20200202

「いつでも転職できる」を武器にする」 松本 利明 著 ~最終回~

 

<概要>

 これからの時代に,ビジネスパーソンとして,自分らしく成功するための,「安心保険」としての「転職力」と,その活用法

 

1)転職しなくても身につけるべき「ポータブルスキル」

 自分に有利な道を切り拓くには,いざそのとき,のための素地が必要だ。その1つがどんな組織においてでも必要な「ポータブルスキル」であり,それは,PDCA・コミュニケーション・対人育成の3つの力で構成される。また,個人の資質を土台に,ポータブルスキルを積み上げ,さらにその上に専門性を積み上げるという3層構造のイメージを持つことも大切だ。専門性は,時代とともに陳腐化する面もあるからだ。

 大きくは,「how to live→how to learn→how to work→how to influence」を身につけることに始まり,「相手基準で教える術」,「会社を代表して発信できるだけの論理性」,「決断力と未来構想力」,「若い人から学び,また失敗から学ぶ力」の順に,身につけるていくこと。学び方としては,社外メンター含め教えを乞う,思考回路をマネる,目標を他者に決めてもらうといったものがあるが,「自分に似ている成功者であること」がそのキーとなる。

 

2)転職先を評価する視点と決断するタイミング

 転職先を選ぶなら,その企業の卒業生組織であるアルムナイがあること,辞めた社員が活躍していること,規模に関わらずNO.1があること,がポイントだ。一方で避けるべきは,大量に採用しつつ離職率が高い,仲間を強調する,退職金制度がないといった企業だ。

 また,決断タイミングとしては,予め,その目標とタイミングのシナリオを作っておくのがベスト。他にも,昇進や特別な役割に任命されたときは一つの節目と言える。上司と全く合わないときや仕事で大失敗したときもチャンスではあるが,「それを乗り越えてから」がベストだ。その事実が一生モノのネタになるからだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 学びのステップ

 

 足し算や引き算ができない人に,統計学を教えても,それを理解することすらできないだろうことは,容易に想像がつくと思います。つまり,学びには順序がある,ということ。同じように,ビジネスを含むさまざまな物事には,「学ぶべき順序というものがある」わけです。

 

 当たり前のことのようですが,このことはしっかりと意識しておきたいことだと思います。と言うのも,「それ以前のことができないのにも関わらず,その先のことを学ぼうとするケース」が多々見られるからです。

 もちろんビジネスの場合,同時並行で学ぶことも多いですし,そこでの学びは,「これができなければ,あれもできない」といった類のものでは必ずしもないとは思います。そのひとつの理由は,ビジネスを学ぶ人が,「消費者など,生産する側とは異なる視点ではあるものの,そのビジネス自体,つまり商品やサービスに関わってきたケースもあるから」です。

 

 ただ,と言うよりはだからこそ,そこには落とし穴があるとも思うのです。それは,消費者としての視点と生産者としての視点との混同です。

 

 仮に顧客視点第一というような企業であっても,「顧客が言ったから,やれ」とだけ言ったのでは,明らかに問題アリです。それではただの下僕。言い方は悪いのですが,主人と奴隷の関係です。いつまでたっても顧客との「WIN-WINの関係」は築けません。(実際には,主人と奴隷の間にも,「WIN-WINの関係が成立していたこと」が,歴史的には明らかになっているようですが・・・)

 

 学びの基本を,私は「守破離」だと考えています。くわしくは別途触れたいと思うのですが,いずれにしても,「守って,破って,初めて離れられる」というステップがあるのだ,ということです。


20200119

「いつでも転職できる」を武器にする」 松本 利明 著 ~第2回~

 

<概要>

 これからの時代に,ビジネスパーソンとして,自分らしく成功するための,「安心保険」としての「転職力」と,その活用法

 

1)他者視点で自分の資質を知り,強化する

 「自分の資質」とは,自分がどう思っているかではなく,他者が見ることのできる「自分の行動」であり「習慣」だ。だから,「自分の資質と強み」を知るには,「何で他者からありがとうと言われるか」を基準にするのが最もわかりやすい。他には,「仕事は,一番成果が期待できる人に依頼するもの」だから,「自分に頼みたい仕事,と,その理由を,周囲の方に聞く」という方法がある。

 資質には,陰と陽の両面があることもポイントだ。だから,その両方を書き出し,陰の面はポジティブな言葉に変換すること。

 その上で,普段の行動・習慣が現れる理由を考えると,「自分の資質の発揮のされ方」がわかる。仮にその一つひとつの資質が仮に強力でなくても,資質同士を「AND」で結合すれば,「資質の強化」はできるのだ。

 

2)相手が「この人と一緒にやりたい」と思えるように

 「大人の自己紹介」ができれば,自分の価値を上げられる。

 人は,自分の興味がある順で話がち。だが,それは聞き手側が興味のある順序ではない。ポイントは,「相手にとって」論理的に話すこと。初対面なら,過去・未来・現在の順に自己紹介すべき。自己紹介の目的は,相手が「今後,この人と一緒にやりたい」と思うことが必要だからだ。

 ポイントとなるのは,「一貫性」だ。「自分は○ができる」と言うのではなく,「この人ならできる」と相手が思えるよう,「(実績や今,将来像が)資質と合致しているから,再現性がある」と「感じてもらえること」が大切なのだ。

 その際,過去は資質が発揮された実績を,形容詞ではなく「名詞(=具体的なモノや場面)×数字」で語ること。そして未来は,目指している姿を,現在は未来に向けた通過点として語れるのがベストだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 変化に自ら適応する

 

 ダーウィンが「種の起源」の中で,「生き残るのは,最も強い者でも,最も賢い者でもない。変化に適応できた者である」との言葉を残していることは,多くの方がご存知だと思います。時代の変化に適応できないと生き残れない。それは,今の時代でも同じなのだろう,と思うのです。

 

 ただ,その特徴を考えたとき,私はもう一歩進めた解釈をしても良いのではないか,と思っています。それは,「自らが積極的に変化に適応させようとした者が生き残る」という考え方です。と言うのも,ダーウィンが指摘しているのは,「種の存続」の話であり,人間社会に限定した話ではないから,です。より一般化した話が,ダーウィンが指摘していることなのですから,人間社会に限定してしまえば,+αで言えることがあるはずだ,と思うからです。

 

 人間社会には,社会的ルールという特徴があります。そして,社会的ルールというものは,決して自然の話とは限らず,ある種の恣意性があるわけです。だから,社会のルールに積極的に関与した方が,勝てる確率は高まるはずだ,と,私は考えますし,「自ら積極的に,そこに関わろうとすること=変化に自ら適応すること」が,大切になると思うわけです。

 

 いずれにしても,「適応」は,時代のキーワードだと思います。それは,少し言葉を変えて,「レジリエンス」との概念が,さまざまな場面で使われるようになっていることからも想像できます。

 ちなみに,2020年度のセンター試験「国語」の第1問は,レジリエンス,を素材とした文章を扱っています。問題文自体をご一読いただくと,その意味するところの理解がより深まるのではないか,と思います。


20200112

「いつでも転職できる」を武器にする」 松本 利明 著 ~第1回~

 

<概要>

 これからの時代に,ビジネスパーソンとして,自分らしく成功するための,「安心保険」としての「転職力」と,その活用法

 

1)転職力=武器を,自分の資質をベースに磨く

 9割の人は,勝算がなければチャレンジできない。ビジネスライフにおける勝算は,自分の武器がどれだけ活用できるか,ということだ。

多くの人は「武器=強み,や,実績」と考える。だが大抵の場合それは,他者から見れば誤差の範囲に過ぎない。一方で,動機・性格・価値観といった資質による発揮された結果,他者から得られる「ありがとう」には,他者視点での自分の評価に対する一貫性がある。よって,「ありがとうと言われる場面が多いもの」を1つの軸とすれば,「何が武器足りえるか」がはっきりとするはずであり,それが,自分の資質を活かすということになるのだ。

 

2)武器を活かせる場所選び

 自分が手にした武器の市場価値は,需要と供給の関係と業界標準報酬との関係で決まる。だから,どの業界で働くか,は,非常に重要だ。さらに企業を選ぶ段階では,事業のライフサイクルが自分に合っているか,も重要だ。導入期,成長期,安定期,衰退・再展開期のどのフェーズにあるかで,要求される力が異なるからだ。たとえば導入期なら創造力やチャレンジ精神,成長期なら状況対応力,安定期ならリエンジニアリング力,衰退期ならリストラクチャリング力や再生力といったように。

だから,選ぶべき場所は,自分の武器の需要があり,標準報酬の高い業界の,事業フェーズが自分にあった企業,ということになる。

 

 

<ひと言ポイント>

 5つの特徴的な資質を組み合わせる

 

 「ギフテッド」という言葉を聞いたことがある方は,どの程度いらっしゃるでしょうか? ギフテッドとは,特定領域で同世代の方と比べて,突出した才能を持つ人のこと,あるいは,突出した才能を持つこと自体を言います。それが見られる領域は,言語,論理,音楽,身体運動,空間認識,対人関係,内省的な面,博物的な面の8つがある,と言われていますが,これは後天的なものではなく,先天的,つまり,生まれつきの資質,と言われています。

 

 もちろん多くの方は,ギフテッドと呼ばれるほど,1つの領域での才能を持っているわけではありません。ただ,それを組み合わせたら?

 

 マーカス・バッキンガム/ドナルド・クリフトン著の「さあ,才能に目覚めよう」では,人間の資質は34に分けられる,とされています。そして,一人ひとりの中で,これまたそれぞれ5つ程度が,「目立った資質」として備わっている,とのこと。つまり,一人ひとりには,「先天的に5つの資質が備わっている」と,とらえられるわけです。

 仮に,その一つひとつの資質は,それほど突出したものではなかったとしても,「5つの組み合わせ」ともなれば,「相当特徴的な資質になる」と言えるはず,です。(よろしければ,確率の世界の「組み合わせ」の式を使って,計算してみてください)

 

 「あなたの強みは何ですか?」とは,面接などではよく質問されること。「強み」と聞かれると,「何が強みなのか,答えにくい」と思われる方が多いのではないか,とも思います。ただ,このとき「自分が持つ5つの資質」を意識できたなら,いかがでしょうか? 「5つの資質の組み合わせこそ」が,「自分の強み,と考えてみてはどうか」ということです。そして,「その5つの資質が組み合わさったからこそ,成し遂げられたこと」」を振り返れば,「自分の強みを発揮するとは,どういうことなのか?」,を,理解しやすいのではないか,とも思うのです。


20200105

働かない技術」 新井 健一 著 ~最終回~

 

<概要>

 2019年時点で30代後半から40代の課長世代に求められる「働かない技術=業務削減・効率化」の考え方と,今後必要とされる「真の働く技術」

 

1)管理職に求められること

 基礎的実務は,数さえこなせばだれでも経験効果があらわれる。ただ,大切なのはそこからだ。「重要度が高く,緊急度の低い仕事」にどれだけ意識的に取り組むか,が,組織にも,個人にも求められる。特に管理職には,「部門の将来構想づくり,推進とその責任,人財育成」の役割が求められることになる。目的を明確にしつつ,ビジョンを語り,組織を活性化するリーダーシップが,マネジメントとともに求められるのだ。

 

2)「働かない=効率よく」を実現するために

 最初に「教える」は必要だが,「任せる,見守る,求めに応じて介入する」が,管理職のメンバー支援の基本フローだ。ただその前提として,「権利と自由」とセットで「義務と自己責任」があることを,学ばせる必要がある。

 「働きすぎ=残業」の原因は組織に起因するものと,個人に起因するものとがある。その対応には,足し算ではなく,引き算で仕事をすることが必要になる。バランススコアカードの利用は,そのための一つの方法だ。「ヒトの学習と成長→業務プロセスの見直し→顧客との関係づくり→財務」の流れで組織活動を見直すのが基本だが,その逆の流れでも見つめる必要がある。ただSDGsの視点の組み込みなど含め,あるべき姿は組織外部からしかもたらされない。自ら動き,学ぶ管理職が必要なのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 ビジネスフレームを使いこなすために

 

 ビジネスは,ビジネスであるが故に,ゴールが明確です。もちろん,その軽重やアプローチの違い,対象とする顧客や商品・サービスの違いはあるものの,結局は「自分たちの商品・サービスによって,顧客の課題を解決することで,収益を上げる」のがビジネスだ,と言えます。だからこそ,さまざまな「基本的なビジネスフレーム」というものが存在しているわけです。PDCAは,ISO規格に組み込まれているほど一般的なフレームですし,バランススコアカードなども,本来なら当たり前に使いたいフレームだと思うのです。でも・・・

 

 使いこなせているかと言うと,そうではない,というのも事実ではないでしょうか? 

 

 実際,単純なPDCAをまわすだけでも相当苦労するケースを,それこそ頻繁に見かけます。

 その原因のひとつに,「データが取得されていない」,「ある時取得するだけで,データを取り続けない」あるいは,「データがあるにはあるのだが,集計可能なデータになっていない」という点が上げられるのです。PDCAをまわしたいのに,それを評価するための基準がないのと一緒なのですから,自分や組織の成果を具体的に提示することができないのです。

 

 この状態で,組織改革や業務改善などに取り組もうとするとどうなるか?

 仮に成果が出ていても,その度合いがわかりません。かかる苦労に対して,その度合いがわからないのです。それでは評価もされないのですから,「止めたい圧力」がかかるのです。人間は習慣の生き物ですから。。。

 

 何か事を起こそうとするとき,もちろん行動することそれ自体が非常に重要だ,とは思います。ただ,そうではあっても,「数字」が出せる状況をつくることも,行動することと同様に重要なことだと思うのです。

 それは管理のためではなく,「ホメる」ため,なのです。

 そして,「数字」は適切に扱えば,効果を高める道具としても使えます。その重要性を知る意味でも,最低限の統計リテラシーと言いますか,データの取り扱い力と言いますか,は,学ぶ必要がある,と私は思います。


20191222

働かない技術」 新井 健一 著 ~第2回~

 

<概要>

 2019年時点で30代後半から40代の課長世代に求められる「働かない技術=業務削減・効率化」の考え方と,今後必要とされる「真の働く技術」

 

1)ナゼ生産性の低い働き方が横行するのか?

 日本人が働かないのは難しい。キリスト教徒にとっての労働は罰だが,日本は米にまつわる神事と結びつくからだ。そもそも田畑は手間をかけて良くなるもの。自分の田畑の良し悪しは周囲にも影響を与えるから,地域での評判が重要にもなる。これが今の時代の評価にも結び付いている面がある。日本は第一次産業以外でも集団成果型であることを強みにしてきた。ただそれは,限定されない職務,誰でも昇れるように見せかけた人事制度,部下の仕事を判断せず責任を取らない上司を生み,責任の所在をあいまいにしてきた。

 

2)疲弊する課長クラス

 働き方改革の本質は,個人の尊厳と生涯キャリアの自己管理だ。その権利を得る,ということは,同時に義務が発生するということになる。その本質理解が不足しているから,行動を変えない,変えられない社員が多い。さらにそれは,既存の日本型組織の強みの否定ともなりえる。そのシワ寄せが課長クラスに降りかかっている。

 

 

<ひと言ポイント>

 筋を通す

 

 正直にお伝えすると,本著,私にとってはかなり読みにくいものでした。

 「ありがちな例として」,途中途中で挟み込まれるエピソードを示したかったのだとは思いますが,かえって流れを分断しているように感じたから,です。このエピソードを入れなければ,恐らく文章全体の流れ自体も変わっていただろう,とも思います。

 

 話,というものは,「筋」があると思うのです。背骨と呼んでも良いかもしれない。背骨が真っ直ぐ一本になっていないと混乱する。行き止まりの話題が途中で出てきたり,それまでに展開していた以前の話題を突然振り返ったりすると,「ん?」と感じてしまう。それ以前に,目的に沿ったもの以外が強調されると,目的が果たせなくなりがちだ,とも。

 

 良書を選ぶポイントの一つは,目次だと私は思っています。

 特にビジネス書や解説書といった文章,その良し悪しの一つは,目次に既にあらわれる。目次だけできれいに筋が通っていると,その本は大抵の場合おもしろいのです。仮にその論が,自分の考えと合っていなかったとして,「なるほど,そういう見方があるか」と思える場合が多く,勉強になったとも思える。きっとその論の筋に無理がないからなのだ,と。

 

 逆に目次だけを見たとき,ごちゃごちゃしていると,理解が難しいケースが多いですし,実際問題として論理破たんしているケースも多い。

 もちろん,自分の力不足は棚に上げさせていただいて・・・ですが(苦笑)


20191215

働かない技術」 新井 健一 著 ~第1回~

 

<概要>

  2019年時点で30代後半から40代の課長世代に求められる「働かない技術=業務削減・効率化」の考え方と,今後必要とされる「真の働く技術」

 

1)働かない技術が必要なワケ

 その大きな理由は働き方改革で,総労働時間・残業上限の他,有給休暇取得も義務化される点だ。また現代はVUCA(Volatility,Uncertainty,Complexity,Ambiguity)の時代とも言われる。AIの台頭で,「6割の業務の少なくとも3割が自動化可能」とするマッキンゼーの分析結果が,その環境を端的に物語っているが,それは,誰もが効率化を求められているということでもあるのだ。そもそもオフィスワーカーが,生産的でいられるのは,8時間中3時間との研究結果もあるのだ。

 また,現課長世代と若手世代とでは,働くことへの価値観のギャップが大きい。若者世代は「お客様人生,挫折経験なし,上下関係に不慣れ,承認欲求が大きい,心が折れやすい」という特徴を持つ。「24時間,戦えますか?」の時代を生きた50代や,その直接指導を受けた40代の企業人とは,「当たり前」のレベルが全く異なる。さらに,女性,外国人など,働き手の価値観は多様化していることも,「働かない技術」が必要とされる,一つの理由と言える。

 

 

<ひと言ポイント>

 当たり前を疑う

 

 私が社会人になったころ,PCは,必ずしも当たり前の世界ではありませんでした。そんな中で,「大量のモノをつくり,大量のサービスを提供し,大量の事務処理を行い・・・」ということを実現しようとするなら,相応の時間がかかるのは,仕方のないことだったわけです。

 

 ただ,そこで考える方も多かったようです。「この簡単な作業,さっさと終わらせたい。さっさと終わらせて,休みたい,遊びたい,他のことをしたい」と。だから,工夫するのが当たり前だった。実際,工夫できる余地もたくさんありましたし。。。

 そして,「アイツに勝ちたい,コイツには負けない」,「出世したい,給料をもっともらいたい」という競争意識もあった。何せ1学年の人数が190万人ですから。今の30歳で120万人強,1歳児では100万人割れ,ですから,あまりに環境が違い過ぎる。

 

 よくよく観察すると,本当に朝から晩まで働いている方というのは,いつの時代もいらっしゃいます。ただ,そこには大きく2種類の方がいる。「ムダが多く,ダラダラと長いだけ・・・」という方と,「成果を出す上で,それだけ働くしかない」という方と。

 今の時点で,働く時間が働き方改革の上限を超えるという方は,「自分がどちらのタイプなのか?」を真剣に考えた方が良いと私は思います。それは,「仮に前者のパターンだとしたら,AIに取って代わられてしまう,あるいは,AIでなくても,買いたたかれる可能性が高くなってしまう」からです。「後から気づいて,時すでに遅し」とならないよう,自分の「当たり前を疑う」習慣は,非常に重要だと思うのです。


20191208

「借金2000万円を抱えた僕にドSの宇宙さんがあえて教えなかったトンデモナイこの世のカラクリ」 小池 浩 著 ~最終回~

 

<概要>

 一時借金2千万円を抱えたものの,その後完済しただけでなく,ざまざまな夢も実現した著者が「ドSの宇宙さん」から学んだ「正しい願い方」などの人生の成功の秘訣

 

1)自分を愛さない限り,他人を愛せない

 仮に自信が持てないとしたら,それは本気で自分を応援していない証拠。大切なのは,シンプルにとらえること。自分は自分を変えられるが,他者を変えることはできない。だとすれば,「相手に幸せにしてもらう」という期待を捨てればよい。「相手に変わってほしい」と願うこと,あるいは,「ステキな人が現れない」と言ってしまうこと,は,「自分はダメな人」と言っているようなもの,なのだ。だから,自分を愛さない限り,他人を愛することはできないのだ。

 

2)毎日をとことん楽しむ

 仕事とは,世の中を感謝の気持ちとお金で循環させること。 だから,本当にやって楽しい仕事ほと成功しやすいのだ。仕事だから,とか,仕事ではないから,ではなく,楽しむことが成功への道。行動するから豊かさが循環する,というのが,ここにある原理。仕事を通じて「ありがとう」を循環させる。「ありがとう」を増やす行動をする。「ありがとう」の言葉=幸せの言葉で世の中を満たそうとするのが,宇宙の原理なのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 信じるとは?

 

 「信じる,って,何? どういうこと?」と質問されたら,どのように答えるでしょうか? 

 きっと,さまざまな答えがあるのでしょうし,どれも間違いではないのだと思うのですが,いずれにしても「すっきりとした答え」を示すのは,意外に難しいと思います。言葉で表現するのが難しいから,です。

 それでも,「信じ合える仲間」はつくれる。ナゼなのだろうか? きっと,同じ価値観を共有できるから,なのだと思うのです。

 

 信じ合える,というとき,そこに存在するのは,「各自が,それぞれ,それぞれの役割をしっかりとやっている,と認め合えること」なのだと思います。だから,期待が生まれる。「一緒にやれば,より大きなことができる」,と。そして,「それぞれが,それぞれの役割に関する行動をするのですから,当然,一人だけではできない,より大きなことができること」になる。

 

 そう考えると,まずは自分が自分を「必要な行動ができるだ,と信じられないと」,他人を本当に信じることはできないことになる。そして,自分が実際に行動ができないのなら,自分を信じていることにもならない。自分を信じることを知っている人は,自分がやれることを知っている。つまり,自分が行動できることを知っている。。。

 

 ややこしいでしょうか?

 でも,単純に言えば,信じるとは「自分が実現したいことに対して,行動ができること」。これは本著だけでなく,さまざまな成功の法則を提示する書籍が,同じように示しています。


20191201

「借金2000万円を抱えた僕にドSの宇宙さんがあえて教えなかったトンデモナイこの世のカラクリ」 小池 浩 著 ~第2回~

 

<概要>

 一時借金2千万円を抱えたものの,その後完済しただけでなく,ざまざまな夢も実現した著者が「ドSの宇宙さん」から学んだ「正しい願い方」などの人生の成功の秘訣

 

1)何かを得たいと願うなら「先に払う」

 豊かさの循環は,常に「自分からの発信が先」だ。豊かさ,つまり,結果の受信は,後から発生するのだ。

 たとえば,お金も先に出すことをしないと,結果としてお金を得ることはできない。「先払いの習慣」を身につけていると,結果,払った以上の倍以上の価値を受け取れる。

 お金とは,ただの紙切れに,人が発信した愛と感謝のエネルギーを乗せ,世の中をぐるぐると回っているもの。だから,お金に対して「汚いもの」というような感情を持っているとしたら,せっかく届けられたエネルギーの受け取りを拒否しているようなものなのだ。さらに,お金を払うことに不安になっているようであれば,「お金を払う覚悟ない」ようなもので,それを望む姿と真逆の状態と言える。ニートでもフリーターでも,稼ぐ人は稼ぐ。その事実からわかることは,先に行動している,ということなのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 投資,という考え方

 

 「投資」と言うと,株式への投資や不動産投資などを思い起こし,マイナスの感覚を持つ方もいらっしゃるかもしれません。それはそれで構わないとも思うのですが,投資の本質はしっかりと理解しておいた方が良いと思います。

 

 そもそも投資の対象は,決してモノに対するものだけではありません。あらゆる事物が投資の対象になりえるのです。たとえば,人の採用は,ヒトへの投資です。新卒の採用などは,「本当に,能力を発揮してくれるかわからないけれど,それでも将来を担ってくれることを期待して行う投資」です。

 

 そのようにとらえると,何かを得ようとしたら,先に何かを払う必要があるのは,世の中の原理原則の一つだ,ととらえることができます。そこで払うものは,お金というものだけではないかもしれません。時間や努力といったものも,先に払うものの一つととらえられます。たとえば勉強の成果を得ようとしたら,勉強しないと成果は得られない,といった具合です。

 

 このような原理原則化,一般化は,非常に重要な示唆を私たちに与えてくれるように思うのです。たとえば,「仕事で評価されようと思うのなら,先に仕事をする必要がある」わけですし,今,その成果が乏しいのであれば,「仕事のやり方を変えない限り,仕事で評価されることはない」ということになる。

 

 ここからわかること,それは,「何かを得よう」とするなら,「自分自身が変わる覚悟」が必要であるということでしょうし,「自分自身を変える努力」が必要だ,ということ。それを周囲に委ねている限り,「得られる果実が,大幅に増えることはない」ということなのだと思います。


20191124

「借金2000万円を抱えた僕にドSの宇宙さんがあえて教えなかったトンデモナイこの世のカラクリ」 小池 浩 著 ~第1回~

 

<概要>

 一時借金2千万円を抱えたものの,その後完済しただけでなく,ざまざまな夢も実現した著者が「ドSの宇宙さん」から学んだ「正しい願い方」などの人生の成功の秘訣

 

1)願いと行動はセット~まずは口グセから

 いい言葉を発信するから,いい言葉が受け取れる。まずは,「酸素がある」「寝る場所がある」といった当たり前と思っていることに感謝する。「ありがとう」「愛している」の2つの言葉は,その最強の言葉だ。そして,「○○だったらなあ・・・」というような願望の言葉を,叶っている状態の言葉である「○○している!」に変換することが大切。まずはマイナスの言葉を1カ月止めれば,それだけで,人生が既に変わっているはずだ。

 

2)自由=自分の人生に責任を取る

 「期限を決める,紙に書く,言葉にする」。これが最も自分の願いを叶いやすくし,実際の行動を生みやすくもする。一方,悩むと,行動を阻害する。自分の目の前に起きていることだけにフォーカスし,行動すれば良いのだ。いわゆるワイドショーネタに怒りの気持ちを持ったとしたら,それは「自分の身に降りかかるように」願っているようなものだ。

 自由とは,「自分の」人生の責任を取ること。ときに逆境もある。そのとき心はリスク回避志向を働かせようとする。しかし魂は,逆境を映画を見るように楽しんでいる。逆境は,人生という映画を面白くするための演出にすぎない。

 

 

<ひと言ポイント>

 「○○している」状態

 

 何だか怪しげな本をご紹介するようで恐縮なのですが,「言わんとされていること」は,たとえば,ビジネスの場でも利用される「7つの習慣」など,いわゆる成功のための書籍と相通ずるものがあるので,今回取り上げることにしました。

 

 私は,自分が実際に企画書やプロジェクト計画書を書く際は必ず,「状態目標」を明確に示すことにしています。

 状態目標とは,「いつまでに,誰かが,あることについて,こうなっている」という要素を入れた目標です。たとえば,「2020年度末までに,自分のビジネスで顧客を支援することを通じて,毎年1億円,稼ぎ続けられている状態」といった具合です。

 私の場合,お客様の支援が仕事なので,「お客様がこうなっていることで,自分はこうなっている」というような書き方をするケースが多くなりますが,もっともっと自分に寄せても別に構わない。それでも,ご支援させていただいているお客様には,フォーマットとして,ご提示させていただいています。

 

 この状態目標の設定の意味,実は本書が指摘する内容と共通点が非常に多いと感じます。もちろん,表現の仕方などは違いますし,「ドSの宇宙さん」を出されてしまうと,私自身は戸惑うのですが。ただ,ビジネス書を読み慣れていないような方にとっては特に,本書のようなアプローチはあるのではないか,と思うのです。アプローチが違っても,話が通じればよい,のですから。

 

 願いを実現している状態の言葉に示して,その状態を達成する行動をすれば,その状態は達成できる。

それは,非常にシンプルな行動原理のように,私は思います。


20191117

「日本への警告」 ジム・ロジャーズ 著 ~最終回~

 

<概要>

 歴史と変化~投資家として成功する著者のモノの見方と日本の将来の見立て

 

1)人生成功のためのポイント 

 絶対に成功する方法はない。しかし,確率の高いものはある。

「自ら確かめる」という態度,外から見て自国や自身を知ること,自分の人生の目標が見つかるまでパートナー選びを焦らないこと,興奮時は誤った判断をしがちだから自分を過信せず学び続けること,好きなことだから寸暇を惜しんでやり続けられるのだということを知ること,お金は後からついてくるものであることを知ること,お金は使うものではなく貯めるものだといった「簡単な法則」に従うこと,お金とは自由であることだから人生の目的を忘れないこと,など

 

2)投資の基本は「安く買って,高く売る」

 「安く買って高く売る」のは,投資の基本だ。しかし,ほとんど投資家は,「強気相場」にしか目を向けない。「ベア」の視点で弱気相場で動くのが投資の基本だ。

 そのためには,自ら情報を収集し,自らの判断で買うしかない。安いものを見つけ,その将来性を大きな変化に基づき見極める。だから,手間を省くことはできない。「価値があると思う」ではなく,「価値があることを知っている」ことで,勝てる投資ができる。企業を評価するには,年次報告書で,利益率・自己資本利益率を見るのが基本。そこに新聞を中心とした日々の情報から,将来性を見極めるのだ。「政府の動きは,触媒になる。危機の後に来るものは何かと考える。大衆は日々のニュースに過剰反応する。・・・」

 情報は,「本当にそうなのか?」と疑い,自分の目で確かめることが必要だ。その力をつける上でも,歴史を中心とした勉強と,ある程度の経験も欠かせないのだろう。

 

 

<ひと言ポイント>

 批判的に見る,には,時間がかかる

 

 「歴史はくり返す」という言葉は,多くの人がご存知だと思います。それが言葉として存在するほど,やはり歴史はくり返されてきたのだろう,と思います。では,それは,どうすれば活かせるのでしょうか?

 

 たとえば株式投資で成功することを目指すのなら,株式市場で起きていることのうち,まずは一般化されるようなこと,を勉強するのが鉄則なのだろうと思います。バブル崩壊やリーマンショックなど,株価の暴落は,市場が過熱しすぎたとき,そして,我も我もと人々がこぞって株式市場に参入するとき,起きていることがわかる。つまり,「過熱」は崩壊を生むことを学ぶことができる。

 

 しかし,本当にそうなのでしょうか? 

 

 私は恐らく「本当のことだろう」と思うのです。というのも,「○○フィーバー」との言葉があるように,「過熱」は他でも見られるから。最近もあったはずです。「○○フィーバー」に相当するものが。

 

 

 このレベルで良いのか,は別として,何か一般的に言われていることについても,「本当にそうなのだろうか?」と,批判的に見ること,が,成功するためのキーなのだ,と私は思います。

 

 ちなみに,私が実際に株式に投資をするとしたら,次に「仮の経験」をしに行きます。あるターゲットとする企業を抽出し,「安いと思う額」と「高いと思う額」を,情報を下に決める。そして,実際にそのタイミングで購入したことにして,そのタイミング売ったことにする,といった具合です。その上で,実際に少額で株式投資の経験をする。そして。。。

 

 このように見てくるとわかることがあります。それは,「実際にやるには相応の時間がかかる」ということ。

 だから,「その時の瞬時の判断」のために,事前準備が必要なのでしょうし,それ以前に「自分がそのことに時間をかけたいのか?」という意志が必要なのだ,と思うのです。


20191109

「日本への警告」 ジム・ロジャーズ 著 ~第2回~

 

<概要>

 歴史と変化~投資家として成功する著者のモノの見方と日本の将来の見立て

 

1)移民受け入れは日本のビジネスチャンスだから 

 移民の受け入れは,ビジネスチャンスになる。不動産,教育,外国人向け飲食サービス,観光だ。中でも中国は,その人口規模も含め無視することはできない。その意味でも,中国語を学ぶことは必要になるだろうし,それ以前に,外国人に対する差別意識を払しょくする努力が必要だ。語学,環境への慣れの両面が克服できれば,将来的に海外への移住も検討できるはずだ。

 

2)小さな変化をとらえるとは? ~米中ロと朝鮮半島

 米は状況を悪化させている。トランプ政権の保護主義は,結果ドルの価値を下げ,経費が上がることになるから,競争力を失墜させる。

 中国にとっての最強の資源のひとつは華僑で,これは起業家精神のあらわれ,だ。人々は勤勉に働き,収入の3割を貯蓄や投資に充てている。

 北朝鮮は金正恩がトップであることが変化を生んでいる。スイスで暮らした彼が当時の暮らしを取り戻すには,祖国を大成させるしかない。そこで注目されるのが70年間閉ざされた国へのツーリズムだ。また,北朝鮮は今,非常に活気に満ち,教育にも熱心。海外に送り込まれた人財が経済成長の原動力になる。

 ロシアは共同基金の設立が変化の兆候だ。

 

 

<ひと言ポイント>

 冷静に見る

 

 私たちは誰もが,「当たり前の感覚」というものを持っています。ただ,この「当たり前の感覚」というものがあるために,ときに物事を冷静には見られなくしてしまう,と思うのです。

 

 たとえば,本書で著者が指摘する「北朝鮮の今」について,「そんなはずはない」と思う方も多いのではないでしょうか? ただ少なくとも,北朝鮮という国に変化が見られることは,たとえば「資金面でも技術面でも,ミサイルの発射実験が何度もできるレベルにあること」からもわかる。北朝鮮が資源国であることは知っていますし,韓国と北朝鮮とであれば,北朝鮮の方が朝鮮半島の歴史においては主の立場であったことは学びましたが,実際のところはまったく知りませんし,十分な情報も持っていないからです。だから,それが良い方向なのか悪い方向なのかの判断すらできないけれど,変化を感じることはできる。

 

 そのような変化を,「冷静に見られる,評価できる」ことは,一つの大きな武器になる,と思うのです。なぜなら,冷静に見られる方ばかりではないから。そして,冷静に見られるようになるために,事実を把握する力が大切になるとも思います。その要素が,たとえば事実を把握する行動力であり,自分の目で見たり感じたりした経験であり,データを見る力・使う力であったり,あるいは,そのデータを自分のリアリティにすりあわせられる力であったりするのだ,と私は思います。


20191103

「日本への警告」 ジム・ロジャーズ 著 ~第1回~

 

<概要>

 歴史と変化~投資家として成功する著者のモノの見方と日本の将来の見立て

 

1)日本の根本課題は人口減 

 子を産まず,移民も受け入れない,では,生活水準の低下は必然。国だけで1千兆円近い財政赤字,金融政策では指値オペで無制限に貨幣を発行できる状況下では,通貨価値が相対的に下がるため,中長期でコストに跳ね返り,国を衰退させることになる。結局アベノミクスは,金を株式市場に向かわせただけで,かつて勤勉さ,質素・倹約,ホスピタリティ,高品質の追及で成長してきたかつての日本とは思えないほど酷い状況にある。さらに国家にとって金儲けになったことのないオリンピック開催は,国の衰退を加速させる。

 

2)課題が明確だから,すべきことも明らか

 人口が根本課題なのだから,その対処施策,つまり,少子化対策と移民拡大施策をまずはすべき。そのために,女性の地位向上施策と,留学生や労働者などの受け入れも含めた渡航者拡大施策がポイントになる。特に移民は,子どもを多く生む傾向が高く,人口減課題の根本対策にもなる。ただし,コミュニケーションの課題が大きくなるのは必然だから,移民受け入れコントロール,外国人への慣れを目的とした外国語教育の整備は必須となる。

 

 

<ひと言ポイント>

 自分にとっての正解の基準をつくる

 

 投資家として成功する著者が,「日本をどのように見ているか,評価しているか」が,本書ではまとめられています。

 本書からは,「著者にとっては,少なくとも現状の日本は,投資の対象足りえない存在」という評価だということが読み取れます。それはナゼか?

 

 著者は,自分が投資家として成功できた理由を,「(失敗も含めた,成功の)歴史を知っているから」であり,「だから,成功に向かう(はずの)変化に気づけること」を挙げています。つまり,「自分が投資家として成功するための基準を,自分の中に持っている」ということであり,その基準に照らしたとき,「日本への投資は,著者が成功できるものではなく,他の国に投資した方が,余程著者にとっての成功の確率が高い」と考えているわけです。

 よって本著での日本の評価は,万人にとっての正解というわけではありません。著者にとっての正解,なのです。

 

 このことは,私たちに多くの示唆を与えます。それは,「自分にとっての正解は,他者にとっても正解というわけではないこと」,「自分にとっての正解の基準をつくれれば,自分にとっての正解もわかるはずだ,ということ」。そして,筆者は「成功・失敗の歴史を踏まえた,小さな変化を,判断基準にして評価している」という点です。

 

 著者の論は,著者が収集した「歴史も含めた事実」に基づくものになっています。それは必ずしもデータだけではないですし,「歴史はくり返される」と著者が言うことからも,本当の意味で客観的とは言えないものが含まれていることがわかります。

 しかし少なくとも,「著者が判断するに足るだけの事実を収集しきった上での評価であること」は間違いありません。著者レベルの成功をしたいとすれば,相応の努力が必要だということも表しているのではないか,と私は思います。


20191027

「THE RHETORIC」 ジェイ・ハインリックス 著 ~最終回

 

<概要>

 自分の思い通りの行動に相手を導く「伝える技術=レトリック」とその手法のポイント

 

 

1)説得にはタイミングがある 

 同じことを同じように語ったとしても,相手が説得されるとき,されない時がある。つまり,説得にはタイミングがある,ということだ。その絶好のタイミングとは,「状況や雰囲気が変わったとき」だ。これを人為的にする方法が,「ターゲットにする聞き手を変える」という方法。

 

2)五感とエートス・パトス・ロゴスとの関係

 レトリックの3つの技術は,それぞれ五感との相性がある。基本的には,「視覚=エートス,聴覚=ロゴス,嗅覚・味覚・触覚=パトス」という関係が成り立っている。だから,それぞれの特性を理解し,使う場面,使う方法を検討することが大切になるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

 言葉のパワー,と,それを扱うプロ

 

 長々扱ってきましたが,「THE RHETORIC」も今回で最終回です。

 私は「レトリックを使えるようになれ」と言うつもりはまったくありません。そうではなく,レトリックを使って騙そうとしたり,誤魔化そうとしている人が中にはいる,ということを忘れないようにすべきであり,そのために「レトリックを知ることが大切だ」と思うのです。

 

 言葉は誰もが使うことから忘れがちですが,言葉を使うことに長けている方は間違いなく存在するわけです。だから,「スピーチライター」などという職があるわけで。。。だから,しっかりと覚えいた方が良いことがあると私は思います。それは,

 「言葉には,パワーがある」ということ

 

 インスタ映えという言葉があるように,今の時代というのは「見えること」が重視される時代だと思います。写真や映像などは,瞬時にたくさんの情報が伝わる。「いちいち説明しなくても」,わかることも多い。

 ただ,写真や映像といったものにも限界はある。その一つは,頭の中にあるものは示すことができない,という点です。

 その点言葉でなら,時空を超えやすい。過去も,今も,未来も表現できる。でも・・・。

 

 見える形にするプロである芸術家と呼ばれる方々は,過去でも未来でも見える形で示すことができる。グラフィックを含む絵画の世界はその典型だと思います。自分の頭にあることを,それを見る人に伝える力を,努力により身につけた。絵を描く技術を伸ばし,また,想像することを含む「考える力」を身につけた。

 

 同じように考えると,言葉を使うプロがいるはずだ,と想像することができる。

 それは流暢に話すことでは決してなく,相手がその情景が見えるように話す力。それを駆使している方々がいるということを,忘れてはならないと思います。


20191020

「THE RHETORIC」 ジェイ・ハインリックス 著 ~第6回

 

<概要>

 自分の思い通りの行動に相手を導く「伝える技術=レトリック」とその手法のポイント

 

 

1)相手を自然に動かす技術 

 私たちは知らぬ間にレトリックの技法を使っている。逆に言えば,レトリックには,相手に「そうするのが自然」と感じさせるような具体的な技法がある,ということだ。

 この世にある四字熟語やことわざなどを含む常套句・慣用句は,世の中を動かしている。だからそれをもじれば,相手を動かす言葉にできる,ということでもある。他にも,対になった言葉の順序を入れ替える交差配列法,表現の強さを徐々に高めるクライマックス法の他,自分の発言を訂正することで公平さを感じさせる,動詞を名詞に・名詞を動詞にするなどして新しい言葉をつくる,といった手法もある。

 

2)現実を違った角度から見せる

 比喩は,相手を自然に動かす力がある。「僕の車は野獣」というような隠喩,「ホワイトハウスが声明を発表」というような提喩,「アルコール依存症になった」ことを「酒瓶を手放せなくなった」というような特徴で示す換喩の他,誇張などもこの一部にあたる。

 また特徴のキーワード化は,集団を一つに束ねる手法。そのためには,集団のアイデンティティをとらえることも重要になる。

 

 

<ひと言ポイント>

 「柱」を作って,技法を使える状況をつくる

 

 私たちは,その生きる世界の中で,誰かを説得しています。組織を動かす管理職であれば,メンバーに動いてもらうことが必要でしょうし,保護者であれば子どもに「場にふさわしい行動」をとらせることが必要にもなるでしょう。それは,身の安全を確保するためでもあるでしょうし,自分に共感してもらう,あるいは,自分の夢を実現しようとするためにも必要かもしれません。

 その際レトリックの技法を駆使できれば,それがより効果的なものになることは,本著を読むと理解できますし,ここまでそのポイントを読まれた方も感じていただけるかもしれません。

 

 ただ一つ,問題があります。それは,「その技法を,どれだけの場面で使えるのか?」ということです。少なくとも私の場合,準備ができていない限り,レトリックを意識して使うことはできそうにありません。

 

 その準備とは,レトリックの技術を学ぶこと以前に,議論において「意識せずとも,自分がその議論により得たい結果を忘れずにいられる」ということです。もっと言えば,それができていないと,レトリックの技術を本当の意味で学ぶことはできない。練習することもできない。

 

 少なくとも私の場合,一度にいくつものことができるほど器用ではありません。つまり,目的を忘れないこと,と,レトリックを使うこととを,同時に行うのは難しい。自分がその議論で目指す状態を明確にできないと,とてもではないですが,レトリックを意識して使うのは不可能に近い。。。

 

 ここで学べることがあると,私は思います。

 レトリックに限らず,さまざまな技術を使おうとする場合,その技術を本当の意味で使えるようになるには練習が必要です。ただ,その練習をするにも,同時に行う何か,つまり,レトリックにおいてであれば,「その議論の目的が,無意識レベルにまで明確になっていることが必要になる」ということです。そうでないと,技術を使うことに意識を向けることができない。

 

 「同時に行う何かが明確になっていること,が,技術力を養う前提になるのではないか?」と思うのです。その地点にまずはたどり着かないことには,本当の意味で技術力を磨く云々の話のところにまでたどり着けない。

 

 ただそれは,決して難しいことばかりではない,とも思います。

「自分の好きなこと,自分のなりたい姿を明確にすることが,同時に行う何かでもある」とも,思うから,です。


20191013

「THE RHETORIC」 ジェイ・ハインリックス 著 ~第5回

 

<概要>

 自分の思い通りの行動に相手を導く「伝える技術=レトリック」とその手法のポイント

 

 

1)相手の攻撃から自分の身を守るには? 

 議論の場面では,その相手に攻撃される場合もある。そのような問題が起きる理由を知り,それを実際に議論の中で指摘できれば,議論の質を高められると同時に,相手からの不条理な攻撃から自分の身を守れる。

 問題が起こる理由には,証明の誤り・結論の誤り・証明と結論の分断の大きくは3つがある。その具体的なものとして,間違った比較,不適切な事例,無知であることを証拠にする,仮説と同じことを証明している,間違った選択肢,話をそらす,論理の誤り,そして,反則の利用がある。

 

2)議論には「反則」がある

 議論における「反則」とは,解決策を検討する場で犯人捜しをするような誤った時制の利用,「権力者が言った」などを含む頑ななまでのルールの順守,自分にとって都合の良いものだけを事実として取り上げること,そして,議論する相手への攻撃があげられる。

 

 

<ひと言ポイント>

 自分が当たり前と思っていることほど,明示する

 

 議論には,議論する目的があります。

 本書が指摘する議論の目的は,「相手を動かす」こと。つまり,「今,議論の相手や聴衆に何をしてもらいたいのか」が,出発点になるわけです。「議論に乗ってくれれば」,確かに本著が指摘するような具体的な方法が役に立つ,と私は思います。議論に引っ張り出せれば,何らかの手が打てる。「こう言ったよね?」とも言えるし,「こう約束したよね?」とも言える。

 

 ただ,本当に問題になるのは,そもそも「解決したい課題が,議論の相手や聴衆には,ない」という場合です。

 

 たとえば「指示待ち」なのに,「指示された内容を無視する」といったような場合,その指示により解決しようとする課題を,指示を受けた側は課題ととらえていないから,それを結果的に無視することになってしまう。。。

 そのような場合,何らかの罰を与えることで,課題を自覚させるしかないのかもしれないのですが,そうは単純にいかないケースがあるのも事実です。たとえば「人手不足」のようなものが絡む場合は,実は短期的には手が打ちにくい。「今すぐ辞める」という手段を取られてしまう可能性があるからです(そのような方には,長い目で見れば,辞めていただいた方が良いのかもしれませんが・・・苦笑)。

 

 その場合,相手を議論に引っ張り出す必要があるわけですが,では,どのようにして,議論に引っ張り出すか? 私は,議論の枠を大きくしてしまうのが一つの手ではないか,と考えています。

 その最大の理由は,議論の対象となる人を増やせるからなのですが,他にも議論の枠を大きくするメリットがあるのではないか,と考えてるからでもあります。

 

 「総論賛成,各論反対」という言葉をご存知かと思います。私はこれが起きるのは,「総論とされる範囲が,実は狭いから起きるのではないか?」という仮説を持っています。

 たとえば,環境問題。誰もが自然を大切にすることに賛成しつつ,各論では反対しているかのように見えますが,実は,そもそも「環境問題」と言われたから,その範囲で考えただけで,多くの場合,他の要素との関係を理解して答えられてはいないのではないか,と思うのです。

 むしろ,「環境対策と目の前の社会保障と,どちらにカネをかけるか?」といったように,「総論の方をより大きく,かつ論点は単純なもの」に絞り,またその際には,「両方」といった答えが出ないよう,「お金は湯水のようにはありません」,「それぞれの大きなメリット・デメリットとして,このようなものがあります」といった前提を示して,検討してもらえば,本当の民意を抽出しやすいのではないか。

 

 先の「罰を与えにくいケース」で言えば,「指示されたことに着手し,うまくいったケースでは,対価を増やす」といったことを議論に含める,といった方法です。そうすることで,議論の放棄は失くしていけますし,また,議論の参加者一人ひとりが,「比較」で,判断しやすくもなります。

 

 このような手法は,実は当たり前の手法なのかもしれません。

 しかし,当たり前と思っているのに,それが明示されておらず,議論に参加させようとしている相手には伝わっていないケースも考えられるのではないか,と思うのです。

 「自分が当たり前と思っていることこそ,丁寧に示すこと」

これが実は議論にあたって本当に大切なのことなのではないか,と私は思います。


20191006

「THE RHETORIC」 ジェイ・ハインリックス 著 ~第4回

 

<概要>

 自分の思い通りの行動に相手を導く「伝える技術=レトリック」とその手法のポイント

 

 

1)「ロゴス=論理」は「相手が今いる場所=相手の共通認識」から始める

 いくら論理的な説得であっても,「話始める地点」を間違えると,その話が相手に通じることはない。つまり,「相手が今いる場所」から話始める必要がある。

 相手が今いる場所をつかむには,「相手がくり返し使う言葉」を探り当てることだ。なぜなら,その言葉こそが,「相手が属する集団の共通認識」だからだ。その上で,「相手にとって利益になることだ」と理解させることが必要なのだ。

 

2)相手の言葉を自分の言葉に変える

 だから,相手の共通認識となっている言葉のうち,説得に使える言葉を探しだしたら,次にするのは,論点の整理だ。相手が属する集団のうち,ひとりでも多くの価値観に訴えられる論点にするのがポイント。

 その上で,「具体的な問題」を未来形で語るか,あるいは,選択肢を与えるように話すことで,相手に自分の未来を選ぶよう導くことが,ロゴスの利用のポイントになる。その際の具体的なテクニックとして,演繹的な手法と,帰納的な手法とがある。

 

 

<ひと言ポイント>

 「あなたのためなのに・・・」という勘違い

 

 子どものころ,多くの方が大人たちから「勉強しろ」「ルールを守れ」などと,散々(?)言われ続けてきたのではないでしょうか? またその理由として,「大人になったら困る」とか,「バカになっちゃう」とか言われたかもしれません。しかし「その時点で」,将来困るから勉強しようだとか,バカにならないように勉強しようだとか,本当の意味で思ったわけではないのではないか,とも思います。「そんなこと言ったって,なんとでもなるでしょ?」

 

 結局人というものは,「実際にそうなったときに,どのようなことが起きるのか」を,リアリティを持って想像することはできない。未来に何が起きるのか,など,実際のところ誰にもわからないのですから,安きに流れる。今が楽しければ,今がラクならば,それでいい,となりがち。結果,将来その結果が現れたとき,本当の意味で後悔することになる。

 

 「早く気づくこと」は絶対的に必要だと思うのです。それが「歴史を学ぶ」一つの理由であり,だから子どものころに,歴史上の偉人を学ぶのだと思います(個人的には,偉人だけ学んではマズくて,もっと身近な人々から学ぶべきだと思うのですが・・・)

 一方で,自分でマズイと気づき,努力もしているのに,成果が思わしくないという方もいます。その一つの原因は,努力するところ,努力すること,を間違えてしまっていることにあるのだろうと思います。

 

 いずれの場合もサポートが必要なのだと思いますが,そのアプローチは大きく異なります。

 本書が指摘するのは,スタート地点の違い。本書は「説得」を対象にしているわけですが,これはサポートする場合でも同じことでしょう。つまり,サポートの場合でも,スタート地点を間違うと効果が現れないということ。この指摘を教訓にしていくことが,サポートする立場の人,組織をリードする人だけでなく,親なども含めた「すべての説得する立場の人」に必要なことではないか,と思います。

 

 「あなたのためなのに・・・」は,説得する側の甘えと考えるべきなのだろうと,苦しいのですが私は思いました。


20190929

「THE RHETORIC」 ジェイ・ハインリックス 著 ~第3回

 

<概要>

 自分の思い通りの行動に相手を導く「伝える技術=レトリック」とその手法のポイント

 

 

1)「パトス=感情」は共感の技術

 共感の技術は,感情移入とは異なるものである。パトスによる説得では,「相手の感情」に変化を起こし,行動を駆り立てることが主な目的となる。そのポイントとは,「逸話とそのときの<感情>を語る」,「シンプルに,少ない言葉で語る」,「郷愁や中正など,帰属に関わる<感情>を語る」,「話の後半で使う」ことだ。

 

2)相手の怒りの感情を利用する

 相手に欲求が生まれれば,行動を駆り立てる。行動を駆り立てる最も強い感情は,怒りだ。だから,行動に向かわせるには,「怒りの感情」を利用するのが効果的となる。

 一方で,相手の怒りを和らげる技術を身につけることは,相手の行動を抑制することにつながる。そのときには,怒りの原因が特定化されないよう受動態を使う,状況をコントロールしているのは相手であることを理解できるよう促すのがポイントとなる。

 

 

<ひと言ポイント>

 怒りをパワーに変える

 

 アンガーコントロール,ハラスメント,といった言葉が流行する今の時代, 「怒ってはいけない」風潮が,今の世の中にはあるように思います。そして,「鈍感力」を自分の身を守るために身につけよ,とする風潮も。

 でも,怒りの感情って,そんなに悪いことなのでしょうか? 

 

 「いじめられても怒らない」,「暴力をふるわれても怒らない」のは,加害者を擁護してばかりで,被害者の権利を踏みにじってきたからなのではないのか? と思うのです。悪いことをした事実を取りあげず,その事実に対して叱らない,怒らない。「悪いことをした人たちも,本当は良い人なのだ」と加害者を擁護してばかりで,被害を受けた人の権利を踏みにじる。

 

 権利を踏みにじられ続けた人々は,正当な怒りを感じることができなくなっている。決して怒りの感情を制御できているというわけではない。

 そしてそれは次第に,無遠慮,無配慮の世界にも広がっていき,仕事の世界にさえも広がっている。

 

 

 もちろん,怒りの感情を暴力などの形で訴えることに賛成しているのではありません。でも,不条理な行動や態度,権利の侵害や要求している義務の不履行など,その事実に対して怒ることは当然のことだ,と私は思うのです。むしろ,怒れない方がおかしい。

 

 また,怒りの感情の抑制,そして,それを続けることによる怒りの感情の欠如 は,大事な何かを失う原因になっているのではないか,と思うのです。それは,行動・実践力です。

 

 逃亡犯条例改正案をきっかけとする香港の大規模デモが長く続くのは,その怒りをパワーに変えた結果だ,と思うのです。もちろん,その一部が暴徒化するのは非難に値すること。でも,大規模デモという行動を起こし,それを毎週のように続けるパワーの源泉に,怒りの感情があるのではないか,と私は思います。


20190922

「THE RHETORIC」 ジェイ・ハインリックス 著 ~第2回

 

<概要>

 自分の思い通りの行動に相手を導く「伝える技術=レトリック」とその手法のポイント

 

 

1)「エートス=人柄」を発揮する前提は「適切さ」

 聴衆がエートスにより説得されるには,「聴衆が期待する振る舞い=その場にあった振る舞い=適切さ=ディコーラム」が必要になる。つまり,聴衆の価値観・聴衆が求めていることを知っていることが前提であり,それが事実かどうかではなく,「聴衆にとって,そう見えること」が大切なのだ。

 

2)「エートス」と,その3要素=徳,実践的知恵,公平無私

 エートスには3つの要素があるが,いずれも,聴衆がそのように感じればよいのだ。

 徳があるように見せるには,自分か他者に功績を話してもらう,欠点をあえて見せる,周囲の動向によって意見を柔軟に変えることが必要。その上で,聴衆が重きを置いている金・名誉・信条などのポイントを支持することだ。

 実践的知恵は,自分の経験をアピールするのが一番。本で得た知識と実際の経験を組み合わせると良い。

 公平無私は,自己犠牲の姿勢を,つまり,自分を犠牲にすることを厭わない態度のこと。否定しようのない事実があるために達した結論であること,自分にとっては困りごとであることを示すこと,嘘がないと思わせる,自分にも迷いがあるように見せるといったテクニックが考えられる。 

 

 

<ひと言コメント>

 場の相応しさ

 

 どんなに正しいことを言っていたとしても,それが通じない場面というものがあります。

 そもそも,「正しい」の定義の違いがあるのかもしれませんが,「議論する(あるいは,提案を受ける,とか)というのは見せかけ」という場合,「こうなりたい」「こうしたい」と口では言いつつも,本心ではそんなことは思っていないというような場合などは,正しいことが通じない場の典型かもしれません。

 そのようなときは,否定されることを覚悟してその場に乗り込むのか,あるいは,鼻からそのような場には行かないというのも,対処法としてはあり得るだろうと思います。

 私の場合,仕事柄もありますが,否定されることは覚悟して,その場に乗り込むことが多いように思います。丸腰で行ったらえらいことになるので,数字を押さえることだけはしておくのですが,数字という「事実」があったとしても,相手の態度が変わるとは限らない。

 

 その事実を踏まえて考えると,人気のある,と言うか,少なくとも相応の指示を得ている政治家は,好き嫌いは抜きにしてスゴイ部分があると思います。

 実際,政治家のみなさんの行動というのは参考になりますし,レトリックとは何か?を理解するのに,非常にわかりやすい題材と言えるとも思います。

 その典型的な行動は,「まずは支持層の方々が集まる講演会や集会といったものに出向き,次に自分の主張が通りやすい地域に出向き,さらに激戦地に出向き,自分の主張が通りそうにないところには行かずに,Twitterなどで空爆をしかける」というもの・・・。

 

 「受け入れてもらえる素養・土壌のあるところから仕掛ける」その様は,「簡単なところから始めよ」との言葉に通ずるものだと思います。そして,レトリックが指摘する「場の相応しさ=聴衆が期待する振る舞い」そのものではないか,と思うのです。そこには「質的正しさなんてどうでもいい。選挙で勝てる量的正しささえ確保できれば・・・」との考えが透けて見えるように思うのですが。。。


20190914

「THE RHETORIC」 ジェイ・ハインリックス 著 ~第1回

 

<概要>

 自分の思い通りの行動に相手を導く「伝える技術=レトリック」とその手法のポイント

 

1) 議論の目的は,相手に動いてもらうこと

 議論をしても,行動に結びつかなければ意味がない。結果相手に動いてもらうためには,相手の「感情を刺激し,考えを変え,行動へ駆り立てる」というステップが必要だ。そのためには,「解決策を聞きたいと思わせ,その策が最善だと思わせ,簡単だと思わせる」ような伝える技術が必要になる。

 議論においては,質問や答えの内容ごとに時制が異なる。「非難=過去形」「事実などの価値=現在形」「選択=未来形」を利用しているのだ。だから,意見の対立が発生したときには,時制を変える質問をすれば,議論自体をコントロールできることになる。「目的を達成すること」が目的なのだから,事実であることはあまり重要ではないこと,しっかりと理解する必要がある。

 

2)説得の3つの技術=エートス・ロゴス・パトス

 説得において用いる技術は,人柄での説得であるエートス,論理性での説得であるロゴス,共感などの感情面からの説得を示すパトスがある。3つの技術は,議論のそれぞれの時点,内容などなどによって,最適な場面が異なる。

 

 

<ひと言コメント>

 他者を知る=他者が駆使する技術を知る

 

 「ポピュリズムの台頭」が叫ばれるようになってから,すでに数年が経とうとしています。確かに各国の要職に就かれている方々を見ると,そう言われても仕方のない部分もある,と思います。その一方で,「ナゼそのような方々が要職に就けたのか?」は,考えてみる価値のあることではないか,と思うのです。

 

 もちろん,その方を支持する方がいるから,なのですが,では「ナゼその人」なのか? 大衆にとって耳障りの良いことを並び立てる方は,恐らく他にもたくさんいるはず。その中から選ばれた方は,ナゼ選ばれたのか? 

 

 きっとどれか一つだけ,ということはなく,いろいろな理由があるのだと思います。ただその大きな理由の一つに,「レトリックの技術を駆使できること」があげられる,と思います。アリストテレス,カエサル,リンカーン,ヒトラー・・・良い悪いは別として,世界に大きな影響を及ぼしたと言われる歴史上の人物は,その技術を駆使できた,と考えられているからです。

 

 「自分は多くの人を説得する立場でもないから,レトリックなんて必要ない」というように思われる方もいるかもしれません。でも,私たちはすべて,その技術と無縁ではいられません。その一つは,誰にでも誰かを説得する必要が出てくる場面があるからですが,使う,使わないは自分次第ですから,無縁でいようと思えばいられます。一方で,「他者に,議論のときに使われる」ことは,自分の意思ではどうにもなりません。

 

 レトリックを知った方が良いと私が思うのは,自分がその技術を駆使できるようになるためではなく,それを駆使する人々に最低限「ダマされないように」「惑わされないように」するため,です。その技術のポイントを知り,そして,実際の発言を分析してみる。すると,その相手がどんな人なのか,本当の意味で理解することにもつながるのではないか,とも思います。


20190908

データはウソをつく」 谷岡 一郎 著 ~最終回~

 

<概要>

社会科学における「一般化」プロセスとそのあいまいさの誤用・悪用に対処するためのモノの見方

 

1) データ分析の手法から「結果」の信頼性と妥当性が担保されているかを学ぶ

 データ分析の基本プロセスでは,「トピック抽出と仮説立案→結果に影響する変数の仮定→データ収集の設計→データ収集とクリーニング→分析」のステップを踏む。また分析においては,「変数の分布,平均の差の確認,<複数の変数の内どれが真の原因か>を確認する多変量解析」の手順を踏む。それは,測定の信頼性と妥当性を担保する条件であり,測定結果を評価する前提でもある。

 社会調査では,質問票を利用しデータを収集するが,質問の絞り込み,使う言葉の意味が正確に伝わるか,誘導するような質問文でないか,回答のしやすさなどの確認が必須。また,調査対象・サンプル数など,その調査の信頼性が担保されていることも合わせて,その結果を「事実として受け入れて良いか」,確認していくことが大切になる。

 

2)情報を見極める力

 情報を上手く使えれば,社会での武器になる。しかし,情報量が急拡大する現代社会では,「ゴミ」ともいえるようなものが多く含まれている。よって,それを武器にするには,基礎となる「教養」,事実や数字を正しく読む力である「リサーチ・リテラシー」,そして,ゴミの山から本物を嗅ぎ分ける総合的な思考力「セレンディピティ」の,3つの能力を身につける必要がある。

 「リサーチ・リテラシー」を鍛えるには,調査手順を学び,学びに基づき調査する経験を積めばよい。リサー「セレンディピティ」を鍛えるには,考えるクセをつけること。世の中の情報を鵜呑みにせず,発信者の意図,情報の背景にあるもの,などを想像することだ。

 

 

<ひと言コメント>

 あらゆる情報には「意図」がある

 

 本著が指摘する最も重要な事実のひとつは,「本当に有益な情報は限られてる」という点です。

 「インターネットの発達で,今,私たちが目にする情報のスピードと量は,幾何級数的に増加している」と言われてはいるものの,実際にネット情報を確認すると,「元になる情報の焼き増し」だったり,「根拠が不明確」だったり,「ただの思い込み」だったり「ただのグチ」だったり,というものが極端に多いことに気づくのではないか,と思います。仮に「事実」であったとしても,その「要約」でも,「意見や考え」でもないものが,本当に多い。

 

 すると,一つの疑問がわくのではないかと思うのです。それは,「ではナゼ,それだけの量の情報が発信されるのか?」ということ。そして,このようにとらえると,「あらゆる情報が,何らかの意図があったうえで発信されている」という事実を,はっきりと意識できるのではないか,と思います。

 

 だとすれば,少なくとも,「各情報の意味」だけでなく,「各情報が発信されているのはナゼか?」という,「発信者側の意図」と「それを媒介するメディア側の意図」とを押さえて各情報を見つめる方が,その情報の有用性を判断しやすくなるのではないか,と思うのです。

 

 実際,私がこの場で発信する情報にも意図があります。

 本サイトの目的に示しているとおり,「幸せになるために参考にしてもらえる情報」を発信しているのですが,この文を読んでくださったみなさんには,「この発信者,つまり,私の言葉は本当なのか?」と疑ってもらいたいな,とも思います。

 本著からの学びを活かしていただきたいですし,疑ってみていただくと,私が本気で「幸せになるために参考にしてもらえる情報を発信したいと考えている」ことを,わかっていただける,とも思うからです。


20190831

データはウソをつく」 谷岡 一郎 著 ~第1回~

 

<概要>

社会科学における「一般化」プロセスとそのあいまいさの誤用・悪用に対処するためのモノの見方

 

1) 社会科学における事実

 社会科学における事実の一般化プロセス,つまり,事実の認定プロセスは演繹法である。つまり,「特定の理論」を仮説として,その仮説が,現実社会の実体と合致しているかを証明するのが一般的である。その逆,つまり事実から理論を証明しようとする帰納法では,「本来関係のないこと」をあたかも関係あることとして誤認する可能性があるからだ。

 その理論が「事実として一般化されているかどうか」は,その理論を用いて未来の予測ができるかを,1つのポイントとすることができる。ただし,社会科学における「一般化された事実」は,自然科学における理論とは異なり,100%あてはまることを示すものではないといった「あいまいさ」を有している。

 

2) 社会科学の持つ「あいまいさ」の誤用・悪用

 マスメディアの情報は,注意してみる必要がある。たとえば以下のような「手法」により,事実が事実として伝わらなくなる可能性があるからだ。

 偏った情報のくり返しによるいわば「洗脳」,意図的とも言えるような省略や曲解,見出し等による印象操作,グラフやイラストを使った印象操作,データの誤用,当局の解釈の垂れ流し,理論の後づけ,相関関係を因果関係として表現

 

 

<ひと言コメント>

 事実と事実でないもの

 

 「<感情的なもの>と<論理的なもの>とは,対極の関係にある」と考えられる方がいらっしゃいます。また,「<勘と経験>と<論理>とは,これも相反するものだ」と言う方も。もちろん,感情だけで押し切ろうとされる方も,机上の論理だけで話をされる方も,たくさん見てきましたし,私自身,そのいずれかに見られているのかもしれません。

 ただそうではあっても,私自身のとらえ方は,それらとは異なります。

私のとらえ方は,「<感情的なもの>と<論理的なもの>」,「<勘と経験>と<論理>」は,コインの裏表の関係」というものです。なぜなら,感情と論理は,また,勘・経験と論理は,相互に補完し合うものであることを,それこそ実感しているから,です。

 

 私のことを,論理派だ,と評価される方がいらっしゃいます。恥ずかしながらもありがたく思う部分も確かにありますし,学生に教えたり,企業を支援したり,といった活動の「その中身」が,データに基づくものであったり,論理性に基づくものであったりするからなのかもしれない,と考えもするのですが,でも・・・私自身は,自分の感情的な面をよーく知っていますし(苦笑),その感情があるからこそ,学生に教えたり,企業を支援したりといった活動をしようと思えるわけです。実際,私のことを,「感情的」と思われている方もいらっしゃいます。特に付き合いの長い友人に,ですが・・・(苦笑)

 

 いずれにしても,感情面を抜きにして,他者と向き合うなどということはできないと思いますし,いくらロジカルだったとしても,「どうしてもこれをやりたい」といった意志が見えなければ,それをいっしょにやろう,支援しようなどとは,誰も思わないのではないか,と思うのです。

 逆の言い方をすれば,感情の面だけでは,つまり,論理面もなければ物事が動いていくこともない。と言うよりは,物事を動かせない。

 

 そうとらえると,感情的なものや勘や経験といったものも,論理やデータといったものも,いずれも物事を動かすための道具としてととらえることが可能なのではないか,と思うのです。ただし,後者は「正しいこと」つまり,事実であることが前提になる。補完関係にあるものであるはずなのに,論理やデータが正しい解釈に基づくものでなければ,補完関係にならないから,です。

 

 データと呼ばれるものは,世の中には山ほどあります。そして,事実とされる情報も,それこそ腐るほどある。でも,どうも「自分の都合の良いように解釈されたもの」や,「一部だけを切り出したもの」が多く含まれている。

 少なくともそのことに気づく力,というよりはむしろ,怪しいかもと疑える力は,この世の中を生きる上で必須の力だと思います。だからこそ,本書が指摘するようなマスメディアの情報に見られる「課題」などは,知識として身につけておく必要があるとも思うのです。もちろん,著者の指摘が当を得ているのか,疑うことも必要でしょうが・・・(などと言っていたら,特に初めはすべて疑う必要が出てきて,混乱するかもしれませんけれど・・・)


20190824

「数字で話せ」 斎藤 広達 著 ~最終回~

 

<概要>

 数字で話すとはどういうことか? どのようにして数字で話す力を身につけるか? 数字で話せるようになるためのコツ

 

1)計算力を鍛える方法

 計算力を鍛える方法として,次の方法がある。

・なんでもかんでも計算する。特に,見聞きした数字を@に変換するなどは有効

・「,」の位置と日本語の数字の数え方との関係を覚える。千・百万・10億・1兆と「,の数」との関係は,具体的な数字に置き換えた方が覚えやすい

・15×12のような計算は,「15×10」+「15×2」に分けて計算する。ケタが増えた場合は,頭2ケタだけを先に計算する。

・1=1.1×0.9=1.2×0.8=1.3×0.8・・・のように,○割増に対する逆数を覚える

・1.1×1.1=1.2,1.2×1.2=1.4,・・・のように,ゾロ目計算を覚える

 

2)「ビッグデータ,AIを使う」=「未来を予想するための変数と式を作る」

 たとえば売上は,顧客数×客単価のように分解することができる。つまり,売上に関わる変数と,それを表す式が作れれば,売上拡大の戦略が立てられることになる。この変数と式を求める統計的分析手法が多変量解析で,その基本は「回帰分析」である。ビッグデータは,多変量解析を行うために用いるのだ。

AIは,人間の脳を模した「ニューラルネットワーク」の理論を用いて,「変数と式に相当する予測モデルを作るもの」ととらえれば,その役割を理解しやすくなる。

 

 

<ひと言コメント>

 身のまわりの当たり前を考え,自分の当たり前のレベルを上げる

 

 PCがあるのが当たり前の世の中になりました。スマートフォンも当たり前にある世の中です。しかし,わずか25年ほど前は,ビジネスの現場であってさえ,誰もがPCを使える環境ではありませんでした。文章をデータ化する「ワープロ」が,マシンとして単独でオフィスにありましたし,それすら一人1台ではなかったのです。

 

 身のまわりの当たり前は,時代とともに大きく変化します。当然のように求められる能力も変わる面もあります。しかし,そうではあっても,人が社会を生き抜くために,そして,一人ひとりにとっての幸せの実現を目指すために必要となる「変わらずに求められる力」というものも存在するはずです。

 

 「数字を用いて示す,というのは,弱者の戦略である」と,本書は指摘していました。つまり,「自分の主張を論理的に語るための手法」と言えるわけです。もちろん「論理的であることに誰も関心を示さない」としたら,その力は意味を持ちません。しかし,世界中の誰もが自分の幸せを目指すとしたなら,論理的な判断が欠かせません。というのも,利害が対立する一人ひとりが平等に権利を得られるようにするには,「あっちで我慢した人は,こっちでは得をし,あっちで得をした人は,こっちでは我慢する」といったような関係を成立させる必要があり,そのためには,「論理的であること」が必要になるからです。つまり,「論理的な力≒数字で語る力」は,過去も,今も,これからも求められる力であるはずだ,と考えられる。

 

 ただこの力,意識的に育てないと,身につかない可能性があるとは思います。今の時代環境は,数字で語る力を含む論理力が自然に育つような環境ではないと考えられるから,です。

 

 たとえばPCがあると,計算はPCにさせることができます。必ずしも自分で計算する必要はない。自分で計算しなければ,計算力など身につくはずがない。また,計算を工夫することもしないと思います。すると,工夫しようとする意識も働かないでしょうし,工夫する力も身についていかない。。。

 

 そう考えると,身のまわりの当たり前の変化に気づき,自分が当たり前に対応できる必要のある領域を知り,実際に当たり前に対応できるよう勉強していくことが,それこそ当たり前に必要なのではないか,と思うのです。「便利さを享受した代償は,自らの努力という形で返さなければならない」ということなのかもしれません。


20190817

「数字で話せ」 斎藤 広達 著 ~第3回~

 

<概要>

 数字で話すとはどういうことか? どのようにして数字で話す力を身につけるか? 数字で話せるようになるためのコツ

 

1)将来のシナリオを「数字」を用いて語る

将来というものは不確実だ。だから,シナリオは,楽観シナリオと悲観シナリオの2つに分岐させて考えておくべきで,それは「確率」という「数字」を用いて表現するのが最適だ。さらに,悲観シナリオの場合,その次の打ち手を考えておけば,不確実な将来にも対応しやすくなる。また,人間の思考上,「今,○をしないと損」というような表現を用いること,また,割合ではなく「実数」で語る方が,伝わりやすい面がある。

 

2)ネットビジネスもファネルで語れる

ネットビジネスは,「自分にはわからないもの」ととらえてしまう人がいる。この原因に,ネットビジネスにおける「独自の言葉」が存在することがあげられる。たとえば,CVなどといったワードだ。しかし,これも「ファネル」で考えればよいだけのこと。そう考えると,ネットビジネスのビジネスモデルは,顧客数と購買額の2つの視点でとらえればよいだけの,非常にシンプルなモデルであることが理解できるはずだ。

 

 

<ひと言コメント>

 数字を事実として使う ~人は自分に都合の良いところだけを見ようとするから

 

 「過去と未来は不連続」とするとらえ方があります。

 たとえば,「過去については,実績というデータがあるから,それを事実として示すことができる。しかし未来については,さまざまな環境の変動要素があることから,その実績どおりにいくかどうかはわからない。もっと言えば,過去の実績をいくら分析したところで,その延長線上の未来に立てるかはわからない」ということ。

 それは確かにその通り,なのです。

 

 「だから,過去をいくら分析したって意味がない」という方がいらっしゃいます。

 そういう方々は,恐らく「All or Nothing」の思考,「白か黒かの思考」をしているのではないか,と思うのです。しかしこの世の中,白黒はっきりするものの方が実は少ない。つまりグレーゾーンが広がっているようなものだ,ととらえられるはずなのです。過去の延長線上の未来にたどり着く場合もあれば,そうでない場合もある。「たどり着く未来」には,無限の可能性があるということです。

 「確率」というもの利用価値の一つは,この無限の可能性の中のどこに落ち着きそうかを予測できることであり,仮にそうなったときの「打ち手」を考えられることにあるわけです。

 

 一方で,「過去と未来は連続している」ととらえすぎる方もいらっしゃる。

 この場合も結果として,「だから,過去を分析したって意味がない」という発想になるようですし,「将来を確率で予測しても意味がない。最悪のシナリオになることはないから」という発想になるようです。その結果,「だから,これまでと同じことを,同じやり方でやれば,将来も同じ結果が得られる」と,言葉にはしないものの,考えられているように見える。行動が変化しないから,です。

 確かに「最悪のシナリオどおりになること」は,ほとんどありえません。確率に基づくシナリオというものは,「<最善のシナリオ>と<最悪のシナリオ>との間にたどり着く」というものだからです。しかし,逆を言えば,「最善のシナリオどおりになること」も,ほとんどありえない。「過去と未来は連続している」ととらえすぎる方は,その事実を見ていないようです。

 

 

 そこで何が起きるのか? と言えば,いわゆる「ゆでガエル現象」だと,私は思います。たとえば,2年間という期間では大した変化に見えずとも,5年・10年のスパンで比較すると,大きく変化している。。。

 

 人は自分にとって都合の良い部分だけを見ようとする傾向があります。それは私も同じだと思います。だからこそ,数字という事実を使い,事実を冷静に,そして,客観的に見ることが大切になると思うのです。事実を正確におさえて考える。ムダな努力をしないために,そして,いつの間にか自分ではどうすることもできない「ゆでガエル」にならないために。。。


20190809

「数字で話せ」 斎藤 広達 著 ~第2回~

 

<概要>

 数字で話すとはどういうことか? どのようにして数字で話す力を身につけるか? 数字で話せるようになるためのコツ

 

1)ファネルで考える

 営業・販売は,「ファネル」で考えていくのが鉄則だ。

 「ファネル=ろうと」は,マーケティングの「AIDMA」モデルと呼応するもので,営業・販売の「各プロセスの成功確率=コンヴァージョン・レート」と「最終的な成約率」とをモデル化したものだ。

 たとえば,「<訪問→提案→成約>は,一般的には<335ファネル>が成立することが多い」といったように,営業・販売活動は,各プロセスを「数字で語る」ことができる。

 

2)偏差値の性質を利用し,考える

 偏差値とは,ある集団の中でどこに位置づくかを統計的に示したもの,と考えるとわかりやすい。

 たとえば,日本人男性の身長の場合,「平均は170cm,標準偏差は6cm」だとした場合,平均の170cmが偏差値50,「<平均-1×標準偏差>=164cm」が偏差値40,<平均-1×標準偏差>=176cm」が偏差値60,となる。

 また標準偏差±1の範囲に68%がおさまり,標準偏差±2の範囲に95%がおさまるという正規分布の性質を利用すれば,「一部の極端な意見の出る確率」の他,新商品の販売初速は必ずしも良くないことの説明,自身の仕事の目標設定など,さまざまな場面で利用できる。

 

 

<ひと言コメント>

  モデルづくり,と,実行動

 

 人の「活動」というものは,複数のプロセスで構成されています。

 たとえば,「食事をする」という活動は,「食材を買う」,「食材を切る」,「味付けする」,「盛り付ける」といったプロセスを経て,ようやく「食事をする」という活動を実現できるわけです。

 逆に言えば,食材が買えなかったり,味付けに失敗したり,といったことが起きると,食事をすることができなくなる。つまり,「最終的な目標の達成」のためには,その途中プロセスで成功し続けることが必要になる,ということです。

 

 もちろん,「食事をする」という活動は,その途中のプロセスで失敗する確率はかなり低いわけですが,「商品・サービスを販売する」場合などは,途端に失敗確率が上がることになる。

 とはいえ,対象が「安い商品と高い商品だったら?」,「人が生きる上で絶対に必要な商品とそうでない商品だったら?」,「競合がいる商品といない商品だったら?」といったことは,「分解し,常識的に考えれば」,「こうなるはず」は想像がつくのですから,問題は,「では,それはどの程度なのか?」,「複数の同様のものが出てきたときに,その比較ができるのか?」という点になるはずです。

 

 このとき利用できるのが,確率というもの。つまり「数字」なのですが,数字にも課題があります。元となるデータが事前にすべて取得できていれば,「計算すればよいだけ」なのですが,特にまったくの新商品などという場合はそれが叶わない,という点です。

 だから,モニター調査やテスト販売などを行うのですが,せっかくモニター調査やテスト販売をやっても,本書で言うところの「ファレル」に基づく数字が出せないと,期待するような成果は出せなくなる。

 

 

 ただただ「行動しろ」と指示を出される方が世の中にはいらっしゃいます。一方で,ただただ頭の中で考えようとする方もいらっしゃいます。でも,それはどちらも問題がある。思考によるモデル化も,具体的な行動による数字取得も,ともに必要なのです。

 

 そして,それ以上に重要なのは,モデルを理解して,数字を取得する行動をすることです。

 そうでないと,「数字はあるのに,集計できない」といったことが起こってしまう。。。それは,誰にとっても不幸な話です。やはり「意味を理解して行動すること」が重要だ,と私は思います。


20190802

「数字で話せ」 斎藤 広達 著 ~第1回~

 

<概要>

 数字で話すとはどういうことか? どのようにして数字で話す力を身につけるか? 数字で話せるようになるためのコツ

 

1)数字で話すとは弱者の戦略

 数字で話すそもそもの目的は,「相手に動いてもらう」こと。数字は世界の共通言語であり,また,納得度を高めるツールであるから,議論の場面でいわゆる「声の大きな人」に勝つことができる。つまり,数字で話すとは,弱者の戦略なのだ。

 

2)@で考える

 数字で話す第一歩は,「自分事に引きつけること」だ。

 たとえば国家予算やGDP,会社全体の売上・利益のような大きな数字,グロスの数字は,具体的にイメージすることができず,結果,重要なものであっても聞き流しがち。そんなとき,1人当たり,1個当たりといった「@」に変換すると,自分事としてとらえやすくなる。特に買い物をするときなどは,「@」に変換する習慣を身につけやすい。

 たとえば,車を買うか検討するとき,駐車場代やガソリン代,保険料なども含めたグロスから,1日あたりにかかる金額を考えれば,それが本当に買うべきものか,など,検討しやすくなる。

 

 

<ひと言コメント>

 数字を自分事にして,意識的に使う

 

 私は,測定・評価論を大学で教える専門家でもあるのですが,そこで扱うのは,統計,要は数字です。観測された結果を数字で表現するのが測定である一方,評価は測定結果の解釈です。

 

 「それってどういうこと?」と質問されたときによく使うのが,テストの成績の話。

 たとえば,あるテストで偏差値50のAさんとBさんとがいたとします。このとき,AさんBさんのテスト結果として観測された偏差値50という数字は,測定結果なわけです。一方で,同じ偏差値50だからと言って,AさんとBさんに同じ評価をするとは限りません。Aさんは偏差値60から偏差値50になった,Bさんは偏差値40から偏差値50になったとした場合,同じ評価をするでしょうか? 

 Aさんには「何かあったのか?」と声をかけたいし,Bさんには「よくがんばったんだね」と声をかけたい。

 このように,同じ測定結果でも,評価は変えることができるわけですし,むしろ,評価は変えたいのです。

 

 一方で,言葉だけで事が足りるか,と言われると,そうとは言えない。同じように偏差値が50に上がったCさんがいたとき,BさんとCさんは,おそらくどちらも努力したのだと思われます。しかし,その伸び幅が,Bさんは10,Cさんは2だったとしたら? 伸び幅を示しているのは,数字である偏差値ですし,そもそも偏差値50だった,ということ自体,やはり,数字があるから,適切に評価ができると考えられます。

 

 この例では,話をわかりやすくするため,正確ではない偏差値というものの扱い方をしているのですが,それはご容赦いただくとして,実際には,正しく扱い,算出した数字は,事実を表すわけです。しかしそれは,決して事実のすべてを表しているわけではない。数字だけでは事足りないわけです。同じことは言葉にも言える。だからこそ,言葉と数字を組み合わせて利用する。

 

 特に,数字は,意識して使うことが大切になる。数字は意識しないと,言葉ほどは使わない,使い切れない面があるからです。では,数字を意識的に使うにはどうすればいいのか? その一つの方法であり,数字の感覚を磨くうえで最適なのが,本著が指摘する「@で」,あるいは,「@に」,変換すること,だと思います。


0190728

「共感障害 話が通じないの正体」 黒川 伊保子 著 ~最終回~

 

<概要>

 本人には悪気がないのに周囲のエネルギーを吸い取ってしまう人の脳と,その対処法

 

1)共感障害とは? 

 共感障害は,自閉症児が持つ性質の一つだ。

 脳の認識フレームとは,「全体から部分を切り取る方法」,つまり,「重要でないものを捨てる技術」とも言える。一方,自閉症児の脳は,「脳の感度が高過ぎる」がために捨てることができず,だから認識フレームを作るのが難しい。結果,他者と認識フレームをそろえるのが難しくなるから,他者に対する「共感」という面で問題が生じることになるのだ。

 また障害としての自閉症まではいかずとも,「感度の高い脳を持つ人々」は増加している。むしろ,そのような人々の増加が,「話が通じない」の拡大を生んでいる。そのような人々は,「8割方はいわゆる普通のことができる」がために,余計に顰蹙を買う結果になっているのだ。

 

 

2)やってみせ・・・

 「認識フレームを作るのが難しい」ということは,一般の人が自然とおこなっている「その状況から,必要なことを写しとる」ということが,できないということ。だから,指導においては,「やってみせ,言って聞かせて,せてみて,褒めてやる」ことのくり返しが大切だ,ということになる。

 「一を聞いて十を知る」ではなく,「十を教えて,スタート地点に立てる」という状況にあるから,具体的な方法としては,何度でも,タスクを切り出してやることが必要になる。

 共感障害が増えると,そのことが原因で不安や抑うつといった症状が出るカサンドラ症候群の上司も増える。とはいえ,共感障害の存在を知っていれば,自ずと対処法を検討していくこともできるのではないか。

 

 

<ひと言コメント>

 トライ&エラーをくり返すために・・・

 

 日本が目指している社会のありたい姿として,「共生社会」があります。

 共生社会とは,ごくごく簡単に言えば,「いわゆる普通の日本人」と,障害のある方,高齢の方,外国籍の方などが,それぞれ持てる能力を発揮して,同じ地域で,「普通に」暮らしていける社会のことを指しています。マジョリティである方と,マイノリティとされてきた方々が融合する社会,と言い換えられるのかもしれません。

 

 一方で,今ある社会というものが,マジョリティに合わせて作られてきたという事実は否定できません。「多数決により物事が決められる社会」というものは,多数派の声が反映されやすい社会でもあるからです。

 ではナゼ多数派の声が反映されやすくなるのか? 

 その一つの理由は,本来であれば,「自分がその立場だったらどうなのか?」と,想像することを前提として,どの立場だったとしても「一貫して同じ選択をする」ということが,民主主義的な選択として求められているのに,「今の自分の立場だけ,その視点だけからの選択」しかしないことも可能であり,実際そのような態度を取る方が多いことが,容易に想像できるから,です。

 

 その事実は,現米大統領のトランプ氏という方を見ても,想像できるのでは? 「同氏がこの時代の米国の白人として生まれなかったとしたら,全く同じ主張をするだろうか?」と考えると,私は絶対にしない,と思うのです。それだけ,「どの立場であったとしても,一貫して同じ選択をするというのは難しいこと」だと思います。

 

 しかし,それを嘆いていても,何も解決はしない。仮に理想を描いても,描いただけでは何も変わらないわけです。

 

 何が必要か,と言えば,実際に行動すること。

 とは言え,行動することは,ものすごく大変なこと,です。ヘタすると,その行動自体が否定されかねないし,非難の対象になりかねません。そうではあっても行動し,その結果から効果を学び,課題を抽出して,また行動しない限り,良い方向に変わることはない。つまり,トラー&エラーが必要になる,ということですし,それだけの覚悟も必要になる。

 

 本著で言われる「共感障害」の対応についても同様なのだと思います。それを共感障害と呼ぶかどうかは別として,「話の通じない」傾向が見られる社会であることは事実。

 だから,行動する。共感障害を持つ側も,それを持つ方が周りにいる側も。そうしていくことで変わっていく・・・,と,私は思いますし,行動していること自体が,「覚悟の現れだ」とも思うのです。


0190721

「共感障害 話が通じないの正体」 黒川 伊保子 著 ~第1回~

 

<概要>

 本人には悪気がないのに周囲のエネルギーを吸い取ってしまう人の脳と,その対処法

 

1)同じ場面でも自然と利用する「認識フレーム」は異なる

 脳には多くの認識フレームが入っている。使う認識フレームは,同じ場面であったとしても,男女,出身地,背景となる文化,世代,母語,宗教,利き手などによって異なる。つまり,認識フレームが異なれば,正義・正解も異なるということ。

 「その場面ごと」に,マジョリティとして使われる認識フレームはある。逆に言えば,マイノリティとなる認識フレームが存在することになる。それは視覚だけでなく,あらゆる感覚にあるものだ。

 

 

2)大衆全体の認識フレームには周期がある

 時代を代表する認識フレームも存在する。その認識フレームの変化には明確な周期があり,いつの年を基軸にしても,28年後が対極の感性の時代,56年後が同じ感性の時代となる。たとえば,1988年はリゲインの「24時間戦えますか」という感性の時代でありそれが時代の認識フレームだった。28年後の2016年は「働き方改革」の時代であり,戦うのが苦しく,叱られるのが恐ろしく,拘束されるのがつらい時代。このように,時代によって「同じ言葉が通じない」のが当然だ,ということである。

 

 

<ひと言コメント>

 前提条件の共有

 

 話が通じない理由は脳の違い・・・これが本書の結論です。

 「話を聞かない男、地図が読めない女」が,世界で,そして日本でもベストセラーになったのは,もう20年以上も前のこと。同書では,人間の進化に関する研究成果が「平均的な男女の違い」としてまとめられていました。あくまで「平均的」ではあるものの,男女の脳には違いがある,つまり,性差があると。

 

 実際問題として,この事実を無視して男女平等を叫んでも,男性側も女性側もツライだけなのではないか,と私は思います。あくまで「平等」というのは,男女というものに優劣がない,ということであり,機会の平等だ,と私は思うのですが,どうもそうはとらえられいらっしゃらない方も多いようで・・・。

 

 このように感じることも,本著者が「認識フレーム」と呼んでいるものの違いによって生じるもの(これ,一般的には,「認知フレーム」もしくは「認知モデル」と呼ばれるもののように思うのですが・・・)。

 つまり,「認知フレーム」は,男女だけでなく,文化,世代,母語,宗教などによっても異なる。だから,同じことが起きても,それが起きた場所,時間,その場にいた集団などの違いによって,マジョリティとなる解釈が異なる,つまり,「同じこと」がどのように解釈されるかは,非常に「相対的である」ことがわかるわけです。

 「絶対」はあり得ない。ただ・・・

 

 その場その場で「前提とされていることがある」のも事実。

 たとえば,ビジネスの場であれば「会社がお金を稼げないと,自分の収入にもならない」という前提や,学校という場であれば「保護者が,子どもに学ばせる義務を果たし,子どもの学ぶ権利を行使させる場」という前提などは,しっかりと共通認識として持つ必要があるのではないか,と思うのです。

 

 そうでないと,誰も自分と「認知フレームが異なる人」に近づこうと思わなくなってしまう。関わると,神経をすり減らすことになってしまうから・・・。そうなってしまうことは,認知フレームのマイノリティの方にとっても決して良いことではない。

 だからこそ,やっぱり,前提条件の共有は重要だ,と私は思います。


20190713

「小さなチーム,大きな仕事」 ジェイソン・フリード, デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン 著 ~最終回~

 

<概要>

 著者の経験をベースにした,小さなビジネスをする人のための成功の秘訣。

 

1)限界で人を雇う

 まずはすべて自分でやるのが基本。「やってみたからわかること」がたくさんあり,また,どれだけ,どのように工夫できるか,もわかるからだ。同様に組織化した後で誰かが辞めることになっても,すぐには代役を雇わないことが重要。問題が起こるのは,必要以上の従業員がいるときだ。

 仮に人を雇うときには,ゼロからプロジェクトを立ち上げ,やる遂げられる人を雇うべき。そして,文章力の高い人を雇う。それは,考え方がはっきりとしていて,シナリオが描けるということだからだ。その文章は,誰か特定の個人に向けられた文章として読めるものでもある。一方経験はそれほど重要ではない。本当の差は熱意,個性,知性にあらわれるからであり,半年の経験と5年の経験は大差ない。

 

2)組織文化は「結果的に」つくられる

 顧客サービスで最も重要なのは,「すぐに返事をすること」。即座に対応すれば,顧客が「口撃」する度合いが減る。顧客が「口撃」するのは,「それが最も迅速に対応してもらえる手段であることを知っているから」だ。だから,「過ち」は,即,自ら,対応することだ。

 謝り方の原則は,「自分がそのように謝られたら,どう感じるか」。ただし,文句は放っておくこと。「人は習慣の生き物」だから,変化するだけでネガティブな反応を生む。それは組織内でも同様だ。

 人の仕事は,環境に依存する面が大きい。全員がスターになる環境は,信頼・自律・責任から生まれる。必要以上の規則は作らないことが重要であり,また,「必要」「しなければ」「できない」「簡単」「ただ・だけ」「はやく」という言葉を使わない,使わせないことだ。そうして,組織の文化は自然に発達していくことになる。

 

 

<ひと言コメント>

  「ずる賢いだけの人」と「本当に知的な人」を見極めるには?

 

 「何がそんなに大変なの? ただ,○○するだけじゃない」とか,「細かいことにこだわりすぎだからじゃないの?」とか,「ムダが多いだけじゃないの?」とか,平気でおっしゃるタイプの方々がいらっしゃいます。正直な話,私が最も距離を置きたいタイプの方です。

 実際,頭であれこれ「シミュレーション」してみたところで,やってみないことには,その「リアル」はわからないですし,それがどれほど大変なのか,は,本当のところではわからないと思うのです。

 

 なのですが・・・

 

 一方で,まったく同じことでなくても,ある経験をもとにして,その大変さをある程度想像することはできる,とも思います。その確度,というか,精度の高さ,というか,は,別として,「こういう大変さがあるのではないか」と想像しつつ,「だとしたら,こうすれば,解決できる部分もあるのではないか」と「提案できる」と言いますか・・・。

 

 熱意や個性,知性といった面の差というものは,「経験を通じた学びを,本当の学びにできるか?」に表れるのだろう,と思うのです。そして,学びの結果得られるのは,「大変さを想像する確度が上がる」こと。

 

 経験上,「ずる賢いだけの人」というのは,確実に存在します。だから,「ずる賢いだけの人」と「熱意や個性,知性を持つ人」とを見極めることも必要になる。そして,「ずる賢いだけの人」と「熱意や個性,知性を持つ人」との差は,「単に批判する」か「想像し,提案するか」の違いにあるように思うのです。

 ナゼそう思うのかって? 本当に経験的に学んだ人が,冒頭にあるような言葉を使うはずがないですもの。それでも相応のポジションにいらっしゃるとしたら・・・答えは明白のように思うのですが,いかがでしょう?


20190706

「小さなチーム,大きな仕事」 ジェイソン・フリード, デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン 著 ~第4回~

 

<概要>

 著者の経験をベースにした,小さなビジネスをする人のための成功の秘訣。

 

1)小さい=無名であることの受け入れと工夫

 有名企業と同じことはできないことを受け入れること。だから,常にテスト販売と,興味を持ってくれる「観客」づくりが大切になる。そこで使える一つの方法は,「教える」こと。料理人がレシピを教えるようなイメージである。つまり,そのレシピだけではその料理人の味にならないことに着目することが重要。それを「ありのまま」「自分の言葉」で語ること,だ。そして,大きなメディアではなく,小さなメディアから発信するのだ

 

2)マーケティングとは部門ではない

 市場や顧客とのコミュニケーションの接点はすべて,マーケティングの機会だ。電話に出るとき,メールを出すとき,製品が使われるとき,ウェブサイトに情報を書き込むとき,プログラムのエラーメッセージ,飲食店の出すおまけの飴やガム,レジのカウンター,請求書・・・

 マーケティングは,日々やっていることのすべての集まり。だから,一夜にして成功することなどありえない。

 

 

<ひと言コメント>

 続けること,の難しさ

 

 恐らく多くの方が,「勉強しなければ」と思われている。でも,また多くの方が,現実には勉強していない。勉強できない。やらなくちゃ,やらなくちゃ,と思ってはいても,できないわけです。

 

 「どうしたらよいのか?」のひとつの答えは「勉強したい」に変えること,だとは思います。自分の「やりたいこと」なのですから,やれるようになるはずだ,と。とはいえ,できる限りラクをしたいと思う人というものが,「勉強」することを,「したいこと」に変えられるものだろうか?

 

 もう一つの方法は,「習慣化」の力を借りるというもの。たとえば,歯磨き,は,子どもの頃はやりたがらない方が多い。しかし,いつの間にか,するのが当たり前のものになっている。このように,周囲のサポートも得ながら習慣化していくことは,一つの答えになるのだろう,と思います。

 

 いずれの方法にも共通するのは,「間接的な何かを加えることがポイントになるのではないか」という点です。

 たとえば,語学力を上げる最短の方法は「外国の方を好きになることだ」と言われるぐらい,自分にとってわかりやすい「報酬」があれば,語学学習は,自然とやりたいことにできる。「外国の方を好きになる」ということが,間接的に,語学学習への動機づけになる,ということです。習慣化の過程についても,これと同じことが言える。

 

 

 このように考えると,一つの可能性が見えてくると思うのです。

それは,

 

 自分のやることすべてに,ある種の「価値づけ,意味づけ」ができれば,

 勉強の間接的なモチベーションはたくさん作れる可能性がある

 

ということ。

 

 いずれにしても,続けるというのは非常に難しいものです。逆に言えば,何らかを続けられたのなら,それは自慢できる,自信にしてよいもの,なのではないかとも思うのです。


20190628

「小さなチーム,大きな仕事」 ジェイソン・フリード, デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン 著 ~第3回~

 

<概要>

 著者の経験をベースにした,小さなビジネスをする人のための成功の秘訣。

 

1)生産性を上げるには,まずはやめる

 生産性を上げるには,やめることを考えることだ。「ナゼ行う?」,「問題解決に向けて行動を変えるような価値を与えている?」,「より簡単な方法はない?」といったことを考え,実際に行動することが,何よりも生産性を高める。 そのとき,大きな成功ではなく,小さな成功を積み重ねることが大切。「決断し,行動し,実際にアウトプットすること」が,生産性向上のキーだ。TODOリストを作ったところで,やることは日々増える。そんなTODOリストは,モチベーションすら低下させる。

 

2)独自の商品をつくる

 競合を気にしても仕方ない。競合のアウトプットを真似ても,そのアウトプットまでにかけられたノウハウを得られるわけでもない。真似ることは,ある程度までは必要だが,それ以降はアウトプットまでの創造の行為そのものが重要であり,そこに競合が真似できない独自の価値が生まれる。そこにはリアリティがあり,そして,そのリアリティこそが価値になる。

 

 

<ひと言コメント>

 自分自身に対して疑いの目を向ける

 

 真似することは,非常に重要です。そこには多くの学びがあるからです。しかし,真似し続けてもオリジナルを越えることはない,のは事実です。だから,ある段階まで来たら,真似することから卒業する必要がある。

 

 ただ,これは非常に難しい問題です。どうも世の中を見ていると,真似しなければならない方が真似をせず,真似から卒業しなければならない方が真似をしているように感じます。ナゼそんなことになるか,と言えば,それは,「人間が習慣の生き物だから」と言い換えられるかもしれません。

 

 そう考えると,まだまだ真似をし続けなければならないときというのは,「自分の習慣になっていないとき」なのではないか」と考えられます。そして,真似から卒業すべきは,「それが単なる習慣になってしまっているとき」だろうと。

 もう一つの判断基準は,「それをそのまま語れるようになっているかいなか?」なのではないか,と私は考えています。たとえば,ある作業に関するマニュアルがあったとします。そのマニュアル自体を,空で語れるようになっていれば,真似からは卒業すべきだ,と思うのです。一方で,マニュアル自体をうろ覚え,各動作が何の目的で行うものなのかわからない,というようなことであれば,まだまだ真似をする必要がある段階なのではないか。

 

 いずれにしても重要なのは,「自分自身に対して疑いの目を向けること」だと思うのでいます。だから,まずは,そんなタイミングを定期的につくる。予定表に入れてしまい,欠かさずやってみる。そして,予定表に入れずとも欠かさずにやるようになったなら,それが習慣化された状態なわけで,単なる真似からの卒業のタイミングだ,と言える。

 

 自分の中に実感を伴うはずなのです。習慣化までの実感,そして,習慣化した実感というものを,です。

 実感を伴ったのなら,その実感を自分なりの言葉で他者に伝える努力をする。

そうやって,真似から卒業していくことになるのではないか,と思います。実感を伴っているから,そこには自分を主体としたリアリティがある。つまり,真似から始まる一連の行動というものの中から,主体性というものも学んでいくのではないか,と私は思います。


20190622

「小さなチーム,大きな仕事」 ジェイソン・フリード, デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン 著 ~第2回~

 

<概要>

 著者の経験をベースにした,小さなビジネスをする人のための成功の秘訣。

 

1)制約を受け入れる

 制約は,創造性を発揮するための武器だ。そのとき最も大切なのは,「核が何か」を見極めることだ。詳細・枝葉は,進めるうちに「決断すべき時」がやってくる。その時その時で,日々決断を積み重ねていくことで,小さな成功が得られる。「今,簡単にできること」を先延ばしせずに決断し,着手することが必要だ。

 

2)やめること,を考える

 正しい道は,「減らすこと」だ。そぎ落とすことで「核」ができる。そのとき注意すべきは,中身であり,ツールではない。ビジネスにおいて最も重要なのは,どのように顧客を増やし,利益を増やすか,ということ。ギターの名手が弾けば,その音になる。一方で,どんなに同じツールをそろえても,その人の音を作ることはできない。本質への投資がもっとも大切なことだ。すると,副産物も生まれることになるから,それを売る,という発想が生まれる。

 

 

<ひと言コメント>

 

 今,その時にいる場で咲く

 

 「ないものねだり」という言葉があります。同じような言葉に「隣の芝生は青く見える」という言葉も。

 「巨額の資金があれば,こんなことができる」と,考えることは構わないとは思うのですが,それを小さな企業に求めたところで,それは無理というもの。だとすれば,「どう工夫するか」が大切になるのは火を見るよりも明らかです。そして,「工夫できる力」は,「小さな企業で働く方々にこそ求められる力」でありつつ,真剣に向き合えば「必ず伸ばせる力」だ,と思うのです。

 

 一方で,小さな企業にあって,大企業にはないもの,もあります。

 たとえば,「1からすべてを,自分の手で作り出す」などという芸当は,大企業ではなかなかできるものではありません。役割が高度に専門化されているからです。そう考えると,大企業で求められる力の1つは,複数の分業化された組織を動かす力,と言い換えることができるかもしれません。

 

 いずれにしても,ビジネス活動の本質は,顧客に価値を提供することで利益を得ること。ただ,それを「どのように実現するか」は,組織の状態によって変わる。一人ひとりの工夫で実現できることもあれば,組織の工夫にすることで,初めて実現できることもある。「今,その時点の立ち位置次第=制約次第」で,やるべきことは変わるわけですが,その時,「受け身ではなく,主体性を持って取り組めば」,リアリティを持った力が必ず身につく。

 

 もちろん,いわゆる「ブラック企業」と呼ばれる企業は存在します。そこで働くことが良いとは思いません。でも,そうではないのだとしたら,「今,その時にいる場」というのは,特に若い方にとっては,自分の力を伸ばす絶好の場である,と言い換えられる。ただ与えられたことをやるのではなく,「どうしたら,より多くの利益を得られるような商品・サービスにできるのか」を工夫する。そのようにして,

 

 今,その時にいる場で咲くこと

 

 ができれば,どこに行っても間違いなく通用します。でも,そこで主体性を持って力を発揮しようとする意志を持てなければ,どこに行っても通用しないのではないか,とも思います。


20190615

「小さなチーム,大きな仕事」 ジェイソン・フリード, デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン 著 ~第1回~

 

<概要>

 著者の経験をベースにした,小さなビジネスをする人のための成功の秘訣。

 

1)新しいアイデアは否定される

 新しいアイデアは,「今まで」「みんな」を理由に否定される。人は失敗から学ぼうとし,失敗を理由にするが,本当の学びは成功からしか得られず,また,「今まで」「みんな」は,あなたには関係がない。

 

2)大きくすることは,目的ではない

収益が得られるなら,それは立派なビジネスであり,それは立派な目的地でもある。大きな仕事には「何かを良くしている」という感覚が必要なのであり,それは,自分が欲しいものを実現することでもある。そこで必要となる人・物・金などは,それほど多くはなく,むしろできるだけ小さくあるべきだ。そして何より重要なのは,本当の信念だ。

 

 

<ひと言コメント>

 

 常識・当たり前を疑う

 

 ビジネスの世界には,当たり前とされているものがたくさんあります。しかし実際には,「当たり前」は,それほど多くはないはずです。ビジネスで必要なのは,顧客に受け入れられることによって収益をあげること。ビジネスを通じて生活の糧を得るのですから,売上をあげることは通過点にはできても,それ自体が目的にはならないわけです。

 

 このように考えると,ビジネスに限らず,「当たり前」と呼ばれるものの中には,「本当の意味での当たり前」と,「見せかけの当たり前」とが存在することに気づくのではないでしょうか? 本著では,ビジネスの「当たり前」について,「本当の意味での当たり前が何か」,「見せかけの当たり前が何か」を,著者の経験論を軸に分けるという試みがされています。

 

 私自身は,このアプローチに,大いに賛成の立場です。「本当の当たり前」と,「見せかけの当たり前」を仕分ける基準をどこに置くのか,を,説明することが難しいから,です。「これが基準ですよ」とは,言いにくいですし,仮に仕分けの基準ができたところで,それを理解し,行動するのはさらに難しいように思います。

 それならむしろ,常識とされているようなことを片っ端から頭に入れて,それから疑う,経験と照らし合わせて考える,というアプローチの方が,手っ取り早いですし,効果も早く得られると思うのです。

 

 ただ,常識・当たり前を疑う,というと,「目上の人を尊重するという態度は当たり前ではない」というなことを言い出す方が,必ずいらっしゃいまして・・・。「そういうことではないんだけど・・・」ということを,どうわかってもらったらいいものやら・・・

 

 アイデアのある方,ぜひ,教えてください。


20190607

「大衆の反逆」 オルテガ 著 ~最終回~

 

<概要>

 「過去から受け継がれた人間の知」や,「自分以外=平均人以外」,を受け入れない「大衆」という存在の問題点。

 

1)明晰な頭脳の持ち主とは?

 明晰な頭脳の持ち主とは,生を直視し,生とはあらゆる問題を含むものだ,ということを認め,自分自身の内に「迷い」があることを自覚しつつ,来るべき未来のことに気を配り,実際に行動する人のことだ。そして,それこそが,人々に本来求められること=人の義務なのだ。

 

2)道徳に対する尊重を取り戻す

 今日的な課題が起きているのは,当たり前を当たり前として,当然の権利として大衆人が要求することになったからだ。つまり,国家を尊重するという態度が,大衆人により傷つけられているということだ。当たり前の裏にある過去の積み重ねの尊重が必要であることを知り,尊重する態度とはどういった態度かを知り,実際に行動すること,が,今必要なことなのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 

 行動する ≠ 考えない

 

 本著で著者のオルテガは,「明晰な頭脳の持ち主」を定義しています。それは,文脈や途中の説明などをすっ飛ばせば,「行動する人」。「明晰な頭脳」という単語から単純に思いつくのは「考える」ではないか? と思うと,かなり意外な答えかもしれません。

 しかし,本来的な意味での「行動」とは,「何らかの目的があって」行う活動。もちろん,その目的が明確になっていない場合もあるかもしれませんが,その時ですら,「目的を探すという目的をもって」,行動するわけです。だから,本質的な意味で「行動する」とは,「考えることを含む」ということになるのだと思います。

 

 「行動する,とは何か?」について,「とにかくひたすら動きまくることだ」と思われている方がいらっしゃるようです。また,それを見て,「あの人は行動的な人だ」と言う方もいらっしゃいますし,「考えてないで,あいつみたいに行動しろ」というような指示をされる方もいらっしゃる。しかし,考えることを伴わない行動,つまり考えないで行動する,としたら,それは,「反射」か,あるいは「完全な受け身型」か,「無謀」か,そのようなところではないか,と私は思います。

 

 一方で,「<考えること=行動すること>ではない」はず。このような,「考える」と「行動する」との関係をよくよく理解しておくと,行動のレベルは自然と引き上げられる,と私は思います。そして,そのとき少しでも思いを馳せたいのは,「歴史を積み上げてきた先人たちの歴史とその努力」。自然の法則などは抜きにして,「当たり前のものは,当たり前ではない」との本著の指摘は,つい忘れがちなものだ,とも思います。


20190531

「大衆の反逆」 オルテガ 著 ~その4~

 

<概要>

 「過去から受け継がれた人間の知」や,「自分以外=平均人以外」,を受け入れない「大衆」という存在の問題点。

 

1)最大の危険は「国家」

人間は,その本質上,自分よりも優れた審判を求める存在だ。その審判を自力で発見できれば優れた人間であり,自力で発見できないのが大衆だ。大衆が自ら行動しているように見えるときは,それは暴力によって行われる。

そして,それは国家にも見られる。

つまり,文明の最大の危機は,国家によってもたらされることになる。国家が大衆化するからだ。

 

2)支配するとは?

世界は支配と服従という機能の中で成立している。本来支配するとは,人々に仕事を与えること,人々を軌道の中に入れること,逸脱を防ぐことだ。ただそれは,権力があるから支配できるのではなく,支配権を持つから権力をふるうことができる,という関係にある。

しかし,一人ひとりそれぞれの生が自分の手に委ねられると,路頭に迷う。つまり,自分に自分の支配権を与えられると,どうしたらよいのかわからなくなる。やがてそれが自分の中にだけ向かうようになると,エゴイストになる。エゴイストであることは,一般的に考えられるほど容易ではないが,他者への行動として暴力が現れ,自分の内部にのみ閉じこもることになるから,その生は終わるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 

 因果関係を見極める

 

 因果関係とは,物事の原因と結果のこと。しかし,この関係を正しく読み解くことはなかなか難しいものがあります。

 マーケティングの世界で有名な「伝説」に,オムツとビールの話があります。これは,「データを分析したところ,オムツを買う人はビールも買うことが判明。そこで,オムツ売り場のすぐ横にビール売り場を作った」という伝説です。ここで考えてみたいのは,それは「<オムツを買うから,ビールを買う>のか,それとも<ビールを買うから,オムツを買う>のか?」ということ。これが「因果関係」,つまり,どちらが原因で,どちらが結果なのか? ということです。

 

 「どっちでも,結果は一緒でしょ。だって,ビールもオムツも買うんだから」と言ってしまうのは簡単。もちろん,それで済んでしまうこともたくさんあります。しかし本著は,「因果関係」が,その主張の重要なポイントになっています。むしろ,因果関係を説明していると言っても言い過ぎではない。そして,重要な問題ほど,因果関係を説明しないと,課題を明確にできないし,その課題を解決できなくなる可能性も高まる,と考えられるのです。

 

 そのためにもまずは基礎力向上のために,「<オムツを買うから,ビールを買う>のか,それとも<ビールを買うから,オムツを買う>のか?」というような問題で,「具体的なシナリオ」を考えてみると良いかもしれません。

 たとえば,「オムツを買うのは若い男性。赤ちゃんのオムツを買うのだし,そのオムツは重いから。若い男性はビールを飲むから,だからビールも買うのだ」といったものです(ちなみに,このシナリオ,念のためですがかなり稚拙です。今,オムツニーズは,赤ちゃんのいるご家庭が中心というわけではないですし・・・)。

 

 また,この「ビールとオムツ」の話は,伝説は伝説でも「都市伝説」の類のものです。この事実はない,ということがわかっています。「それでも多くの方が信じてもいる伝説であるのはナゼなのか?」,と考えるのも面白いかもしれません。


20190526

「大衆の反逆」 オルテガ 著 ~その3~

 

<概要>

 「過去から受け継がれた人間の知」や,「自分以外=平均人以外」,を受け入れない「大衆」という存在の問題点。

 

1)自由主義=寛容さ

 文化の程度の高低は,規範・ルールがおおざっぱか否かで判断ができる。「ルールが多い」ということは,その分,文化・文明の程度が低いということである。礼儀・礼節・正義・道理・・・といったことが,「少ないルールの上に生が成り立つ」条件であり,それらが存在する理由だ。つまり,「隣人の考慮=共存」を自らの意思とするのが,自由主義の前提であり,自由主義とは寛容さ,と言えるのだ。

 賢者は,自分が愚者に成り下がろうとする危険をたえず感じている。つまり,自分を疑っている。それは,「隣人を考慮しよう」という決意への自分の態度への疑いなのだ。

 

2)大衆の典型とは,専門家だ

 文明世界は,さまざまな原理で支えられている。油断すれば,文明は失うものだ。

 19世紀の文明は,自由主義的デモクラシーと技術,の,2つの大きな次元にまとめることができる。さらにそれを高めようとしているはずなのだが,その進歩に追いつけずに人間は失敗している。それをリードするのは,今,社会的権力を行使している人間であり,それは誰かと言えば,専門家であり,科学者ということになる。

 だから科学者こそが,大衆の典型ということになる。個々人の欠陥ではなく,科学そのものに,科学者を自動的に大衆人に変えるメカニズムが働くのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 

 自らを疑う

 

 デカルトの「方法序説」をご存知でしょうか? 「方法序説」には,「理性を正しく導き,諸学における真理を探究するための方法についての序説」というより詳しい表題があります。つまり「方法序説」とは,「理性的に考えるための方法序説」ということ。

 この中では方法このの中で4つの原則を示しています。それは,「すべてを疑う」「分けて考える」「単純でわかりやすいものから取りかかる」「可能性をすべてあげ,網羅する」です。

 

 「すべてを疑う」のですから,何でも疑わなければならないことになるわけで,とすれば,まず最初に疑わなければならないのは「自分」ということになるはずです。自分以外のものを疑うことから始め,何らかの結論を出したところで,その結論を出した自分自身がそもそも間違っていたら,その結論は間違っていることになるから,です。

 

 では,自分をどのように疑うのか? 

 

 私はここで参考になるのが,「大衆の反逆」でオルテガが指摘するような視点なのではないか,と思うのです。つまり,「あたかも自然物のように,さまざまなものの恩恵を受け取っていないか? 当たり前のもののように受け止めていないか?」ということから考える。あるいは,「他者を考慮しよう」との思いが,本当に決意と呼べるようなものと言えるのかを疑う。

 

 正直に言うと,簡単に身につくようなものではない,と思います。「考える態度」と言うか,「考える姿勢」を持ち続け,それをくりかえすことを通じることでしか,「自らを疑う力」は,身につかないのではないか,と思うのです。努力しても,永遠に自らを疑う力が身についた状態にはならないかもしれない。

 

 だからこそ,「自らを疑える者同士が議論すること」が必要になるのかな,と思いますし,その態度を持たない限り,議論に参加する資格がない,ということになるのかもしれません。


20190519

「大衆の反逆」 オルテガ 著 ~その2~

 

<概要>

 「過去から受け継がれた人間の知」や,「自分以外=平均人以外」,を受け入れない「大衆」という存在の問題点。

 

1)大衆の時代となったのはナゼか?

 大衆の時代が生まれたのは,19世紀という時代があったからだ。

 19世紀とは,革命的な時代であった。それ以前の伝統的な社会での生活様式を一変させたからだ。その恩恵を被っている大衆は,それを自然物のようにみなし,多大な努力と細心の注意によって維持されるものであることを見ない。結果,文明の恩恵だけを要求し,義務を果たそうとしない。

 その象徴は,飢饉が引き起こす暴動だ。パンを求めるのではなく,パン屋を破壊する,その態度である。

 

2)貴族的態度の必要性

 貴族が得た特権は,与えられたものではなく,自らつかみとったものだ。つまり,能動的であるという点で,大衆の態度とは大きく異なる。

 貴族とは,活力に満ちた生と同義語である。自分の居場所を持ち,社会での役割を認識し,その役割を果たすために何をすべきか考え,行動する人だ。貴族とは,身分としての貴族ではない。庶民の中にも貴族は当然存在し,それは貴族的な態度に見て取ることができる。

 

 

<ひと言コメント>

 

 「らしさ」を背負う

 

 

 「○○らしさ」という言葉があります。日本らしさ,あるいは,日本人らしさは,その代表例ですし,それはさまざまな場で,「当たり前のこと」と,表現されるものでもあると思います。

 

 ただ,この「当たり前」は,疑ってみる必要がある。「それは本当に当たり前なのか?」

 

 当たり前を疑う態度には,大きく2種類があると思います。

 ひとつは,当たり前ではないのだから,なくしてしまえ,という態度。いわば「破壊的」な態度です。たとえば,「ルールで明記されてないのだから,やらなくていいじゃないか,あるいは,なんでもやっていいじゃないか」というもの。スマホでゲームしながら街中を歩く光景は,その一つかもしれません。

 

 もうひとつは,当たり前ではないのだから,それを努力で守ろうとする態度です。整列乗車なんていうのは,そのひとつの例かもしれません。

 本来なら整列していなくても,自分より先にいた人に先に乗ってもらえる方が良いわけです。人が少なければ,それで十分かもしれない。周囲を見る努力が,それほど必要ではないからです。でも,その努力がさらに必要になったとき,恐らくは整列するという工夫が生まれたのだろうと思うのですが,いずれにしても,当たり前を実現するには,相応の努力が必要になる。

 

 同じように考えるなら,「自分らしさ」を主張するのであれば,それ相応の努力をせよ,ということに当然なるわけです。

 

 その昔,携えた剣同志が街中でぶつかったとき,それは決闘を意味したそうです。剣同志がぶつかるというのは,生死に関わる問題だった。だから,剣がぶつからないよう,細心の注意が払われた。これは,自分を守るためでもあり,他者への配慮でもあったということ。「らしさを背負う」とは,そういうことなのではないか,と思います。


20190512

「大衆の反逆」 オルテガ 著 ~その1~

 

<概要>

 「過去から受け継がれた人間の知」や,「自分以外=平均人以外」,を受け入れない「大衆」という存在の問題点。

 

1)大衆の時代とは?

 大衆とは,まず,自分をすべての人と同じだと感じ,また,他者と同じであることに喜びを感じるすべての人だ。つまり,大衆とは「平均人」である。つまり,平均とは何か? 平均であるとはどういうことか? をとらえれば,大衆の性質がわかる。

 現代が巨大であることが,平均人である大衆が時代を支配できる一つの条件となっている。

 また,今(20世紀頭),多くの人が,自分があらゆる時代のもっとも高いところにいる,つまり,他のいずれの時代よりも優れた時代に生きていると感じている。一方で,それは,未来に向けた最下点であるとも感じている。そんな自分の力を自慢しつつ,その力に怯えているのが,今の時代である。 

 

 

<ひと言コメント>

 

 平均万能主義に陥っていませんか?

 

 統計の中でも「平均」は,よく利用されますし,便利な概念でもあります。日々新聞を見ても,使われる数字の多くが平均ですし,ビジネスの世界など,その他多くの社会的な場面で使われる数字が平均です。表面的にみる数字のほとんどは「平均」と言っても,過言ではないかもしれません。

 ある意味「平均万能主義」と言えるような社会かもしれない。

 

 しかし,平均だけからものを見ると,判断を誤るケースは多々あります。

というのも,「平均」と聞いたとき多くの方がイメージするのは,富士山のようなきれいな山型の分布における真ん中,つまり,頂上が通る線・点をイメージしがちだからです。しかし実際には,そのような場合ばかりではないのです。

 

 たとえば,貯蓄額。統計局のデータによれば,2017年の二人以上世帯の平均貯蓄額は1812万円。この額を聞いた,みなさんの印象はどのようなものでしょうか? 「そんなにみんな貯蓄してるの?」というのが,多くの方の印象なのではないかと思うのですが,いかがでしょう?

 

 実は貯蓄額で言うなら,「3分の2以上の世帯は平均を下回る」という結果になっており,その中央値は1074万円なのです。つまり,巨額の貯蓄をされている方が一定程度いらっしゃることが,平均値を押し上げている,ということ。つまり,山の頂点を示す最頻値はずっと低い金額にあるのです(と言うよりも,100万円未満が最頻値=山の頂点,になっています)。

 

 さらに,勤労者世帯に限ると,平均値は1327万円,中央値は792万円です。つまり,引退した世代の世帯が貯蓄額の平均値も中央値も押し上げているということになります。これは,引退した世代の方々が,退職金を得て貯蓄に回していることを想像すれば合点がいくと思います。

 いずれにしても,「集団をどうとらえるのか?」によっても,平均値や中央値,最頻値が変わる,ということでもあります。

 

 

 本著では,「平均である,あるいは,平均であろうとすることの大問題」が指摘されているわけですが,それは単に「平均というものへの疑いを持て」ということだけではなく,「平均というものを正しく理解せよ」というメッセージが含まれていると私は感じています。

 

 平均は,中央値でも最頻値でもありません。

 当たり前のことなのですが,こうした基礎的な統計の理解度を上げることも,令和の時代を自分らしく生きる上で重要なことなのではないか,と思うのです。


20190428

「世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカの言葉」 

佐藤 美由紀 著

 

<概要>

 「もっとも衝撃的なスピーチ」として有名になった,リオで開催された世界の貧困・資源・環境に関する国連2012会議でのウルグアイ元大統領ホセ・ムヒカのスピーチとそのポイント。

 

「優先されるのは,政治ではなく,一人ひとりの幸せだ。幸せとは,足るを知り,その上で必要なものがそろっていて,時間的に自由であるということ。つまり目指すべきは,ここで定義される幸せの観点で,格差のない社会だ。だから,持つ者が持たざる者に与えるのは,持つ者の義務である。現代社会は消費第一主義で,判断基準がすべてモノ・カネになってしまっている。一人ひとりの幸せのためには,消費第一主義は,見直すべき社会システムであり,政治課題である」 

 

 

<ひと言コメント>

 

 部分だけでなく全体を見る力をつける

 

 

 「平成から令和へ」

 日本では,名目上,時代の節目を迎えています。では,実の部分では,どう変わっていくのか? どう変えていくのか? 

 「どのような令和を目指すのだろうか?」については,せっかくの機会ですから,みんなで考えたい,と思うのです。そして,そのとき参考になるのは,ここで取り上げたホセ・ムヒカ氏の言葉ではないか,と思います。

 

 ホセ・ムヒカ氏の発言は,「勝ったら全部,負けたらゼロ」という世界への批判です。そのような世界は持続可能ではない,と。これは,戦いを想像すればわかります。「勝った方が,相手を死に至らしめ,その人が持っていた財産をすべて奪える」世界は,戦う相手がいなくなったら,財産を奪える相手はいなくなってしまいます。ということは,いつか勝ち続けた方も生き延びることができなくなるわけです。だから,論理的に持続可能ではない。

 

 一方で,ホセ・ムヒカ氏の言葉では足りない部分があるとも思います。それは,「わたしたち一人ひとりが果たすべき義務は何なのか?」ということ。権利と義務とは,コインの裏表の関係にあるからです。どちらかだけをとることはできない。

 

 義務を果たす,とは,「自分の幸せとは何か? そのために何をやるのか? をまずは真剣に考えること」から始まるのではないか,と私は思います。単に自分のことを考えることだ,と。

 

 ただそれは,目先のおカネの話ではなく,自分が働いている期間だけの話でもなく,自分が生きている間の話だけでもない。「持続可能であること」が重要なのですから,当然ですわね。それは「歴史を背負う」と言ってはおこがましい部分もありますが,そういうことなのだと思います。

 そして,自分の幸せを考えると,それはいつか,「価値づけ」という段階にたどり着くのではないか,とも思うのです。「自分の価値は何なのか?」と。

 

 「自分の価値なんて,よくわからない,難しい」

 と言われる方も多いようですが,次のように考えてみてはいかがでしょうか。

「仕事というものはさまざまな業務で成り立っている。それをまるで水の流れのように,順番につないでいって,商品やサービスの形にし,最終的に顧客に価値を届けることになる。ここで一連の流れにムダがないとしたら,その流れ上にある業務はどんなものでも価値はあるはず。なぜなら,どれか一つがなくなっても,顧客に価値を届けることができなくなるから。」

 

 これが,部分を見ること,と,全体を見ることの両方の視点が必要な理由だと思います。自分の価値を自分で気づくために必要なのだ,と。自分の価値がわかれば,自分の本当の義務も見えてくる。それがわかるまでは,与えられたことを果たすことで義務を果たすしかないのかもしれませんが。。。


20190421

「学ぶということ」 桐光学園+ちくまプリマー新書編集部 編 ~最終回~

 

<概要>

 桐光学園での<中学生からの大学講義>と題された「学問の今」に関する講義。正解のない問いに直面した時こそ必要な考える力を育むヒント。

 

1) 池上 彰 「学び続ける原動力」

「知らない」と,想像ができない。そして,勉強しないと,知らないことに気づかない。

 たとえば,「放送のない日は何をしているか?」との質問に,冗談で「遊んでる」と答えたら,そのまま信じられたことがあった。そんな楽な仕事などない。一般に「格好いい」と言われるTVの仕事は,画面には映らないところで,地味な,あるいは,頭を使った,そして,ライバル会社との競争などの,さまざまな活動が行われているのだ。これは,他の業界でも同様だろう。

 ビートたけし氏が言った。「何かを表現するとき,必要なのは因数分解の力だ」と。この意味は,知識として物事を知っていることに加え,物事を整理して伝える,ということ。つまり,そもそも知らなければ表現の段階に進めない,ということであり,また,それを表現するための考え方もまた,学びの対象にすべき,ということなのだ。

 一所懸命学んだことは,後々になって思わぬ形で威力を発揮しもする。そもそもNHKの記者だった自分は,キャスターとしてTVに出演するより,アナウンサーが読む原稿を記事にする方が楽しいと思っていたし,自分の理解のレベルを上げるために,各分野の基礎を勉強していた。それが,「週刊こどもニュース」が好評を得られたことにつながり,また,各種の執筆活動にもつながったのだ。 

 

 

<ひと言コメント>

 

 「知っている」の深さ,を知る

 

 「知っている」という言葉は非常に難しい言葉です。「知っているレベル」と,「知っている」という表現の使い方が人それぞれだから,その基準,目線をそろえるのが非常に難しい。

 たとえば,現首相の安倍氏を「知っているか?」と問われたとします。確かに私は名前を知っています。また,これまでの発言等の一部は知っているし,どんな方向のことを考えていそうであるか,は知っています。しかし,それ以上でなければそれ以下でもない。実際のところでいうと,その程度でしか「知らない」わけです。

 

 「知っている」とは,スペクトラム状態。つまり,「まったく知らない」から「ものすごく知っている」ところまでの連続体の中にあるような言葉だと思います。

 

 また,自分に問いかける言葉でもあると思います。「知らないことはわからない」のですから,「ものすごく知っている」の「到達点」は,論理上はいつまでもわからないはず。だから,「知っている」と言っても,「本当に知っているのか」と,自分を疑うことにもなる。「もっと深いところがあるのではないか? 自分は本当は,どの程度知っているのか?」と。

 

 だから,「●●を知っているか?」という問いは,答えに困ります。「名前を知っているか?」は答えられますが,「●●問題について知っているか?」「△△について知っているか?」というような「問い」は,非常に答えづらい。程度を聞かれても,答えづらい。

 

 それでも,答えられるのは,比較ができるから,だと思います。たとえば,聞いたことがあるレベルのものと,ある程度は深く知っていると言えるものとの間には,「かけた時間」に大きな差がある,といった比較です。同様に,他者との比較も有効。他者との出会いと会話を通じて,他者から「<知っている>の深さ」を知る,その深さを教えてもらうことが大切になる,ということです。


20190414

「学ぶということ」 桐光学園+ちくまプリマー新書編集部 編 ~第4回~

 

<概要>

 桐光学園での<中学生からの大学講義>と題された「学問の今」に関する講義。正解のない問いに直面した時こそ必要な考える力を育むヒント。

 

1) 鹿島 茂 「考える方法」

 考える,とは,「自分にとって,何が一番良いか,知りたい」という欲求を満たす方法だ。考えるとは,デカルトによれば,

 1.すべて疑う

 2.分けて考える

 3.単純なものから取りかかる

 4.可能性をすべて列挙し網羅する

ということになる。

 ただ,日本人は特に「長期的に自分にとって一番良い」を考えるのが苦手だ。

 それは,日本は長く直系型家族であり,グローバル化とともに,欧米型の核家族型に移行している,ということが影響している。つまり,民主主義・資本主義・個人主義が生まれる背景にもなる家族類型の変化=核家族型は,「考えること」にも影響を与えてきたのだ。

 たとえば,かつては,分け前がすべてはもらえない代わりに,必ず少しはもらえる社会だった。これが,1がもらえる可能性がある社会に移行している。ただしそれは,分け前が0になる可能性もある社会に移行している,ということなのだ。つまり,考えずとも分け前が得られた社会から,考えないと分け前が0になる可能性がある社会に移行している,ということだ。

 そうとらえられると,すべて疑う,ということは,自分自身を疑うことから始めることになる。そして,「自分にとっての得」を,リスクとベネフィットとの関係から徹底すればするほど,実は「自分にとって<だけ>」とは遠ざかる。「みんなにとっての得」が,自分にとって一番得,ということになるのだ。 

 

 

<ひと言コメント>

 

 自分を疑う

 

 今回,複数回に渡って,中高生向け新書を取り上げています。その一つの理由は,自分がわかっている(と思っていること)を疑うことが,実は今,非常に重要なのではないかと考えたから,です。「何回かけてやってるの?」と思われる方もいらっしゃると思いますし,私自身も「くどいかな」と,思う部分もあります。それでも,自分が知っていること,と,自分が説明できること,とは,必ずしも一致しないこと,に,私自身が自覚的になろうとしている部分もある。

 

 私は仕事上,どうしても「難しいテーマ」というか,「答えを自分で探していただくもの,その方法」を,人に教えることが多いのですが,実はそれを知識として吸収いただくことは,それほど難しいものではない。でも,それをご自身で使っていただくとなると,途端に難しいのです。

 

 「考える」は,そんな難しいテーマの一つです。「知識」として理解いただくことはできるのですが,使えるようになっていただくには,相応の努力をしていただく必要があるからです。だから,あの手,この手を使って,「使うこと」に誘導しようとするのですが,すぐに使えるものばかりではないので,続けていただくことのハードルが高い・・・。

 

 鹿島氏の指摘からは,「みんなにとっての得が,自分にとって一番得」という知識を得ることができると思うのですが,「それを覚えて何になるのだ?」と思うのです。実際,扱われているテーマは「考える方法」なのであって,「考える=自分にとっての得=みんなにとっての得」という知識を得ることではない。でも,多くの方が,この知識を得たことを結論としてしまう可能性は高いようにも思うのです。だから,方法論は難しい,というか・・・。

 

 ただ,知識としてINPUTしてしまいがちなのは,私も同じだと思います。だからこそ,常に「自分を疑うしかけ」をつくることが大切になるのではないか,と思うのです。


20190407

「学ぶということ」 桐光学園+ちくまプリマー新書編集部 編 ~第3回~

 

<概要>

 桐光学園での<中学生からの大学講義>と題された「学問の今」に関する講義。正解のない問いに直面した時こそ必要な考える力を育むヒント。

 

1) 湯浅 誠 「人の力を引き出す」

 障害者・高齢者・ホームレス等々,「何もできない人」と位置づけはじき出そうても,いなくなるわけではない。であれば,その人にできることをしてもらった方が本人も社会も幸せだ。

 だが,その力を引き出すには,ノウハウ技術が必要。やってみて,初めてできるようになる。学ぶとは,自分の力が引き出されること,なのだ。「人間,読んだことの10%,聞いたことの20%,見たことの30%,自分で言ったことの80%,自分で言ってしたことの90%を覚えている。」という言葉に自覚的になることが大切。

 

2) 美馬 達哉 「リスクで物事を考える」

 危険とリスクとは異なる。一つは,目に見えるか見えないか,という違い。また危険は存在するのに対し,リスクはまだ存在しないことであり,可能性に過ぎないという違い。危険への対応は合意しやすいが,リスクにはみんなの意見が一致しにくい。ただ,病気も予防の方が効果が高いことからわかるように,リスク対応が重要なのだ。

 人間の脳は,利益になることに対しては安全志向が,損になることについてはリスク志向が働くようにできている。前者は本能に近い部分でスポーツでの判断が代表例。後者は文化的な部分と言うこともできるが,将来の予測を計算したうえでできるようになること。この後者の力を発揮できるようになることが重要だ。

 

 

 

<ひと言コメント>

 

 Howが重要

 

 今回取り上げた「人の力を引き出す」「リスクで物事を考える」の2つの講義に共通するのは何か? を考えたとき,私は「How」ではないか,と考えます。言い換えれば「方法論」なのですが,名詞ではない方法で,これをとらえたいのです。名詞でとらえてしまうと,何か1+1の答えの「2」ような正解があるように感じられるから,つまり,形が固定されてしまうように感じられるから,です。 

 

 世の中にあることの多くは,自分で正解をつくるしかないと思うのです。誰からも白黒はっきりしているわけではない。たとえば,

「あなたが路面電車の運転手だったとする。走行中にブレーキと警笛が故障,列車は暴走。その前方では2つの進路があり,それぞれ5人と1人が作業している。どちらかを確実にひき殺してしまう状況で,路面電車の進路をどちらに向けるか?」という問いに,正解も不正解もないでしょう。

 

 もちろん,多数決で考えるという方法はあります。しかし,それは本当に合理的なのか? たとえば,上記の条件のとき,「なるべく多くが死なないよう,1人がいる方に進路をとる」というのが多数決での正解だったとします。でも,その多数決の結果は,「その1人が,あなたのご家族やパートナーなど,特別な方だったときのこと」を想定した選択になっているのか? 非常にアヤシイ部分があるわけです。

 

 だからこそ,「自分の中にHowをどれだけ作れるのか?」が,自分の正解に近づくための方法だ,と,私は思うのです。


20190331

「学ぶということ」 桐光学園+ちくまプリマー新書編集部 編 ~第2回~

 

<概要>

 桐光学園での<中学生からの大学講義>と題された「学問の今」に関する講義。正解のない問いに直面した時こそ必要な考える力を育むヒント。

 

1) 斎藤 環 「つながることと認められること」

 現代社会では,「コミュニケーション」と「承認」という2つのテーマを避けて通れない。

 

 本来のコミュニケーション力とは,論理力だ。ただ,今言われているコミュニケーション力は,空気を読む力。日本では,大事なことを決めるのは人ではなく空気と言われているが,現代型コミュニケーション力至上主義では,この「空気」に翻弄されることになる。また,たとえば,「努力は才能を補うもの,あるいは,才能を開花されるもの」なのに,現代の風潮は「努力することが,特殊なこと」のようにとらえられてしまうのも,空気という問題だ。だから,企業の採用でおいてすら「コミュニケーション力で評価」という風潮は問題なのだ。

 

 ただ,この空気から逃れるためにも,自信が欠かせない。人が自信を持つ方法は,「社会的地位」,「努力やその結果に基づく自己評価」,「他者からの承認」ぐらいしかない。たとえば居場所とは,他者から承認されるということ。特に,本当に大切な他者との関係が長く続くことは,自己愛を生み,自己愛は,他者から「自信」や「プライド」を与えられることで自分の成長につながる。似た言葉である自己中心とは,まったく異なるものだ。自己中心は,他者に向かっていく力だからだ。

 

 

<ひと言コメント>

 

 自分ファーストとは?

 

 このサイトは,「自分ファースト」という言葉を掲げているわけですが,私の言っている「自分ファースト」は,斎藤環氏が,ここで言われていることに比較的近い,と感じます。と言うのも,少なくとも斎藤氏は,自己中心と自己愛とを分け,両者はまったく異なるもの,と指摘しているから,です。

 ただし,その表現の方法は,まったく異なると思います。

 

 私が「自分ファースト」と表現するのは,「すべて,自分が起点」であり,自分が起こす行動が,自分に返ってきている,という考え方をしています。自分が社会に働きかけるから,斎藤氏の言う社会的地位や,自己評価や,他者からの承認が得られる。求めるもの=Whatは人間だからあまり変わらないとして,それを「どちらから始めるのか」,つまり,「能動的なのか,受動的なのか」=Howを問題にしている,ということです(最近になって,この表現に気づいたのですが・・・苦笑)。

 

 ただ,かく言う自分も,幼いころから能動的だったわけではありません。むしろ,受動的だったと思います。そんな自分に能動的な部分,つまり,自分起点の部分ができたとき,見える世界が大きく変わってきた。それは実感できるのです。

 

 本書で斎藤氏が意図されているところを十分に汲み取れているか,はわかりません。また,本書で示されているのは,斎藤氏の主張の一部なのかもしれません。それでも,「近い」と感じるのは,そこにある種の「教育的な視線」を感じるからなのかもしれません。


20190324

「学ぶということ」 桐光学園+ちくまプリマー新書編集部 編 ~第1回~

 

<概要>

 桐光学園での<中学生からの大学講義>と題された「学問の今」に関する講義。正解のない問いに直面した時こそ必要な考える力を育むヒント。

 

1) 内田 樹 「生きる力を高める」

 どんな時代も「こう生きれば必ず成功する」は,原理的に存在しない。ただ,生きる力を高められれば,どっちに行けばよいかはわからなくても,どっちに行くとマズイのか,はわかるようになる。そのためには,近い将来直面する課題を知り,それにどう備えるか考えることが必要。課題とは,エネルギー,食糧,水不足などの他,人口減社会でどう社会制度設計するかだ。

 日本の政治は,アメリカの国益にならない限り意思決定できない。日本の社会制度は,なんでも「市場が好感すれば,非民主的でも何でもよい」という株式会社化,つまり「なんでもカネ」。日本には資源がなく,急激な人口減の局面に入っているから,経済成長することはない。資本主義の末期症状は,アメリカに見られる貧富の差という垂直格差だけでなく,地理的な格差。これらの課題,現実を知ることが,生きる力を高めることに役立つ

 

2) 岩井克人 「おカネとコトバと人間社会」

 おカネとコトバには共通点がある。それは,人の行動に影響を与えること,だ。コトバは空気の振動に過ぎないが,人に影響を与える。おカネが物理的な根拠はないのに使われるのは,「皆がおカネとして使うから皆がおカネとして使う」という「自己循環論」にある。これがコトバとの共通点だ。

 おカネとコトバを使う社会は,「皆がそう思う」ということが前提だから不安定。だから,グローバル化すればするほど不安定になる。おカネにおける「インフレーデフレ」の関係は,コトバにおける「ポピュリズム-ファシズム」の関係だ。

 

 

<ひと言コメント>

 

 目に見えない形で働くもの=原理原則

 

 本書は桐光学園で行われた講義を本にまとめた,中高生向け新書の一冊です。実は私,最近中高生向けの新書を手にすることが多くなりました。一般の新書と比較して,むしろ質が高いように感じるのです。これには,私の勉強不足が一番の問題なのだとは思います。著者が前提とされていること,を,私が知らない,ということです。ただ,もう一つ,出版社側に大きな理由があると思います。

 

 「中高生向け」と考えたとき,「新たな市場開拓」が,出版社側のそもそもの動機にはあるのかもしれません。ただ,「中高生向け」として確実に認知され,そして買われ続けるには,あるべき姿論も含めた「大人たちの目」をくぐり抜ける必要がある。そこで良質と評価されない限り,大人たちが薦めないから,です。出版社の編集者たちが,著者に対してではなく,吟味の目に対して必死になる必要がある。私も実際,中高生向けのものを作っていた人間ですが,かなり気を遣う。大人向けとは異なる気の遣い方をする。

 

 このことは,決して表に出ることはありません。著者に聞いても,出版社に聞いても,「そんなことはない,自分たちはどんな作品にも同様に力を入れている。同様の体制で,同様のしくみで作っている」と回答されるはずです。それはそうなのですが・・・。

 

 私は原理原則というものは,そんな場面で働くものだ,と思うのです。