このように改革は,現実直視・問題の本質の切り出しに始まる強烈な反省論(=1枚目)を原点とし,対応させた戦略・シナリオ(=2枚目),具体的な工程表であるアクションプラン(=3枚目)を,考え抜いた上で進めていくものだ。そして改革は,1枚目で勝負が決まる。

 ミスミでは,先の1枚目をもとに,2枚目の戦略マップは,横軸にフロントエンド改革とバックエンド改革,縦軸に成長と仕事の質と効率化を置き,マッピングした。このマッピングから,具体的な改革のアクションを取っていった。その際の目標として,「経営者人材の育成」があり,方針として「Do it right!」があった。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 強烈な反省「論」

 

 本書は,ミスミの名誉会長である三枝氏による,ご自身のミスミ社長就任に始まるミスミ社改革の物語であり,経営指南書です。支援している企業の社長からお借りし,読んだ本ですが,いろいろな意味で非常に興味深く読むことができました。

 

 たとえば,本書は三枝氏ご自身の体験を書かれている本ですが,社員の方からコメントも一部取り上げるなど,視点の偏りに対する著者としての配慮がうかがえます。また,経営者が押さえるべきポイントを明示的にする,三枝氏がフレームワークとして利用しているものの解説など,本書の構成上取り入れている手法も読者への配慮,ととらえられますし,手法として面白いと思いました。拾い読みもできる,ということですね。

 

 さて今回取り上げたのは,この書の冒頭部分,三枝氏が社長就任要請を受ける前後,ミスミ社の現状把握を,三枝氏自身が行ったタイミングの出来事です。

 

 ここで三枝氏は,経営者は謎解きが勝負,という言い方をされています。この謎解きとは,もちろんご本人がその謎を解くこと(=状況を適切に把握すること)でもあるのですが,解いた謎について「共通認識が持てる形でまとめる」というところまでを含めていると考えられます。ヒト・モノ・カネを動かす経営者ですから,当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが。

 

 そして,謎解きに利用するのが,過去の経験を踏まえた「フレームワーク」と三枝氏が呼んでいるもの。

 

 私はこの方法に強く共感します。と言うのも,一般的にはフレームワークがあった方が,圧倒的に考えやすいですし,生産性が高いからです。自由に考えろ,と言われると,かえって考えにくい。そして三枝氏は,考え方やものの見方なども「フレームワーク」と呼ぶと言っています。思考・判断や危機察知の枠組みは,すべて「フレームワーク」だと,言っているわけです。

 

 そんなフレームワークのうち,本書における最重要フレームワークは,「1枚目,2枚目,3枚目」と呼ばれるフレームワークであり,特に1枚目と言われている,強烈な反省「論」だと考えられます。強烈な反省ではなく,強烈な反省「論」とされている点がポイント。つまり,現状把握において,「論理が構築されている必要がある」ということです。(さらに言えば,現状からもスタートしてはいないのですが,これはまたおいおい)。

 

 これは非常に重要です。反省点の羅列ではダメで,シナリオになっている必要があるということだからです。

 

 そして,「1枚目とは,戦略を描くということに向けた,実践的なトレーニングの場でもあるのだな」と思います。「既に起きていることならば,条件さえそろえば,シナリオを描くことはできるはず。それが描けないとしたら,戦略も描けない」ということになるはずだからです。

 

 「戦略立案のトレーニングをするのなら,

  強烈な反省「論」づくりのトレーニングをせよ!」

 

 それは,ものすごく具体的で効果の高いアドバイスだと,私は思います。


 20210704

「打者が嫌がる投球論 投手が嫌がる打撃論」 

 権藤 博,二宮清純 ~最終回~

 

<概要>

 投手出身の権藤氏のモノの見方,ピッチャー目線の打者論とバッター目線の投手論,二宮氏との対談

 

1)嫌なピッチャー

 インステップする投手は嫌がられる。典型は藤浪投手であり,それは彼の良さとしてとらえることができる。

 たとえ160Kmの球速を誇り,変化球を交えたとしても,プロのレベルならついてくる。打者は,腕の振りを見てタイミングを合わせる。速い球でなくても,鋭い変化球でなくても,タイミングが合わなければ打たれない。だから投手に必要なのは,打者のタイミングとのズレを生み出す独自の「間」なのだ。

 間という意味で考えると,常識とされている「低めに集めろ」が間違いであることがわかる。もちろん,レベルの低い打者ならそれでいいかもしれない。高めの甘い球しか打てないからだ。けれど,間,つまり打者とのズレを考えれば,高め,低め,内,外というようにして,ズレを生むことが必要になることがわかる。一方で,投手は4隅を狙うと自分を苦しくする。だから,投手に求められるコントロールの良さとは,ストライクゾーンを4分割して投げ分けるレベルだと考えられるようになる。

 選手を使う側は,球速も含め,このような基礎的素養はもちろん見ている。ただ,間はブルペンではわからない。また間というものは,自分で試し,勝ち取るしかない。色々な考え方を聞いた上で,気づきを得,最後は自分で判断する。自分で判断できるから,一流になれる。投手は弱い。捕手に頼りたくもなる。ただ,最終的に体を張っているのは投手なのだ

 

2)教えるべきは戦い方

 多くの打撃コーチは,育てることばかりを考えている。しかし実際に教えられるのは技術ではなく戦い方でしかない。投手は外に投げたがる。それを狙われないために内に投げる。だから,その内を打者に捨てられると投手は困る。このように,どうしたらその投手が困るのかを考え,打ち崩す術を提示するのが打撃コーチであるべきなのだ。同様に,投手はファウルが増えると,甘い球が行く可能性が高まる。だから打てる,打たれる。こういった事実を学ぶ必要がある。

 投手コーチが教えるべきは,いかに打者にフルスイングをさせないか,という戦い方だ。また,ゲームの特徴を押さえることも戦い方だ。たとえばフォアボールを恐れないこと。いくらランナーを出しても,ホームに返さなければいい。それが戦い方だというものだ。

 プロ野球選手というのは,文字通りのプロであり,球団と契約している個人事業主だ。成長するもしないも自分の責任だ。だから,今の状態でどういう生き方があるか,それを探し,導くのが指導者の役割だ。戦い方を考える,刷り込まれ続けた固定観念から解き放つのが,本来の指導者の役割なのだ。そして,その責任を持つのも指導者だ。「どうしましょう?」に責任はない。「こうしましょう」には責任が生じる。それが,権藤氏がすべてのサインを出していたのか? という理由でもあるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 データを見るということ

 

 プロ野球,特に米メジャーリーグでは,とにかくデータが利用されています。古くは1970年代にセイバーメトリクスという言葉が生まれ,2015年にはスタットキャストと呼ばれるデータ解析のしくみが,すべての米メジャーリーグの本拠地球場に導入されているほどです。

 

 一方で,本書の中で権藤さんは,データは見ない,と言っています。「そうなんだ,ぐらいでしか見ない」と。しかし,本当にそうなのでしょうか? 私には,データを見ているとしか思えない。と言うよりは,私が言っているデータを見ることと,権藤さんが言っているデータを見ることは,恐らく違うことを言っているのだろうと思います。

 

 どういうことか?

 

 権藤さんの中にはセオリーがある。それらのセオリーは決して思いつきではなく,ご自身が経験された数多くの現実の場面と結びついている。多くの人は,それを1:1でとらえがちだけれど,そこから共通の何かを導き,セオリーととらえているのが権藤さんという人だ,と思うわけです。

 実際本書の中でも,それは随所に確認できますし,その上で,一般事例と例外事例(統計学で言うところの外れ値)との区分けも行っている。つまり,権藤さんという人は,データをむしろ徹底的に見ているということになるわけです。そもそも,数多くの現実の場面と結びついている時点で,それはデータを活用しているということですし・・・。

 

 ここからは推測ですが,恐らく権藤さんが言っている「データは見ない」という文脈で語られているデータというのは,「どんな仮説に基づいているのかわからない,ただ集約あるいは集計されただけの数字」ということなのだと思います。

 

 これは「マネジメント」や「プロフェッショナルの条件」で有名なドラッカーが指摘していることなのですが,本物のデータ分析者は,ただ集約されただけ,あるいは集計されただけの数字を疑うと言います。データを分析しても,それが何らかの課題を解決できないならば,その分析には何の意味もないということを知っているし,そもそも,データ分析自体,何らかの課題を解決するために,あるいは,仮説の検証のために行うもの。だから,背後の目的がわからない数字は,疑って見ることになる。権藤さんの「データは見ない」というのは,そういうことなのだろうと理解できる。

 

 そう考えると権藤さんという人は,プロのデータ分析者の視点を持つ人であり,プロとは言えないようなデータ分析者が多いことを知っている人であり,そのようなデータ分析者をいさめる発言をしている人,ととらえられるのかもしれません。

 

 本書の中で,二宮清純氏が,野村さんと権藤さんとは「共通する野球観がある」との指摘がされていますが,データに対する視点という意味でも,表現方法が異なるだけで共通しているのではないかと私は思います。


 20210627

「打者が嫌がる投球論 投手が嫌がる打撃論」 

 権藤 博,二宮清純 ~第1回~

 

<概要>

 投手出身の権藤氏のモノの見方,ピッチャー目線の打者論とバッター目線の投手論,二宮氏との対談

 

1)嫌なバッター

 投手は打者を倒さなければ商売にならない。だから,打者を観察して,どうしたら痛い目に遭わないかを考え抜く。打者は3割打てば一流。一方投手は2割程度に抑える必要がある。だから投手の方が,リスク回避志向が強い。

 ピッチングコーチの立場では,データほどあてにならないものはない。データが当てはまるようでは,プロで飯は食えない。だから,その日の相手打者の状態を見るのが重要なのだ。打者はわざとファウルは打てない。いいところに投げた球をファウルにする打者は調子がいい。そうでない打者は前に飛んでアウトになる。つまり,ファウルには,打ち損じのものと,打ち損じではないものとがある,ということだ。これが1つのリスクを見極める視点だ。

 打者の生きざまで,リスクの見方は変わる部分もある。基本は,2割5分の打者が3打数ノーヒットなら,4打席目は確率的に危ないと考える。一方,お調子者タイプだと,それが当てはまりにくい。どの球種を打つか絞っている打者も嫌。打てる球だけは絶対打つというタイプ。打者出身のコーチは,自分の責任になるから見逃し三振を嫌がるが,平然と見逃し三振をするタイプは嫌なのだ。次打席に向けて投手に考えさせる効果もある。実はこれは野村克也氏の野球観と重なる。野村氏は見逃し三振なら問題ないと考える。つまり権藤氏と野村氏は正反対のようで,共通する野球観があるのだ。だから野村氏は,権藤氏を挑発するような言動をしたのかもしれない。気になる相手だからだ。

 難しいインコースのボールは,基本みんな打てない。センター方向から球は来るのだから,センター方向が一番素直なバッティングだということだ。インコースを打つには,ポイント前,腕をたたむ,となる。それをやると,ポイント後ろ,腕を伸ばすのアウトコースが打てなくなる。つまり,インコースを打てるようにすると,バッティング自体が狂うのだ。だからいいバッターの条件とは,インコースが打てないことを見せないことなのだ。勝負強い,勝負弱いは,たまたまに過ぎないと考えるべきだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 経営者的な見方

 

 権藤さんという方は,ご自身の指導スタイルを奔放主義と呼んでいるそうですが,そのスタイルはプロ野球界でも異質とされているようです。ただ,その指導スタイルには論拠があると私は感じますし,本著における主張をみても,そこに論拠があることがわかります。

 一方で,他の方の指導スタイルに論拠がないかと言われれば,必ずしもそういうわけではないのだろうとも思います。

 では,どこから異質とされるほどの差異が生じるのか?

 

 それは見方,視点の違いなのだろうと,私は思います。

 

 アマチュアレベルとはいえ,私自身が投手出身なのでわかる部分があるのですが,投手というものは自分の理想とする投球論にあたるようなものを皆,持っています。それができるようになるために,練習をする。力を伸ばそうとする。

 ただ,実際の試合は打者との関係で勝敗が決まります。つまり,仮に理想通りに投げられても打たれることはあるし,理想通りでなくても打たれないこともある。打者との相対性なわけですから,打者のことがわかれば,その勝負に勝てる確率は圧倒的に高まるはずなのです。

 

 この主張,当たり前と言えば当たり前です。ただ,そのスタイルが異質と言われるように,言われていることは当たり前なのに,実際には誰もできていない。

同様のことは,野球界に限らずたくさんあるのではないか,とも思います。

 もちろん,プロのレベルでの指導と,アマチュアレベルでの指導とでは,大きく異なるはずです。打者のことを意識する前に,自分のレベルを上げなければ話にならない。ただプロのレベルで,基礎基本の指導が本当に必要なのか? いろいろな見方,考え方を教え,どれを選択するかは本人に任せる。その結果責任は自分に降りかかる。それがプロとして飯を食っていくということ。

 

 このような権藤さんの考え方は,経営者の経営者的考え方だし,物事の見方だなと思います。


 20210620

「世界の今を読み解く「政治思想マトリックス」」 茂木 誠 ~最終回~

 

<概要>

 マトリクスを利用した世界の今の整理

 

1)経済的思想,政治的思想を,2つの軸として整理する2

 「経済的平等か自由か」をx軸に,「政治的にグローバリズム(個人)かナショナリズム(国家)か」をy軸におき,各思想のポジションを整理するとどうなるか?

 中東を理解するキーはイランにある。中東の3大民族は,イラン人,アラブ人,トルコ人だ。古代イラン人はゾロアスター教信徒だった。列強の進出に伴うイスラム教への改宗の波の中で,イラン人が受け入れることができたのが,イスラム教の中では1割と小数派の血統重視のシーア派だったのだ。一方で,イスラム教の多数派は,経典重視のスンナ派だ。

 欧米の進出により近代化を実現したが,その結果イランでも格差が拡大。この結果への反発がイラン革命を生んだ。元々イスラム教は,「アッラーの前での平等」という考え方を重視していることが大きな要因だ。イラン革命の成功により,イスラム法学者がイスラム経典を解釈できる人材として,最高指導者に就いた。そして,自らの世界観をグローバル化することを志向している。イラン国内の問題だけでなく,それが他の革命と同様の過激さを持っていること,他国の少数派と結びついていることが問題となっているのだ。

 

2)戦後の日本

 戦後の日本は,アメリカの従属国として始まった。実際,外国軍隊の駐留を許しているということは,国際的には保護国の扱いだ。その中で,二大政党体制である55年体制が生じる。一方は,経済的平等とナショナリズム志向を持つ日本社会党だ。他方は経済的自由を志向しつつ,ナショナリズム志向を持つ吉田茂の日本民主党(後の宏池会,親米佐藤栄作G)と,グローバリズム志向を持つ鳩山一郎の自由党(後の清和会)との2党が合流した自民党だ。自民党内に派閥があるのは,55年体制への移行前の名残という側面もある。また,吉田茂の後継者だった池田勇人が平等志向の政策である所得倍増計画で労働者階級の取り込みに成功,それを日本海側に拡大したのが田中角栄(経世会)なのだ。そして,小沢一郎氏がよりグローバリズム×平等を志向し立党したのが民主党,経世会と小沢新党とのバトルで生じた政治不信に乗じ,経世会潰しに動いた小泉政権,だったのだ。北朝鮮拉致被害者帰国を実現した功績で第一次安倍政権が発足,一度はやらせた民主党政権,そして,第二次安倍長期政権とつながっていったのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 考える材料

 

 考えるためには,大きく2つの材料が必要なように思います。1つは知識。もう1つは思考のフレームです。

 

 たとえば,成績を上げることを考える,という場合,そもそも何の成績を上げるのか,その対象について存在として知っていることは何か,その何かについてできることは何か等々,といった知識が必要です。ただ,こういったことを洗い出そうとしたとき,むやみやたらに洗い出そうとしても効率が悪い。そこで思考のフレームを使う。5W1Hなども思考のフレームのひとつですし,教科書やテストの結果といったものを利用するという方法も,全体とすることを決め,それをブレイクダウンしてチェックするという思考のフレームととらえることができると思います。

 

 課題の解決に向けても,知識と思考のフレームは使えます。「どうしたら,成績は上がるものなのか」ということについてなら,教科書などを読む,それを書く,整理する,問題を解く,といったことが,成績を上げるために必要なことだという知識を使って,その活動を,実際に行っていけるよう,目標設定やスケジューリングといった思考のフレームを使い,実際にその行動を起こす。

 

 本書が提示しているのは,世界の政治思想という知識と,マトリクスという思考のフレームを利用した整理方法です。つまり,考えるための2つの材料を提供していると思うわけです。もちろん,知識面の材料は不足しているかもしれませんし,その知識自体も正確なものではないかもしれません。正直,私自身「あれ?」と思う点もあります。がそれでも,知識をマトリクスで整理することで,「自分の頭で考えるとは,こういうことか?」という,1つのアイデアを提示してくれていると私は思います。

 

 そして,より大切なことは,自分が持っている知識をマトリクスで整理するとどうなるか,実際にやってみることではないかな,と思います。それなら,いつでもどこでも,今,自分が任されている業務を行いながらでも,「頭のどこかでは考えていられるのではないかな?」と思うのです。


 20210613

「世界の今を読み解く「政治思想マトリックス」」 茂木 誠 ~第3回~

 

<概要>

 マトリクスを利用した世界の今の整理

 

1)経済的思想,政治的思想を,2つの軸として整理する2

 「経済的平等か自由か」をx軸に,「政治的にグローバリズム(個人)かナショナリズム(国家)か」をy軸におき,各思想のポジションを整理するとどうなるか?

 EUの場合:第二次世界大戦でおびただしい犠牲を出したヨーロッパの1つの目指す姿は平和。その思想は,平等×グローバリズムと平等にポジショニングできる。これは基本的に独・仏が指向しているものに非常に近い。と言うよりは,特に独には,EUの共通通貨であるユーロの存在により,輸出で儲けられるという強力なメリットがあるのだ。EUには相対的に貧しい国も含まれ,結果,ユーロも相対的に安くなるからだ。

 一方英国は,自由×ナショナリズムを指向している。主権国家であることがまず重要なのだ。移民問題や,財政健全化問題で,EU完了の専制的な態度に猛烈に反発した。これが,ブレグジットなのだ。

 独・仏の現首脳は,自由×グローバリズムのポジションにある。これが移民受け入れの背景でもある。つまり,安価な労働力としての移民が重要なのだ。一方で,移民受け入れを拒否しようとする動きが台頭。これが,ナショナリズムと手を結びつつあるというのが,独ではドイツのための選択肢,仏ではルペン率いる国民連合といった,極右政党と呼ばれる政党の台頭なのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 将来像というもの

 

 財務諸表というものがあります。企業の経営状況を把握するためのものです。BS,PL,CFで構成されるそれは,BSがワンショットの状態,PLがその期間の2つのBS間をつなぐ変化の様相,CFが運転資金の状況を説明しています。経営者という方々が何らかの判断をしようとするとき,これらを事実の1つとして利用しています。そして,考えることは大きく2つ。その1つは,日々が回るのか。もう1つは,どこに投資するかです。

 

 本来企業が投資したい対象は,数えきれないほどあるはずです。別に既存事業を強みにすること自体が目的ではないのですから。ただ,勝とうとするなら,勝てる確度が高い対象に投資するのがセオリーです。使えるお金も時間も限られているのですから,自然と自分たちの強みを活かそうとするわけです。そして,自分たちの目指す姿の実現に向けて投資をする。誰も自分たちが目指さない姿の実現に投資なんかしません。

 

 そう考えると,自分たちが目指す姿があること,自分たちの強みが何かがわかっていること,が,最低条件になるはずですし,その姿に対して,今,どこにいるのかを把握している必要があるはずです。その上で,「現状から,こうして,これが実現できれば,こうなるはずで,さらにこうして,これが実現できればこうなるはずで・・・」というストーリー・シナリオが描けることになります。

 

 もちろん,根拠がなければただの妄想。けれど,根拠があれば成長戦略です。

 

 菅首相は,デジタルとクリーンエネルギーを成長戦略と位置づけています。しかしそれは,戦略と言うよりは,戦術でしょう。まずは,どういうポジションを獲得している状態になるのか? 日本で暮らす人々はどういう状態になるのか? BSで言えば,将来のBSがどうなっているのか? があって,何をヒト・モノ・カネにおける強みとして活用して,そして伸ばして,その状態を実現するのか? それが戦略というものでしょうし,だからこそ,ストーリー・シナリオとして語れることになる。

 

 こういったことを,個人も考える必要が出てきている,と私は思います。考えるにあたっては,意外に思うかもしれませんが,ビジネスフレームワークが使えます。たとえば,SWOTやビジネスモデルキャンバスなどは,その典型。収入源という視点で行けば,PPMのフレームも使える。ただ,こうしたものを使うためには,「○年後,こういう状態になっている」がどうしたって必要なのです。


 20210606

「世界の今を読み解く「政治思想マトリックス」」 茂木 誠 ~第2回~

 

<概要>

 マトリクスを利用した世界の今の整理

 

1)経済的思想,政治的思想を,2つの軸として整理する

 「経済的平等か自由か」をx軸に,「政治的にグローバリズム(個人)かナショナリズム(国家)か」をy軸におき,各思想のポジションを整理するとどうなるか?

 アメリカの場合,オバマ民主党は平等×グローバリズム,トランプ共和党は自由×ナショナリズムにマッピングできる。前者は金融資本が支持層であり,後者は製造業が支持層となる。

 中国の場合,経済的平等は共通するが,毛沢東はナショナリズム,それを継いだ鄧小平がグローバリズム思想で近代化させ,習近平はナショナリズムに回帰している。これは中国という国の成長段階上のポジショニングととらえるべきでもある。

 旧ソからロシアの場合,世界の経済的平等を理想としたトロツキーに対し,一国社会主義という現実路線をとったスターリンからの流れが旧ソ崩壊まで支配,エリツィンがIMFの要求を丸呑みするか形でその対極的立場をとって,ロシア経済の立て直しをはかり,その後プーチンが強いロシアの復活を目指し,スターリンと同様の立場を取っている。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 対立軸を作るということ

 

 対立軸を作ることは,自分の主張が優位であることを喧伝するための常套手段でした。特に政治の世界では非常によく使われる手法で,言っていることに大した違いはないのに(と言うよりはむしろ,まったく違いがない場合もある),大きく違っているように見える工夫を,対立軸を作ることで明確にしようとしていた,と言っても良いのかもしれません(ヘタをすると,その主張は対立候補より劣っているのに,違いがある,優位になっているように見せることが上手い方もいます)。

 

 対立軸が明確になると,比較がしやすくなります。たとえば,「あなたと私,何が違うんだろう?」ということを考えようとしたとき,「確かにあなたと私は違うけど,似ているところもたくさんあるよね!」というような話になった経験がある方も多いのではないか,と思います。と言うよりはむしろ,本当は違う部分があるのに,「あなたと私は同じだと,主張するようにしている」のが,現代の特徴なのかもしれません。

 

 本来違いがあって当然で,違いを明確にできるから,解決すべき課題も明確にできるはずなのです。ところが目指している状態,理想の姿が「あなたも私も同じ」ということと,現実の状態として「あなたと私とが違うこと」とを区別して話をしない場合が多い。すると,解決すべき課題が明確にならないから,課題は解決できず,結果いつまでも理想とする「あなたも私も同じ」という状態にはならない。

 

 このようなことが起きてしまう原因の1つは,理想の姿のことを言っているのに現実の状態のことのように(あるいは,現実の状態のことを言っているのに理想の姿のことのように),勝手に編集する人がいるからなのかもしれません(一部を切り取るのは反則技だと思うのですが・・・。)

 

 そして,だからなのかもしれませんが,昨今は政治の世界であっても,どうもその対立軸自体もふらふらしていると言いますか,設定できていないように感じます。もっと言えば,対立軸をあえて作らなくても別に構わないのかもしれません。何にでも「反対!」と言っておけばよいと言うか。。。でもそれって,主体性を発揮する能力がないことを証明しているようなものだ,と私は思います。その人に,主体性を発揮する仕事を任せることはできない,と私は思うのですが・・・。


 20210530

「世界の今を読み解く「政治思想マトリックス」」 茂木 誠 ~第1回~

 

<概要>

 マトリクスを利用した世界の今の整理

 

1)右派・左派とは? ~前提とするのは対立構造

 政治思想を説明する上で,もっともベーシックな対立構造は右派vs.左派で,これは保守Vs.革新という対立構造だ。保守とは,伝統を重んじる考えであり,それを支持する人々だ。一方革新とは,旧体制の打破を目指す考えであり,それを支持する人々ということになる。右派Vs.左派という対立構造は,フランス革命期の時代,議会の右手に保守派が,左手に革新派が,それぞれ着席したことに始まる。当時の保守とは,王政を重んじる保守主義だったから貴族階級が支持基盤であり,革新は,個人の自由を優先する自由主義だったから民衆が支持基盤だったということだ。

 貴族から地主へ,地主から産業資本家へと,産業資本家から民衆へ,と,権利の平等が拡大すると,民衆の中にも対立構造が生じることになる。例えばイギリスにおける政治思想の対立は,右派の支持層は地主で,地主だから保護貿易を支持することになり,左派の支持層は産業資本家だから,自由貿易を支持することになる。このようにして対立構造は生じるのだ。

 対立構造の発生についてもう1つ重要なのは,宗教だ。キリスト教では禁欲が是だ。カトリックは,お金は教会に寄付,免罪符をもらえれば,罪が許されるという考えだ。一方プロテスタントでは,蓄財は罪だが,一生懸命働いた結果,そのお金の使い道として「投資することだけ」は許された。カトリック中心の国で経済発展が遅れ,プロテスタント中心の国で産業革命が起こった背景でもあり,また,金融業の発達した理由でもある。

 このような歩みを進めると,いずれに格差が生じることになる。その結果生まれたのが,経済的平等を主張する社会主義だ。そして経済的平等を実現するには,労働者階級が権力を持つ必要があるという考えが生まれたのだ。その理想を体現した国として,旧ソ連に世界中が憧れを抱いた時代があったのだ。これに対しアメリカで生まれたのがリベラルだ。ここで言うリベラルは,資本主義的発展で得られた富を,税金や社会保障費などの形で徴収し,再分配することで格差をなくそうとする考えだ。これに対して,個人のあらゆる自由を重んじるリバタリアニズムが,古典的な自由主義を言い換える形で登場しているのが現代だ。そして,経済的な発展を,国中心で考えるのか,個人中心で考えるのか,ということが,グローバリズムとナショナリズムの対立を生んでいるととらえられることができるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 知識を整理する際の手法

 

 ある物事について,その詳細はともかくとして,全体像,全体観を理解しようとするとき,文章よりも圧倒的に早く,直感的な理解が得られやすいのは図やグラフなどで可視化されたものです。本書は,政治思想について(と言っていいのか,少し疑問がありますが),マトリクスを使って整理することを試みています。つまり,学んだことを整理する際に,その整理手法としてマトリクスを使った整理を試みているわけです。

 

 深く知識を得ようとするとき,適切に全体像が示されていると理解しやくなる場合があります。これは,人の絵を描く場合を考えてみるとわかるかもしれません。目,鼻,口・・・とパーツの詳細を描くより前に,輪郭全体を先に描き,その後パーツを描いていった方が,バランスの良い絵が描ける場合が多い。実際,そのような手順で絵を描く方の方が多数派なのではないかと思います。もちろんそれが唯一の方法だとか,言うつもりはありませんが(実際,とんねるずの木梨憲武さんが,パーツから何かの絵を描いていたことを見たことがありますが),それでも全体像,その後に詳細という手順の方が,理解しやすい場合がある。

 

 一方で,本書が扱っている内容についてまったく知識がない人には,もしかしたら意味がわからないものになっている可能性はあります。また,取り扱っているテーマの詳細については,正確と言えない記述が含まれている可能性はあるのかな,とも思います(実際,私が理解していることと異なるところもあります・・・私が間違っているのかもしれませんけれど)。

 それでも,マトリクスを使って全体像を理解しようとする試みは,様々な知識の整理に,あるいは,思考をするときに,参考にできるのではないかと思います。実際,コンサルタントが分析の際,あるいは,戦略として提案する際に,恐らくもっとも高い頻度で利用されているのがマトリクスです。プロダクト・ポートフォリオもマトリクスですし,SWOTもマトリクスです。逆に言えば,2軸ぐらいで考えるのが,多くの人にとっての限界なのかもしれませんし,それが自分の主張を他者に説明したときに,理解が得られる限界ととらえられるのかもしれません。


 20210523

世界最高の話し方」 岡本 純子 ~最終回~

 

<概要>

 リーダーレベルの人たちに教えてきた「話し方コーチ」による,場面別に使える話し方のテクニック

 

1)説得のテクニック

 説得にあたっては,「Show, don’t tell.」というルールが重要だ。つまり,抽象的な言葉での説明ではなく,具体的に,ストーリーで示す,ということだ。説得にあたっては,言葉を伝えるのではなく,意味を伝えることが大切だからだ。具体的なものは,感情を伴う。感情を伴うから伝わる,ということでもある。

 だから,たとえ話を使うことが有用なのだが,その意味でも,すべての聴衆ではなく,具体的な誰かに伝えるつもりで考える方がよい。またたとえ話を使う際には,説明しようとしていることと,大きくかけ離れているものの方が有効だ。免疫がないから刺激が強い,だから記憶に残るということでもある。同様に考えると,数字の有用性も見えてくる。丸めない正確な数字,変化率などの比較などが刺激となるからだ。「これは聞かなきゃ!」と思ってもらえること。だから,「たった,わずか,に限り」といった限定ワードも有効なのだ。

 

2)プレゼンのテクニック

 プレゼンは,「自信がある人という役になりきること」がポイントだ。自信があるフリをすることから,自信は生まれるというのが1つの理由。一方,緊張するのはプライドが邪魔をするからという側面もある。この対処法の1つとして筆者が思いついた「ヤッホーの法則」がある。ド・ミ・ソ・ドの音程で,心の中で「ヤッホー」を徐々に大きく発声,そして最後にドの音程で,プレゼンの第一声を発する。そして,「ヤッホー」がこだまするのを待つ。こだまにあたるのが間というものなのだ。つまりプレゼンでは「。」ではなく,「?」を多くする方がよいのだ。

 TEDで人気のトークの特徴は,冒頭が面白いこと。ユーモア,サプライズ,ストーリー,質問,告白のいずれかが冒頭には有効で,だから,自己紹介で入るべきではない。また人の印象は,見た目5割,声4割,言葉1割というメラビアンの法則というものがある。声のメリハリが重要なのだ。スピードの強弱,大きさの強弱,トーンの強弱が,プレゼンの良し悪しを決める部分もある。すると,プレゼンは声をしっかりと出せるよう,姿勢が重要であることもわかる。しっかり背筋を伸ばし,両足を肩幅に広げ,腕は両脇か,両手をへその前で組むのが基本。その上で,自分を大きく見せるジェスチャーも重要になる。

 またアイコンタクトも重要。その際には,全体を見回すのではなく,1人ずつとキャッチボールしていく形式が有効だ。それも聴者にとっては刺激になる。プレゼンでは,7割は聴者を見て行うことを目指すとよい。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 余白がある,ということ

 

 実は本書,サブタイトルの一部に「門外不出の50のルール」というキーワードが示されています。このキーワードから,本書がどのように構成されているか予想できると思うのですが,いかがでしょう? 実際のところで言うと,章立てはされているのですが,50の独立したトピックが提示されている,という構成になっています。

 3回に渡り,本書がポイントとして提示していることを確認してきたのですが,章を超えてまた,順序を入れ換え,確認していることがあり,また当然ながら省略している部分があります。よって,本書が本当に伝えようとしてることを網羅しているわけではなありません。よって,やはり本書が伝えようとしていることは,実際に手に取って確認いただく必要があるわけです。

 

 ここで1点,私には思うことがあります。それは,50のルールと筆者が言っていることを1つずつ,1:1で頭に入れていくのは効率が悪いのではないか,という点です。もちろん人によっては,そのうちの1つが必要になるだけかもしれませんから,50のトピックに分割されている方が良いのかもしれない。けれど,全体をとらえたいのであれば,そうではないのだろうと思います。自分なりに組み立て直して理解しようとすることは,非常に重要なのではないか,ということです。

 

 そのように考えると,自分なりに組み立て直せるという「余白」が,本書にはたくさんあると思います。ここで言う「余白」とは,1つには自分なりのストーリーとしての理解のしやすさという点であり,もう1つは自分なりの経験や体験に当たるもので,それは「この時は成功した,この時は失敗した」といった経験,体験にあたるもの。自分のあるときの1つのプレゼンを思い出し,それをチェックしてみる。ナゼ良かったのか,イマイチと感じたのかをチェックしていってみる。そのように使ってみて,その結果を加え,自分に必要なことを新たに編集していく。それがこの手のハウツーにあたる本というものの1つの使い方なのではないかな,と私は思います。


 20210509

世界最高の話し方」 岡本 純子 ~第2回~

 

<概要>

 リーダーレベルの人たちに教えてきた「話し方コーチ」による,場面別に使える話し方のテクニック

 

1)説明のテクニック

 何かを説明するときは,まず13文字以内に絞り込んだキャッチコピーとして,説明の要点をまとめることが重要だ。その際の要素として,意外なたとえ,具体的な数字,聞き手にとってのベネフィット,「○○一」「最強」といった力強さ,「なんで?」と先を知りたくなるような言葉を利用することがポイントになる。また,その後の説明においては,聞き手が「今,どこにいるのか」がわかるような配慮が必要だ。「結論→説明→結論」の順で話すことを基本に,説明においては,「理由+事例」「3つある」「問題+解決策」を利用すると,話を聞く相手が迷いにくく,また,興味を持ち続けやすい。

 

2)共感のテクニック

 伝えたいことが伝わるには,聞き手の共感が必要だ。いくらロジックを積み上げても,感情が動かせなければ説得されないのだ。その意味で,聞き手に「いい気分にさせること」は重要になる。その基本は,「私たち」という言葉を使う,「そうだね,大丈夫,わかるよ」を口グセにする,といったことだ。また,話の内容から,聞き手に,気づき・賞賛・納得・驚き・喜び,感心・恐怖・嫌悪・意外性・感嘆を表すAHAの感情を芽生えさせることができるかがポイントだ。人の集中力は30秒と心得,ロジックではなく,Before-Afterと教訓で構成される30秒ストーリーを語る。誠実に事実を伝えるだけでは,トランプ氏のような「怖い+許せない+面白い」を駆使した扇動型には勝てないのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 話し方の良し悪しは,いつでも変わらないの?

 

 私は話をするとき,論理を大切にします。いくら話術がうまいとしても,その中身が単なる思いつきや,つじつまの合わない非現実的な話では,価値を生まないのではないかと思うからです。特に,あちらを立てればこちらが立たずというような課題に対する日和見主義的な話や,誰かに都合のいいことばかりの話は,言い方は悪いですが時間のムダとでも言いますか,そういうものに感じられるのです。ヒマつぶしにはいいのかもしれませんが・・・。

 

 一方で,どんなに有益な話だとしても,それを聞いてもらえないのだとすれば,それもまたムダなものなのかもしれない。聞いてもらえていないのですから,その話はその人だけのものになってしまうわけです。

 

 そのように考えると,本当に面白い話というのは,話術としての面白さと,知的な面白さとが組み合わされたものなのかもしれません。

 

 客観的に評価して,私の話は面白くありません。中身の話はともかく,話術としての面白さには,まったく自信がない。そう考えると,本当に面白い話を話すことは,少なくとも今の私にはできないのかもしれません。ただ,そうだとすれば,中身を面白く話してくれる誰かがパートナーであれば,本当に面白い話ができるのかもしれない。

 

 そのように考えると,自分の力の発揮の仕方というものが,何となく見えてくるように思うのですが,それはさておき,誰かがパートナーになってくれるにせよ,私の話を面白いと感じてくれることは前提ですから,その程度の話術は必要であることは間違いないとは思います。けれど,それは多くの人を魅了するような話術ではないはずだとも思います。

 ひと言で「話し方」と言っても,それがどういう場面での,誰に対する話し方なのか次第で,話し方の良し悪しも変わるのではないか。沢山の聴衆に向けた話し方と,小さい集団に向けた話し方,あるいは,特定の誰かに向けた話し方。どうなんでしょうか? もちろん,共通点はあるとは思いますけれど・・・。


 20210502

世界最高の話し方」 岡本 純子 ~第1回~

 

<概要>

 リーダーレベルの人たちに教えてきた「話し方コーチ」による,場面別に使える話し方のテクニック

 

1)雑談と会話のテクニック

 海外のエグゼクティブは,会話の入り方が上手い。その入り方は,「相手をどんな気持ちにさせるか」に重点が置かれている。人は内容より,感じたことを覚えているからだ。話すことは快感だ。だから,相手に話をさせれば良い気持ちにさせられる。そこで使えるのが,どんな,どなた,どのタイミング,どこ,どうして,どのように,という「ど」で始まるオープンクエスチョンをすること,6W1Hの質問をすることだ。質問には,導入,聞き返し,相手が言ったことへのフォロー,トピックを変えるの4つの質問があるから,それをサイクルで回せばよい。そのネタは,「身近・悩み・損得・便利・影響がある」こと,または,「流行・有名・苦労や失敗・感情・秘密・変化をもたらす」ことという,聞き手に関係のあることが鉄板だ。そして,「相手が自分をスゴイと思える」ことを伝えられることがポイントだ。

 

2)ほめ方・叱り方のテクニック

 ほめると叱るは,6:1になるのがベストマッチとの調査がある。また,ほめる時と叱る時はきっちり分けた方がよいというのが最新の考え方だ。まずほめ方には,承認・共感・賞賛・感謝があり,組み合わせることがポイントだ。また,すぐに,具体的に,気持ちを込めてが重要。叱るときには,叱る対象とする事実,その理由,自分はどう思うか考えさせ,解決策を提示させる。短く端的にがポイントだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 

 具体的で実際に試せること

 

 まず今回本書を取り上げたのは,一時大々的に広告されていたこと,ライトなノウハウ本もいいだろう,政治家の先生方の発信力がどうにも気になる,というようなことが重なったから,なのですが・・・

 

 正直,著者が本当に,話し方に関する伝説の家庭教師なのかは,私にはわかりません。また本書で取り上げられている「ルール」というものが世界水準なのかもわかりませんし,その「ルール」と呼ばれるものが体系化されているようには残念ながら見えません。体系化という視点で言えば,以前このコーナーで取り上げている「THE RHETORIC」の方が体系化されていると思いますし,圧倒的に優れていると思います。またもう1つ,本書で使われている「ルール」という言葉には,どうにも抵抗感があります。(そこで,概要の紹介においても,テクニックという言葉を使って,置き換えてしまいました。)

 

 ただそうではあっても,本書が指摘するように,話をすることが仕事であるような人でも,あるいは,話をすることが必要とされる立場の人でも,話し方のノウハウを持っている人は少ないと思いますし,話し方に悩む人が大勢いることも事実だと思います。だから,本書のようなものが必要とされるのだと思いますし,読者が読後に行動に取り入れられることは,非常に重要だとも思うのです。

よってこの手のノウハウ本は,そこから学んだことを実際に使ってみる,使い続けることが重要なのだと思います(もちろん,事前に使うかどうか,判断は必要ですが)。それからでないと,この本の評価はできない。そういうタイプの本だから。

 

 そういう視点からとらえると,1)は,雑談と会話の場面で,2)はホメる・叱る場面で,使える具体的なテクニックであるとは思いますし,自分にこれが出来ているかと言われると,怪しい部分が多々あることに気づきもします。そして,新型コロナ対応で,政治家先生が発信されることも,もう少し相手視点であれば,伝わる情報量も増えるのではないか,と思います。相手がどんな気持ちを抱くか,そして,ホメると叱るの機会を分ける,ホメるが6で,叱るが1。出来てないですよね?


 20210425

「現代語訳 論語と算盤」 渋沢 栄一 ~最終回~

 

<概要>

 近代日本の設計者で,日本の実業界・資本主義制度を設計した,渋沢栄一の講演口述のまとめ「論語と算盤」の現代語訳版。実業,資本主義の発展と,その暴走に歯止めをかける位置づけとしての論語の必要性。

 

1)「自分を頼りにできる」ようにするための教育

 社会は一様ではない。だから,社会にはさまざまなタイプの人材が必要だ。ところが今の教育は,学科の科目が多く,知識偏重になっていて,精神を磨くことがなおざりになっている。必要なのは,すべての国民に才能,知恵,道徳を与え,共に助け合っていくことだ。たとえば,実業界で生きていこうとする者への教育では,「自由」,つまり,「自分を頼りにすること」を重視すべきだ。いちいち命令を待っているようでは,成長が難しいからだ。また,女性への教育も活発化させなければならない。そうすれば,全国民を活用できることになるからだ。

 

2)成功・失敗は残りカス

 人の常に抱くべき人道とは,良心と思いやりの気持ちを基盤にしている。社会で落伍してしまった者に対しても,その気持ちが必要だ。運命というものは,四季が自然にめぐってくるようなものだ。恭・敬・信の態度で臨み,自分ができることは努力して,自然にもたらされるものを待つ。その意味で,順境も逆境もないのだ。競争に勝つには,全力を尽くして新しいことに取り組む勇ましい心が必要で,相手の何倍もの努力が必要なのだ。そして成功や失敗というものは,その残りカスのようなものなのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 自由と信頼

 

 前回この場で,安部前首相の「美しい国,日本」を取り上げました。私の理解のために,質問したいという内容です。実は,もっとも質問したいことの1つは,ここで言われている,「自由って,何?」,「信頼って,何?」というものです。

 

 渋沢栄一は,本書の中で自由について,「自分を頼りにすること」と記しています(実際には,本書は講演録なので,講演の中で発言しています。現代語されているものなので,本当はもっと違う言葉で語っているのでしょうが)。安倍氏の発言した「自由」の中に,この渋沢の定義を認めるのだとしたら,あらゆる自由というものは,自分への信頼の上に成り立つものなのであって,自分への信頼がないところでは成立しえない,ということになる。

 

 では信頼とは? 

 似たような言葉に,信用があります。信用は,実績に基づき信じる判断をするといったニュアンスの言葉ですが,信頼は,期待して信じるといったニュアンスを持つ言葉です。

 

 このように見てくると,渋沢の言う自由とは,「自分自身の行動に,何らかの期待をし,その期待に自分が応えられると信じられるからこそ得られるもの,行使できるもの」ということになります。

 

 それは非常に重いものだと,私は思います。少なくとも,「他人のことはかまわないで、自分だけに都合がよいように振る舞うこと」を意味する「勝手」とは,大きく異なります。と言うよりは,雲泥の差がある。

 私たちは,意識できているか否かを問わず,法や慣習も含めた,さまざまな社会的なしくみに守られている部分があります。他者への配慮を無視した自分自身の行動に,何らか期待し,その期待に応えられると信じられるほど,一人で生きていないと思うのです。だから,いくら自由の権利が与えられているとしても,勝手はできない。

 

 では,安倍氏の「美しい国,日本」の中で言われた自由,信頼は,どのような意味だったのか? もっと言えば,憲法に定められている自由とは? 多くの人は,政治家や行政に携わる人々も,「勝手」に近い意味をそこから受け取っているのではないか,と私は思うのですが,どうなんでしょう? 


 20210418

「現代語訳 論語と算盤」 渋沢 栄一 ~第4回~

 

<概要>

 近代日本の設計者で,日本の実業界・資本主義制度を設計した,渋沢栄一の講演口述のまとめ「論語と算盤」の現代語訳版。実業,資本主義の発展と,その暴走に歯止めをかける位置づけとしての論語の必要性。

 

1)孔子と,キリスト・釈迦との,相違点と共通点

 孔子の思想と,キリスト・釈迦の教えとの間には,実践的な知恵と,宗教としての教えという差異があるのではないか。論語の考え方に「権利思想」が欠けているように思われるのは,その差異によるととらえれば理解ができる。一方,論語の仁とキリスト教の愛は,ほぼ同じ意味でとらえることができる。たとえば家族問題や労働問題や,富める者と貧しい者との関係などは,法のみで解決しようとすべきではなく,仁や愛で解決すべき部分もあるはずだ。同様に競争は進歩の母だが,そこに私利私欲に留まらない善意があるから,全体の進歩につながるのだ。つまり,善意の競争こそが必要だ。

 

2)実業道

 武士道のもっとも重要な部分とは,正義,廉直,義侠,敢為,礼譲だ。これは,日本人が商工業で進歩するための土台にすべきことだ。武士道とは今や実業道なのだ。外国の単なる模倣ではなく,また,単なる排斥でもなく,実業道を土台に,日本に適するモノを作り,適さないものを仕入れるという考え方が重要だ。お互いに融通し合うから発展する,というのが道理だからだ。日本は商業道徳が,物質文明に比較して進歩していない。ただ,単に欧米流の契約概念に従えば良いということではない。実業道が土台としてあれば,同様の意味を持てる。道徳や社会正義の考え方のない者に利益追求の学問を教えたら,薪に油を注ぐようなもの。形式だけではなく,根ざす土台が重要なのだ。 

 

 

<ひと言ポイント>

 土台とするもの

 

 安部前首相が所信表明演説で,「安倍氏が目指す国家像」として掲げたものに,「美しい国,日本」というものがあります。

 安倍氏は,その姿として,「文化,伝統,自然,歴史を大切にする国」,「自由な社会を基本とし,規律を知る,凛とした国」,「未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国」,「世界に信頼され,尊敬され,愛される,リーダーシップのある国」を示し,その上で,「国の理念,目指すべき方向,日本らしさを世界に発信していくことが,これからの日本にとって極めて重要」で,「国家としての対外広報を,我が国の叡智を集めて,戦略的に実施」するとしています。

 

 その良し悪しは別として,さて,この目指す姿は,どれだけ実現できたのでしょうか? それ以前に,ここで示された数々の言葉について,それが意味していることが何か,どれぐらいの人に理解されているものなのでしょうか?

 

 いまさらなのかもしれませんが,私自身には,質問したいことが山ほどあります。「文化,伝統,自然,歴史って,何が対象?」,「大切にするって,どういうこと?」,そして,「それをすることで,一人ひとりが得られることと,一人ひとりが果たすべきことって何?」・・・といったように,一つひとつに対して質問したい。もちろん,SDGsとの関係や,国際公約との関係などについても。と言うのも,私のこれまでの理解と,安倍氏の考えとがすり合っていなかったのではないかと,振り返ってみて思うからです。

 

 ちなみに,菅首相の初めての所信表明演説には,私が知る限り,安倍氏が語ったような「国家像」にあたるものの表明はありません。新型コロナ下,という状況がそうさせた部分はあるとは思いますし,それよりも「具体策」に重きを置かれた部分もあるのでしょう。経済再生に主眼があり,アベノミクスの踏襲を謳っていますから,「美しい国,日本」という国家像も変わっていないのかもしれません。

 であればなおさら,質問してみたい。もっと言えば,各自治体の首長,国会議員や地方議会議員にも質問してみたいし,各省庁や国家機関,地方自治体の職員の人たちにも質問してみたい。「目指す日本の国家像,どう考えているの? 安倍氏が語った『美しい国,日本』について,どう理解しているの? 理解していたの?」と。

 

 その上で,さらに質問してみたいのです。「で,具体的に,どんな行動をしたの?」,「それは,目指す姿の実現と,どんな関係があるの?」

 

 まるで子どものような質問なのかもしれません。でも,今があるのは過去があるから。歴史を大切にする,と言うのであれば,「美しい国,日本」の表明だって,歴史の1つです。それが正しいのであれば,どこに到達しているのかという,確認をすべきだし,もし間違っていたのなら,間違っていたものとして,新たな国家像を考えていくことが必要になる。

 

 ただそれ以上に,もしかしたらそこ,つまり,質問に対する答えの中に,今,目の前にある多くの課題の本質と,解決の糸口があるのではないかと,私は思っています。長くなってしまったので,その理由はまた,別の機会に・・・。


 20210411

「現代語訳 論語と算盤」 渋沢 栄一 ~第3回~

 

<概要>

 近代日本の設計者で,日本の実業界・資本主義制度を設計した,渋沢栄一の講演口述のまとめ「論語と算盤」の現代語訳版。実業,資本主義の発展と,その暴走に歯止めをかける位置づけとしての論語の必要性。

 

1)野蛮と文明,しくみと制度づくりの先行

 文明と野蛮とは,お互いの比較によって,その意味が成り立っている。国として文明的であるとき,野蛮からの進化の過程においては,枠組み作りが先行する。つまり,国の場合,しくみや制度だけが出来上がっても,それを使いこなす人の知識や能力が伴っていなければ,文明国とは言えない。道徳にも,同様の面がある。また,趣味は,理想とも欲望とも,楽しむこととも言える部分があるが,務めることにも,趣味を持てるようになるよう,一人ひとりが変化,進化していってほしいと思う。

 

2)動物との違いで人を理解する

 人とは何か? これは,動物との違いでとらえることができる。それは,道徳を身につけ,知恵を磨き,世の中のためになる貢献ができる点にある。また,人が動物の中で最も進歩した存在なら,それが進歩の意味であり,自分を磨く努力をできるのが人だということになる。ただそれは,理論と現実の両輪であることが大切だ。

 自分磨きを良くないと否定する人がいる。「自分らしさを傷つけるから」とする意見は,理想に近づくために自分を磨くのだという点で,「人の心をいじけさせるから」とする意見は,礼儀やけじめ,敬意を表すといったことを無視した愚かな考えから来るものではないかという点で,誤解に過ぎない。同様に目的のためなら手段を選ばないとは,目的とは何かを理解していることが前提だ。それは,素晴らしい人格をもって正義を行い,その結果としての豊かさや地位なのであって,その逆でもないし,まして,富や地位が目的ではないのだ。 

 

 

<ひと言ポイント>

 比較で説明する

 

 本書を読み直して改めて思っていることがあります。それは,人による,言葉の解釈の違いです。それは言葉と言いますか,一つひとつの単語なのかもしれません。多くの人が同じような意味として理解しているものもあれば,誤解も含めて,その解釈に大きな差異があるものもある。

 

 たとえば,実践という言葉は,私は人によってその解釈に大きな差異がある言葉なのではないか,と思っています。渋沢栄一という人が言う実践は,理論の現実への適用と言いますか,そういう意味だろうと思います。しかし,そのようにとらえている人ばかりではない,とも思います。命令に対する行動のようなものを,実践と考えている場合などは,その1つの例です。

 

 このようなとき,誤解を解消するにはどうしたらよいのか? 

 頭では理解できているつもりではあるのだけれど,それを現実社会に適用するのは,それほど簡単ではありません。そもそも,その状態というのは,本来的な意味で理解できているとは言えないのかもしれません。その指摘は甘んじて受け入れるとして,それでも現実社会で,理論に当たるものを適用しようとする場合,実践的な知恵も必要になると思います。そんな実践的な知恵のひとつが,比較でとらえ,比較で説明することなのではないか,と思います。

 

 今回扱った範囲で言えば,渋沢栄一は,動物との比較で,人をとらえ,説明しています。もちろん,この比較が適切なものなのか,という問題はあると思いますが,共通の理解を得るという目的に対しては,成功事例なのではないか,と私は思います。つまり,この比較対象の選択の良し悪しが,共通の理解を得ようとするときのポイントになるのではないか。

 

 そうであるなら,さまざまな比較をしてみるトレーニングは,実践力を高めるのではないかと思います。得意な人は,それを何気なくやっているのかもしれません。一方それが苦手なら,意識的にやれば,トレーニングになるだろう,ということです。


 20210404

「現代語訳 論語と算盤」 渋沢 栄一 ~第2回~

 

<概要>

 近代日本の設計者で,日本の実業界・資本主義制度を設計した,渋沢栄一の講演口述のまとめ「論語と算盤」の現代語訳版。実業,資本主義の発展と,その暴走に歯止めをかける位置づけとしての論語の必要性。

 

1)意志の鍛錬

 プラス面・マイナス面に敏感で,中庸にかなうものこそ常識だ。だから,智・情・意のバランスを保ち,均等に成長したものが,本当の常識だ。

 たとえば,渋沢にとっての最上位の目的は国家の発展だから,単に自分の利益のための事業であっても,それに叶うのであれば支援したいと考える。「人のため」という志でも,その振舞いが人の害になっていては,善行とは言えない。そして,心の善悪より,振舞の善悪の方が見えやすいから,悪賢い者が一定の成功を収めてしまうことが出てくる面もある。そこで鍛錬が必要になる。鍛錬には,勉強したことを,実践に結びつけることだ。どんなにたくさんの知識があっても,実践しなければ活用できなくなる。つまり,意志の鍛錬も必要だ,ということなのだ。

 

2)よく集め,よく使う

 非現実的な道徳だけでは,国は滅びる。利益をつかむことを否定した結果,国が滅びた例は,枚挙にいとまがない。そもそも,自分の利益が欲しいから働くという姿は,世の中の当たり前の姿だ。だが一方で,現実に立脚した道徳に基づかなければ,やがてそのしくみは滅びることになる。文明化とはしくみ化であり,一人よがりは,そのしくみを破壊するからだ。

 また,その意味で,いかに自分が苦労して手に入れた富だと主張したところで,一人で成し得たものなどないことにもなる。だから,道理を伴った利益の追求が重要なのであり,その意味で,よく集め,よく使うことも重要になる。

 

 

<ひと言ポイント>

 役割のとらえ方

 

 1985年頃から,中国・鄧小平が唱えた改革開放の基本原則に「富める者から富め=先富論」というものがあります。この論,非常に多くの示唆があると,私は思います。

 

 1つには,皆が同じタイミングで富むことは難しい,という事実です。すると,少なくとも一時的に,貧富の差が生じるのは仕方のないことだと,とらえることができます。もちろん,富める自分の自己弁明にも使える面もあるかもしれませんし,そうとらえている方もたくさんいるかもしれませんが。

 ただそこで思考を止めるべきでもないと思います。というのも,この論をさらに丁寧に理解すれば,富んだ者は,後に続く,その時点では貧しい者に,その富を回せという意味が含まれていると,とらえられるからです。

 

 このような論を成立させるには,社会のしくみ上,「先に富を得やすい役割」と,「後から富を得やすい役割」とがあることを前提にする必要が出てきます。その上で,担う役割が理由で先に富んだだけなのだから,その富は,貧しい者が富めるように使う必要があるということであり,「決して自分のために使うのではない」と,理解することになります。

 

 そう考えると,この「先富論」は,本著者の主張と,ほぼ同じ発想の下で描かれていると理解できる。つまり,「一人ひとりは,社会のしくみの中で,その1つずつを担っているが,その役割に優劣はないのだから,富を持つが,貧しいものにその富を使うことが必要なのだ。」という道理,筋に基づき,その論が主張されている,という点です。

 

 このような筋道,道理というものは,富める者,あるいは,富みやすい役割を担っている人たちほど,しっかりと理解する必要があると私は思います。もっと言えば,その役割を担う人にほど,「正しい努力,正しい競争」が必要なのだと思いますし,「正しい努力,正しい競争」とは何か,何を目的としているのかを伝えようとしているのが,渋沢栄一という人だったのではないかと,私は思います。


 20210327

「現代語訳 論語と算盤」 渋沢 栄一 ~第1回~

 

<概要>

 近代日本の設計者で,日本の実業界・資本主義制度を設計した,渋沢栄一の講演口述のまとめ「論語と算盤」の現代語訳版。実業,資本主義の発展と,その暴走に歯止めをかける位置づけとしての論語の必要性。

 

1)論語と算盤は,両輪

 実業,資本主義経済(≒商業)においては,「士魂商才」が重要だ。「論語」には,己を修め,人と交わるための日常の教えが説かれているのだから,商業にも当てはまるものだ。国家の発展には,競争が必要で,そこで勝てなければ,滅んでしまうし,金銭を賤しんでいては,国家は立ち行かない。正しく競争に勝つことが必要なのであり,その正しさが論語にある。

 物事には原因と結果がある。己が作った逆境は,己の悪い点を改めるしかない。一方で,自己の本分として与えられ逆境もある。それは立派な人が真価を問われていると言うこと。それを乗り越え,志を成し遂げるには,己を知ることであり,その教訓・道理となるものが論語とも言える。 

 

2)大志と小志との調和

 物質文明が進んだことは,精神の進歩を害した面があるのではないか。与えられた仕事に全身全霊で臨むから,手柄につながり,立身出世につながるのだが,その道理を理解できていない者が多い。

 必要なのは,大きな志と小さな志との調和なのだ。真の志があるとき,それは時に争いを生む。何があっても争いを避ける,というのでは,善が悪に負けることになってしまう。志とは,そういうものだ。ただ,結果をあせって大局観を忘れ,目先の出来事の成否にこだわる者が多い。それは,地図を見るときと,実地を歩くこととの違いのようなもの。志とは,一生涯をかけて歩むものだから,一足飛びに立てられるものでも,叶うものでもない。真の立志とは,自分の素質にかない,才能にふさわしいものなのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 決断,その前に

 

 今人気の職業(?)に,ユーチューバーがあります。ただ,小学生が言う場合のそれと,高校生が言う場合,学生,社会人が言う場合のそれとでは,それぞれの意味合いは異なるのだろう,と想像します。そして,同じユーチューバーという方でも,そこには差異もあるはず。(と,思いたい・・・希望も含め)

 

 YouTubeはご存知の通り,動画による「情報共有を目的」とした「手段」に過ぎません。よって,そこに人を表す接尾語である「er」をつけただけの存在を「YouTuber=ユーチューバー」としてしまうと,手段であるYouTubeを操る人は,ある意味みんなユーチューバーになってしまう。

 実際のユーチューバーとは,それを操る専門家であるはずです。そして,その専門家であるとしたなら,「何らか」の思いを,YouTubeを通じて発信しているはず。つまり,YouTubeを通じて「何を発信したいのか?」「その情報を発信することで,どうありたいのか?」を,持っているのだろうと思うのです。

 

 たとえば,「お笑い動画」を提供するのは「眉間にしわを寄せるような世の中を,笑いで明るくしたいから」とか,「自作の音楽と映像」を提供するのは「若者の本心を,音楽という形に変えて,理解してもらいたいから」とか。もちろん,「自分の存在を知ってもらいたいから,自分の作ったものを知ってもらいたいから」といったものかもしれません。(まあ,そうではない方もたくさんいることはわかっていますが)

 

 いずれにしてもそこには何らかの意志があり,「ユーチューバーは,ラクして稼げそうだから」というような短絡的な動機とは,大きな違いがある。その違いとはもちろん,「そこに何らかの大きな努力や大きな工夫があるか」という点です。つまり,「何らかの自分の思いを,努力や工夫といった行動に変えている,エネルギーをつぎ込んでいる」ということ。

 

 実際本当の意味でのユーチューバーの方々は,相当な勉強もしているし,相当な工夫もしている。相当な努力をしているのです。単にそのビジネスモデルが,YouTubeというプラットフォームを使うものだというだけで。

 十把一絡げに「ユーチューバー」と表現してしまうと,そのような大事な面が見て取れない。わからない。伝わらない。本当のユーチューバーの方も,それを見せようとはしない。ただ,「楽しそう」に見せるから。実際に,それ自体は,時間をつぎ込めるぐらい,楽しいことなのかもしれませんが。

 

 そういった面,つまり,本人から見たらは別として,客観的に見たら「努力ができる対象があり,相当な努力をしている」という面は,摂理,道理として知る必要があると私は思います。勉強もせず,工夫もせず,時間も使わず,手に入れられるものなどない。

 そう考えると,「何に時間を使うのか,エネルギーを費やすのか」という決断は,非常に重要な決断で,容易には決められないのかもしれません。だとすれば,モノの道理や自然の摂理を学べることに,まずは注力する中で,自分が得意とすること,時間をつぎ込めるだけ楽しいことを見極めていくことが大切なのではないか,と思います。モノの道理や自然の摂理を学ぶことは,何をするにしてもムダにはならないのですから。


 20210320

「スマホ脳」 アンダース・ハンセン ~最終回~

 

<概要>

 人間の脳の基本設定からとらえる,スマホなどデジタル・テクノロジーの影響に対する答えと問いかけ

 

1)スマホとの付き合い方

 90年代頭頃から,北欧ではIQの上昇が頭打ちになり,今では年に0.2程度ずつの低下傾向が見られる。ロンドンのタクシー運転手は,「The Knowledge」と呼ばれるほど,膨大な道と場所の記憶が必要だが,その結果,海馬が成長し,物理的に大きくなる。逆に言えば,使わなければ知能の一部が失われる危険性がある。脳はエネルギーの消費を節約しようとするからだ。

 デジタルの発展スピードの方が,その影響の研究よりも速いため,科学的な検証は不十分ではある。ただ,今後の社会で必要なのは集中力なのに,デジタル技術は集中力を奪う面がある。インターネットは本とは真逆の存在で,深い思索を拡散せず,表面上だけで,次々と進んでいく存在だ。

 そこに人間が適応するのか? そうはならないのではないか? カロリーを得ることが,健康にとってのメリットにもデメリットもなるように,デジタルも,脳にとって諸刃の剣になりえるのではないか。すると,たとえば次のような点が重要になるのではないか。

 利用時間を知る,スマホでなくてもよい機能はスマホを使わない,毎日1~2時間はスマホをオフにする,チャットやメールは時間を決めて利用,集中したいときには遠ざける・オフにする,運動する,SNSは本当の交流の道具として使う

 

 

<ひと言ポイント>

 事実と意味

 

 本書が指摘するのは,スマホに代表されるデジタル技術というものの,負の側面です。一方で,デジタル技術は,メリットとなるさまざまな価値を提供もしています。つまり,デジタル技術の発展と,その利用には,メリットもあれば,デメリットもある,ということ。デジタル技術の発展そのものを,「事実」ととらえるのなら,メリット,デメリットというものは,その「意味」と言えるのだと思います。

 

 そのような関係,つまり,事実と意味の関係は,あらゆる物事であてはまるのだろうと思います。

 

 たとえば,メディアによる情報発信は,情報の流通という点で,これまで一部の人しか得られなかったものを,多くの人が得られることを可能にした。けれど,それらの情報は,極端な言い方をすれば,伝える側のメディアによって解釈されたものであり,純粋な事実ではない。

 

 もしかするとメディアの方々は,否定されるかもしれません。しかし,選択された上で情報が発信されている以上,また,それが大小さまざまなレベルで扱われている以上,そこには何らかの意図,意思,あるいは少なくとも方針に基づいていることになる。だから,その性質上,純粋な事実というものはあり得ないことになるわけです。

 

 もちろん,情報に触れる側に,その意識があるか,ないか,は,非常に重要です。現代社会を生き抜こうと思うなら,「そういうものだ」ということを知っていて,少なくとも,その情報の自分にとっての意味を考えられる必要はあると思います。

 

 一方で,情報を発信する側にも,そのような力の育成に貢献する責任があると,私は思います。そして,意味として伝わらなければならない情報は,意味として伝わるように変換するのもまた,情報を発信する側の責任ではないか,と思います。何でも反対野党,ではないですが,したり顔で,政府批判を続けるだけでは,何も解決しないし,何の貢献にもならない。

 

 たとえば,新型コロナの感染抑制で必要なのは,その意味がわからない人に,その意味が伝わる工夫をし続けることしかない,と思うのです。そうしないと,その意味を知る人が,本当に会いたい人に会えない日が続くことになる。その意味で,「全面解除」の見出しは,それは事実なのかもしれないけれど,「ナンセンス以外の何物でもない」と,私には思えるのです。


 20210313

「スマホ脳」 アンダース・ハンセン ~第4回~

 

<概要>

 人間の脳の基本設定からとらえる,スマホなどデジタル・テクノロジーの影響に対する答えと問いかけ

 

1)スマホの子どもへの影響

 報酬を先延ばしにできる力は,成熟に至る時期が遅い。未成年者のアルコール等禁止する1つの理由はそれで,若者にとって依存リスクが高いから,と言える面がある。同様のことはスマホにも言えるのではないか?

 また,タブレット等の端末による学習は,発達を遅らせる可能性もある。指先等の運動能力や,形や材質等への感覚を身につけることができない面があるからだ。また,文字を覚えるといった点でも,書かないことが及ぼす影響が懸念される。

 実際,報酬をすぐにもらえることに慣れてしまうと,習熟に時間を要するものに,仮に取り組んでもすぐにやめてしまうといった影響が既に見えてきている。端末機器で読んだことは,書籍で読むより,その内容を覚えていないという結果も見られる。スマホを使いながらの学習は,複数のメカニズムの働きを阻害する,といった研究結果もある。

 研究者たちの結論は,「子どもが能力を発揮するには,毎日最低1時間の運動,9~11時間の睡眠,スマホの使用は最長でも2時間」というものだ。しかし,それを達成している子どもは,5%に過ぎない。また,スマホの長時間利用者ほど,「幸せでない」と感じる割合が高いことも,見逃せない事実だ。

 

 

<ひと言ポイント>

 決断

 

 あらゆる生物には,発達段階というものがあります。

 植物で言えば,種の段階だったものから,芽が出て,膨らんで,花が咲いたら,やがて散っていく。そして,果実であれば実がなり,そこから新たな種が得られ,また,同じサイクルがくり返される。

 各段階で必要とされるもの,も,異なります。種の保存には,乾燥している方が都合が良いことが多いわけですが,芽を出すには水分が必要。芽が出た後,成長するには陽の光が必要です。つまり,その段階ごとに,必要とされるものがあるということ。

 

 だとすれば,人間も同様だろう,と想像できる。母親の胎内にいるとき,赤ちゃんとして生まれたとき,そして,徐々に体が大きくなり,さまざまな能力を発揮していくようになる。そして,やがて,一人の人間としては,衰えていく。それは,見てわかる面だけではなく,脳を含む体内のあらゆる組織,機能で見られること。そして,その「段階ごと」に必要とされるものがあるはずです。

 

 これは,個別の学びでも同様です。私自身は,統計を含む,データサイエンスの講座で教える立場でもあるのですが,さすがに,四則演算を学んでいない方,その意味が理解できない方に,それを理解していただくことはできない。説明に使う言葉を学んでいない方に,それを説明したとしても,その言葉自体がわからないのですから,まったく意味不明のはずです。

 

 つまり,物事には,順序,というものがあるということ。その順序が適切でなければ,仮にどんなに有用なものであったとしても,時間のムダになりかねない。

 だから,たとえば学びで言えば,学習指導要領というものが作られることになるわけです。このような順に学んでいけば,さらにその先の学びにつながっていく,といったように,学びが体系化がされている。

 もっとも,これ自体も,過去と現在では異なりますし,将来は,さらに変わるはず。トライ&エラー,トライ&ラーンがくり返されることで,学びの順序,体系として,より適切なものに変えていくことになる。のですが・・・

 

 より「適切」とは,一体何なのでしょうか? 何をもって「適切」と言うのか?

 

 これは,非常に重要な「問い」だと思います。いくら議論しても,議論し尽くされるものでもないとも思います。ただ,そうだとすれば,「仮置きして」進めるしかない時が来てしまう。「これが適切ということなのだ」と,決断して進めるしかない。そして,その決断は,その主体者がするしかないわけです。

 

 だから,決断する,というのは,非常に苦しいこと,大いに悩むもの,だと思うわけです。それでも,その役割を担おうとするのであれば,決断するしかない。だから,真剣な決断をした人というのは,ただそれをしたというだけで尊敬される存在なのだと私は思います。「決断を先延ばしにする」ことも,ひとつの決断なのですから,それも同様です。

 

 もちろん,安易な決断ははた迷惑なだけです。ただ,人には1日24時間という限られた時間しかありません。人生100年時代などと言いますが,それだって100年という時間しかない。どこかで決断して,どこかに歩みを進めるしかない。

 

 10年という時間は,その10分の1に相当する時間です。この10年で,何が決断されたのか? 何を決断したのか? その結果どうなったのか? 問うてみるのは悪くないのではないか,と,私は思います。


 20210307

「スマホ脳」 アンダース・ハンセン ~第3回~

 

<概要>

 人間の脳の基本設定からとらえる,スマホなどデジタル・テクノロジーの影響に対する答えと問いかけ

 

1)スマホ利用の睡眠への悪影響

 脳の活動の結果として生じる老廃物のクリーニングと,記憶の固定化には,十分な睡眠が必要だが,極端なスマホの使用は,ストレスと不安を引き起こし,睡眠にも影響を与える。たとえばブルーライトは,警戒を喚起する刺激でもあるから,「眠れない」状況を作るのだ。

 

2)SNSのウリは,「あなたの注目」

 私たちの会話の8割はゴシップ,つまり,ウワサ話だ。それが生存に有利な情報だからだ。SNSは,「つながりの欲求」を満たすものというより,そんなゴシップ欲求を満たすもの,と言える面がある。実際SNSは,リアルなつながりの代わりにはならないというのが,研究者たちの結論でもある。

 また,SNSは,非現実的とも言えるような高い目標を創り出している側面もある。情報の一部は,良い人生とはこうあるべきという「姿」を,日々示している面があるが,SNSの情報は,写真などをその代表例として,「加工された姿」を現実のあるべき姿として,見せることができるからだ。実際,SNSのヘビーユーザーほど,自己有能感に対する低評価が見られる。

 「自分たちとあいつら」に分類することは,生存戦略でも,もっとも重要な活動だ。たとえば「偏見」は一般的に,自分が思うよりも強いものであるのもそのためだ。フェイクニュースが拡散されやすいのは,生存のために回避すべき「リスクかもしれない」「あいつらとの区別に必要かもしれない」情報であると,脳が判断するからととらえると,当然と言える面がある。

 スマホアプリは,アイコン等,シンプル・はっきりといった点で,驚くほど似ている。これは,それらのアプリが,脳の特徴を利用していることの証明でもある。つまり,SNSの「製品」とはプラットフォームではなく,「あなたの注目」ということなのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 ストップ&ゴー

 

 直感というものが働く場面があります。その1つの理由は,「過去に似たような場面があった」という,個人の経験,記憶だと言われています。しかし,それ以外でも,なんとなく直感が働く場面というものがある。

 

 直感的に感じられるもののひとつに,「本気かどうか」というものがあるように思います。

 たとえば,「これをやりたい」という意思を示された時,それが本気かどうかは,直感的に感じられる面がある。迫力と言うか,気迫と言うか,そういった,目に見えないものが感じられる。

 

 一方でそれは,「目に見えない」と言いつつ,目に見える部分もある。

 たとえば,資料でそれを説明しようとする場合なら,細部にこだわりが見られるといった点です。時間をかけたことがわかると言いますか,考えた跡があると言いますか,伝えたいという思いが見られると言いますか,背景が見えると言いますか。そんな「本気の情報」は,有用である確率が高い。だから,さまざまな情報というものは,一律では評価しない方がよいのではないかな,と思います。

 

 それをしようとするとき,情報の一つひとつを精査すべきということでもない,と思います。各情報に触れるとき,その情報が発信されている「背景って何だろう?」という質問を,自分に投げかける程度のもの。その答えを考える必要もありません。歩き続けるのではなく,立ち止まるだけ,というイメージ。運動系のトレーニングで言えば,ストップ&ゴーのイメージです。

 

 ぜひ一度やってみてください。たったそれだけのことで,フロー化しやすく,また,並列化しやすい日々の情報が,自分の中で優先順位づけされていくことに気づくはず,だからです。


 20210228

「スマホ脳」 アンダース・ハンセン ~第2回~

 

<概要>

 人間の脳の基本設定からとらえる,スマホなどデジタル・テクノロジーの影響に対する答えと問いかけ

 

1)脳はデジタルのご褒美にハッキングされている

 ドーパミンは報酬物質と言われるが,「生存」に関わる事象に直面するとき,それは増える。脳は「新しい情報」に対してドーパミンを放出するのだ。これが利用されているのが,スマホだ。つまり,Webやスマホでは,ページをめくるたび,あるいは,クリックボタンが現れるたび,ドーパミンが放出されることになる。ただそれは,今見ている情報に対してではない。「次のページ」,つまり,「何かが起こるかも,という期待」が,脳の報酬システムを作動させるのだ。

 よってドーパミンは,報酬物質と言うよりは,「何に集中すべきかを促す」存在なのだ。フェイスブックの「いいね」などは,脳に「期待をさせる」しくみであり,それが「ハッキング」たる理由だ。巨大IT企業が脳科学の専門家を雇うのは,「何が報酬システムを作動させるのか?」研究し,その力を最大限引き出そうとしているからだ。ジョブズやゲイツが,自分の子どもが幼い頃には,デバイスを与えなかったのは,デジタルのご褒美に,脳が生存戦略上飛びつくことを理解していたからだと言える。

 

2)報酬システムが,集中を失わせる

 手書きメモがPCによるそれより,記憶や理解で勝るのは,「手書きでは,何を書くか? という情報処理が必要だから」と考えられる。ただ,記憶にはエネルギー,カロリーが必要。だから,その消費を抑制しようとするメカニズムがはたらく。つまり,「記憶しないで済む」のなら,記憶しないのであり,だからグーグル等の検索機能にさらされると,デジタル性健忘とも呼ばれる状態になるのだ。

 脳の機能のうち,「集中」だけは極めて限定的な能力だが,それは,危険に対する警報が非常に敏感であることからも理解できる。つまり,次々「期待させる」スマホにより,報酬システムはより強化され,集中はよりできなくなっていく,ということなのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 恵まれた環境

 

 人間のこれまでの「生存戦略」から,スマホが与える影響を論考している本書ですが,「よく検討できているな」と感じます。納得度が非常に高い。私自身には,「過集中」の傾向があります。何かに取り組んでいると,他のことはまったく気にしなくなる面があるのです。ただそうなるのには,いくつかの理由があるのだと,気づかされる面があります。

 

 私は仕事中,と言いますか,ある作業をしている最中は,メール機能をオフにしています。また,SNSなどの利用頻度も少ない。その代わり,定期的にメールやメッセージ,その他の情報に対応する時間を作っている。つまり,それらを「バッチ処理」しているのです。サラリーパーソン時代は,会議と会議の合間を,その時間に充てていましたし。

 そのことに対して,「レスが鈍い」とのお声をいただくことも,ごく稀にはあるのですが,本当に緊急であれば,電話も含め,方法は他にもあるわけですし・・・(というか,そんなに緊急のことって,それほどはないのでは?)。

 

 ただ1つ思うようになったことがあります。それは,「集中できるのって,幸せなことなんだな」ということ。

 

 危険が多くある環境では,その察知能力を常に発揮できる状態にあることが必要なのだと,本書からは読み取ることができます。だとすれば,過集中はできるということは,それこそ安全な環境に生きているからなのでしょうし,私の祖先が,そういう環境に生きてきたからなのだろう,と思うのです。それは非常に恵まれていたということでもある。

 

 そのようにとらえると,さまざまなことが「ありがたい」と思える面がある。それこそ,きれいな空気が吸える,きれいな水が飲める日本って,それこそ恵まれた環境だよなあ。世界は,そんな環境に住んでいる方ばかりではないわけですから・・・。


 20210221

「スマホ脳」 アンダース・ハンセン ~第1回~

 

<概要>

 人間の脳の基本設定からとらえる,スマホなどデジタル・テクノロジーの影響に対する答えと問いかけ

 

1)人間の脳はデジタル社会に適応していない

 人類の歴史を考えたとき,スマホに代表されるデジタル・テクノロジーが存在している期間は,その歴史の1万分の1に過ぎない。つまり,人類は,身体面でも脳の面でもデジタル・テクノロジーに適応できるようにはなっていないのだ。

 生物は,環境に適応することで生き延びたものであり,それは人類も同様だ。より適応している個が,生き延びることで,その遺伝子が残る。つまり,人類は,これまでの環境に適応させた遺伝子を持つということだ。

 

2)より強い遺伝子とは,「闘争か逃走か」

 生物にとっての最優先事項は「生存」だ。よって,生物にとってより強い遺伝子とは,「闘争か逃走か」を司るものになる。危険に対する警報は,鳴らないのではなく,より敏感に鳴ることになる。そのような遺伝子が生き延びたからだ。

 このことが,ストレスや不安というものへの,現代人への反応に影響している。

 まずストレスは,脅威そのものに対する反応だ。一方不安は,その可能性に対する反応だが,より敏感に反応する遺伝子が強いから,不安に対する反応も敏感なのだ。ストレスにさらされる状態とは,「闘争か逃走か」の二者択一モードになっているということであり,ち密な判断をしないモードであり,些細なことでも過剰に反応することになる。これが長期に渡ると,不安という「感情」を使って,危険から遠ざけようとする。それが引きこもりであり,うつ病等の適応障害のメカニズムとも言える。

 

 

<ひと言ポイント>

 背景をとらえる

 

 現代社会は,過剰なまでにネガティブ情報に覆われているのではないか,と私は思っています。新聞やTV等を見ても,「良い気分にさせるもの」は,圧倒的に少ない。試しに今日1日の新聞を,見出しだけでいいのでピックアップしてみてください。「良い気分にさせる」報道,どれぐらいあったでしょう? 半数なんてことはないと思います。ヘタすると,1割あればラッキー? 

 

 その理由の1つは,「人というものが,ネガティブな情報ほど重宝するから」ということになると思います。本著が指摘する,「闘争か逃走か」の判断をするには,ネガティブな情報が必要だからです。

 

 すると,報道するサイドでは,こんなロジックが成立してしまうことになる,と思うのです。

 ネガティブな情報を,読者,あるいは,視聴者,つまり,「顧客が求めている」のだから,よりネガティブな情報を出すことが,顧客ニーズに応えることなのだ。

 

 「成立してしまうのでは?」と,批判的に見て言っているだけなのですが,どうなんでしょう? これは単なる予想なのですが,「よりネガティブな情報を提供する報道機関が生き延びてきたという歴史があるのでは?」と思うのです。それは徐々に力となり,より強化されることになった。やがて,「より過激,よりセンセーショナル」への圧力を生み,そして今,見出しと中身の異なる記事すら生まれるようになっている・・・。