BOOK紹介

Weekly Columnでご紹介した本を中心に,名著から話題の本まで,その概要をご紹介するコーナー

実際に読んだ上で,情報整理や思考整理に役立つ本などを厳選してご紹介しています

ちょっと知的な話題づくりに,本格的な読書の前に,考えたり行動したりする際のヒントに,ぜひご利用ください

【今週の一冊】

ここでご紹介できていない各書の「概要」は,「今週の一冊アーカイブス」から閲覧いただけます

20221204

「「日本」ってどんな国?」 本田 由紀 著 ~第3回~

 

<概要>

 国際比較データをできるだけ用いてあぶり出す日本という国の特徴

 

1)学校

 何かを自明視することは危険だ。学校は誰もが経験しているからだ。また,誰もがよく知っているような気分になる。無自覚な当たり前に基づき,「学校論」は展開されがちなのだ。しかしそれらの論は,自分自身の経験や価値観に基づいた経験論や思い付きの理想論である可能性がある点で注意が必要だ。だからこそ,他国と比較してみることが大切になるのだ。

 日本の学校については,「学力は高い。しかし・・・」といった流れで論じられることが多い。各種調査で上位入りする反面,論理的な思考,学ぶことの意義に対する肯定的な態度が相対的に見て低いのだ。

これは,日本の教員たちは授業をうまく行うことには長けているが,個別のフィードバックや学ぶことの価値やものごとを根底から考えさせたりすることについてはうまく行えていないのだ。それは,少人数学級が実現されておらず,教員が多忙,ICT化が遅れ,それが異常に厳しいルールを定めることにつながっているのだ。

 全体としての教育制度にも問題がある。当たり前のように高校入試が行われているが,国際的に見ると稀な状況だ。そして,高校には既に序列が見られ,それが,家庭の経済力に依存しているような結果も見られている。学校が,難易度の高いその先の上級学校に進学させることを目的とした装置化してきた問題は大きい。その後「学力」だけでなく,「人間力」「生きる力」といった価値観を生み出してはいるが,それがふわっとしたスローガンに過ぎず,大人たちの勝手な要請を反省すべきなのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 意見なのだから,意見として示せばよいのでは? 

 

 この章の冒頭の指摘は,非常に重要です。つまり,「何かを自明なものととらえるのは危険」であり,誰もが経験したことであるほど「誰もが論を展開する」,という話題です。学校と言うより教育というものは,みんながみんなに,それなりの持論があるように思います。だからこそ本来は,科学の出番なのだと思うのですが,では,本書では,それに成功しているのか?

 

 本書の中での指摘には,相関関係があることのみから因果関係の言及がなされている部分が多数見受けられます。しかし,相関関係があることは,因果関係があることを意味しません。これはよくよく考えれば当たり前のことです。

 

 たとえば,AとBに相関関係が見られた,という場合,仮に何らかの因果関係があるとしたところで「AだからB」ではなくて,「BだからA」である可能性があるわけです。他にも,Cというものの存在がAとBの両方に影響を与えている場合もあります。つまり,「Aであることは,Cというものの存在の結果」であり,また,「Bであることは,Cというものの存在の結果」である,という場合があり,その結果としてAとBとに相関がみられる場合がある,ということ。疑似相関というヤツですね。

 

 著者は,専門家の立場として話をしてはいるように見せてはいますが,その論は,実は自分の意見を示しているだけに過ぎないような場面が多い。この「学校」という章も同様に見えます。この章を「教育」とはせず,「学校」と置いているのはナゼなのだろう?と考えても,それがどうもいやらしい形で透けて見えているような気がする。

 

 別に意見を示すことが悪いのではないのですから,そうであれば,そうであるものとして示せばよいと思うのですが・・・。


20221127

「「日本」ってどんな国?」 本田 由紀 著 ~第2回~

 

<概要>

 国際比較データをできるだけ用いてあぶり出す日本という国の特徴

 

1)ジェンダー

 日本の問題としてジェンダー面での不平等が上げられる。

 この問題を考える時,注意する必要のある4つの視点がある。1つ目は,社会全体の分布としてとらえられるマクロの視点と,個別のケースにおける側面であるミクロの視点が入り組んでいるという点。2つ目は,男性も女性も全体の傾向と個別の状況とには差異があるという点。3つ目は,個々の考え如何を問わず,それが社会的な弊害をもたらすのなら,放置すべきでないという点。4つ目は,複雑なジェンダーの問題を解き明かすには,それを説明するさまざまな事柄の意味を正確に理解することが重要だという点だ。

 日本のジェンダー面での不平等は,公的立場にある女性の少なさ,女性における非正規雇用の多さや正社員の中でも分けられたコースの存在,男性の家庭進出の停滞といったデータに表れている。男性の家庭進出を阻む社会の在り方など,それがいわゆる「普通」や「当たり前」,「らしさ」を作り出し,人々の考えに影響を与えている。結果,ジェンダー・ステレオタイプが蔓延している最たる国が日本なのだ。その最たる例が政治,自民党政権であり,その「古い日本」の価値観による弊害は,同党国会議員の女性に対するセクハラ発言の他,政策にも見られる。人口の半分は女性で構成されているのだから,その意見や考え,感じ方が反映されない「数の歪み」が存在している現状の是正には,どうしても取り組まなければならないのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 意見のまとめ方として

 

 今回取り上げたジェンダーパートの主張について,みなさんはどのように受け止めるでしょうか? もちろん,ここで示した内容は,私が要点を抽出したもの,であって,著者の主張を反映しきれているわけではないと思います。一方で,私がまとめ直すことによって,実はある程度の論理を持って,主張が示されている部分があるのも事実だと思います。

 

 私自身は,このようにまとめ直した論であれば,一定程度(あるいは,それ以上に)受け入れられる部分があります。つまり,「数の歪みを是正することによって,実際の民意をまとめ直す必要がある」ということ。ただし,仮にそれが実現された時の結果は,筆者が主張するような形には,必ずしもならない可能性があるのではないか,と思います。つまり,著者の言葉を借りれば「古い」「古臭い」とされる価値観が支持される可能性が現時点では排除されない,ということです。むしろ,著者が主張する「現状の日本的=古臭い価値観」と「他国的?=新しい?価値観」自体も「ステレオタイプなのでは?」と思ってしまったのですが,どうなんでしょう? 

 

 前提として多様な価値観を認め合うことを目指すのであれば,北欧的な価値観だろうが,イスラム的な価値観だろうが,共産主義的価値観だろうが,どの価値観であっても受け入れることを目指す必要がある。ただ,その時には,「それが本当に民意なのか?」を疑う必要がある。だから,その前提として「数の歪みの是正が必要」ということになる。

 

 意見というものは,「未検証の仮説である」と言っているのは,マネジメントの父,ピーター・ドラッカー。ドラッカーは,「それは事実を持って検証されなければならない」とも言っているのですが,本著者は,データを使うことで国際間で「差があること」には成功していますが,「それが民意を反映していない」ということについては,データで示すことはできていません。つまり,著者の主張は,「未検証の仮説の段階にある」ということ。

 

 著者は,日本は「スゴイ」のか,「普通」なのか,「ヤバイ」のか,国際比較データを使って見ていく,と,「はじめに」で示しているのですが,そのデータの使い方は,スゴイのか,普通なのか,ヤバイのか,を示すような使い方にはなっていない,要は「未検証の仮説=1つの意見に過ぎない」として提示しているに過ぎない,ということ。もちろん,意見を本の形で示すことには意義があるわけですが,本著の示し方はミスリードを促す形になっているのでは? と,私は思います。

 

 ものすごく大切なことも示されている,と思うのです。たとえば,今回取り上げた部分の冒頭に示されている4つの視点などは,非常に重要な視点だと思う。そうではあるのだけれど・・・ちょっと残念だなあ,というのが,私の感想です(という,私の意見,ですね)。


20221120

「「日本」ってどんな国?」 本田 由紀 著 ~第1回~

 

<概要>

 国際比較データをできるだけ用いてあぶり出す日本という国の特徴

 

1)家族

 今必要なのは,古い家族像を理想化したり,多くの負担を家族に負わせたりすることではない。生きる上で必要な住居や食品,医療や教育などのサービスが確保できるようにすることで,どのような家族の場合でも,安心して,かつ尊重されて人生を送れるようにすることだ。

 福山雅治の「家族になろうよ」の歌詞にあるような家族観が人々の間に共有されているが,実際には「家族」の定義や範囲は実は複雑で,変化も大きい。たとえば,かつて6割を占めた夫婦と子どもの世帯と三世帯は半減,単独世帯や夫婦のみ世帯は半数を占めるに至っている。

 また,日本の家庭生活の満足度は国際的に見て低いなど,家族は維持することが難しくなっているのに,社会的機能の多くを担うことが政策によって期待され続けている。国家の責任を代わりに家族に押しつけ,日本の美風としているのだ。政府が家族を助けていないことが,一層の少子化を招き,押し付けられた責任を担い切れない家族を増やしているのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 批判的思考のトレーニングの素材として

 

 日本の地理的特徴,たとえば,東西南北に弓なりの形状をし,海に囲まれていること,山が多いことなどが,雨や雪の多さといった気候,地震の多さといったことのほか,その結果として風土や文化にさまざまな影響を与えてきたことを否定することはできないと思います。そして,そのような風土や文化は,暮らしに直接影響を及ぼすだけではなく,人々の考え方や価値観にも影響を与えている。これも否定することができない。

 

 一方人口学的な視点で見ると,先進国ほど少子高齢,途上国ほど多子若齢の傾向が見られる。これは,先進国ほど生存に関わる環境整備が進むことが大きな要因ととらえられるわけです。食べるものがあり,住む場所があり,衛生環境が整い,医療や福祉が充実すれば,それは寿命に影響を及ぼすでしょうし,子どもを産むということに対する動機づけが相対的に低くなることも理解できる。

 

 たとえばこのような事実をもって著者の主張を見るだけで,その論には短絡的な部分が多いというか,論の飛躍が大きい部分があることがわかります。もちろん,本書にそれだけの紙面を割くことができない部分はあるのだと思います。けれど,ちくまプリマー新書という,ヤングアダルトを対象とした入門書の位置づけであることを考えたとき,「こういう見方もできる,可能性もある」ということを,「しっかりと理解した上で,世の中を見ていくことが重要」であり,やはり,「自分で考えること」が大切なのだよ,ということを伝えた方が良いように思うのです。

 

 私自身は,著者個人の主義・主張に対して,共感する部分もあるし,そうでない部分もあります。ただ,そのような思考を促しているのではなく,著者の考え(ところどころ「決めつけ」のような表現をされているのも気になるのですが)を,初学者のヤングアダルトに押し付けているように見える。

 

 そうなってしまうと,残念ながら害になってしまいかねないのではないか,と私は思うのです。そして(だからこそ?),本書は,批判的思考のトレーニングに非常に向いているのではないかな,と思ったりもします。


20221113

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~最終回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)人生を見直す③

 Beyond Orderなど。

 現代文化は「手っ取り早くできること」に価値を置いているが,私たちが求めているのは「意味のある人生」であるはずだ。そして,意味ある人生には近道がない。だから,「自分が,どういう時間をもっと味わいたいのか」,「どんな時間はなるべくかけたくないのか」という自分の本音と向き合うことが必要になる。

 一方で,今の自分だけではなく,明日の自分に協力することも必要。「大変になったらがんばる」では,「味わいたい時間を味わえる時間」が,明日の自分は得られないからだ。それをたくさんやるのではなく,毎日1つだけやること。

 何らかの苦しみがあると,逃げようとしがち。ただ,逃げるとその状況から変わることはない。一方で,その苦しみを何らかの方法で消化すれば成長することができる。消化するのは「したいこと,というよりは,必要に迫られること」ととらえるとよいかもしれない。夢を叶える道のりでは,その多くは,混乱,災難,悲嘆や裏切りなどで,夢をあきらめようとさせるものばかり。どんな状況に追い込まれても,自分の人生をどうしたいのか,は,誰かに決めさせるものではないのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 強みの強化=明日の自分への協力

 

 私たちは今を生きている,とは言うものの,やっぱり将来に対する不安はあるわけです。

 

 いつ,自分がどうなるか,なんてことは,可能性として想像はできても,「いつ,こうなりますよ~!」なんてことは言えない。一方で,「いざ,その時」を想像してしまうと,特に経済的な面については不安になる。「もし,そうなったら,生活していけるのか?」

 

 これだけいろいろなことが起き,その動きが急だったり,あまりに荒かったりすると,そんな不安があるのは当然なのですが,その時のために,何かしておくことはできる。

 

 その1つは保険や年金等々などの対策なのだと思いますが,できることって,それだけではないように思うわけです。

 

 たとえば,今,話題のリスキリング,なんていうものは,本当に使う場面がやってくるのかどうかは別として,「いざ,その時」の対策でもあると思います。その時,次に問題になるのは,「何をやっておくか」ということ。そして,もしかすると多くの方は,「今,自分ができないこと」,つまり,弱みを埋めることを考えるように思います。

 

 逆に言えば,「だから,続かない」ということもありそうに思います。ただでさえ,動機づけが弱いものなのに,自分の弱みを埋めようとするものをやるから,続かない。そもそもやりたくないタイプのものなのですから・・・。

 

 ここは少し,発想を変えてみてもよいのではないか? と,私は思います。要は,「自分の強みをさらに強化するために,した方が良いことは何なのか?」という形で考える,ということ。そして,足し算ではなくて,かけ算で考える。たとえば,今,持っている知識やスキルを,対外的に発信していく,なんていうのはかけ算の典型のように思うのです。発信するために,情報を整理するとか,文章に示すとか,図式化するとか,実際にそれを発信するプラットフォームをつくるとか・・・。

 

 明日の自分への協力,って,良い言葉だなあ,と思ったのですが,それって,そういうことなのではないか? もっと言えば,「ありたい姿からの逆算って,そういうことなのではないか?」と私は思うのです。


20221030

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第9回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)人生を見直す②

 Beyond Orderなど。

 私たちは,人生においてゲームをしている。ゲームというものをするには,意志とリソースの2つが必要。そして,ゲームに参加するには,大義が重要だ。また,ゲームには有限ゲームと無限ゲーム2種類のものがある。前者の特徴は,期日があり,達成できたかどうかが重要,誰かと比較し自分が上か下か,勝ち負けがあるという特徴であり,後者の特徴は,終わりがなく,そもそも勝ち負けがなく,だから誰かとの比較では勝敗は決まらず,ゲームする目的は続けること,という特徴だ。多くの場合で,有限ゲームをしているが,無限ゲームをすることが,幸福感を持続可能なものにする。

 人生で壁にぶつかってしまうのは,気にするに値しないことを気にしてしまうからだ。成功を決定づける問いは何がしたいではなく,「どんな大変さ,苦痛の日々なら喜んで経験したいか」という問いだ。自分が耐えられそうな痛みを選ぶ。すると,自然に「独自性」を持つことにつながっていく。人生における成功者は,自分が他と違っているから特別な存在になれたのではなく,「上達することに徹底的にこだわったから」成功できたのだ。それが,1つのことにコミットする,ということでもある。

 そうは言っても,人は恐れを抱く。そのとき,その恐れに名前を付け,その真実を明らかにする。たとえば,お金の不安についてなら,老後の生活に不安,などの不安の要素に分解,それに「老後の生活費不安くん」のような名前をつけ,その真実として,今,いくらくらい生活費がかかっているのか,から,必要な生活費を実際に計算する。その額を把握したら,1人で悩むのではなく,さまざまな力を借りる。お金の場合なら,大抵の解決策が存在するから,それらに取り組む,行動する。行動する時には,スモールステップを刻むのがポイントだ。たとえば,最初の目標は緊急用として10万円貯める,といった目標だ。

 

 

<ひと言コメント>

 人生という名のゲーム

 

 電車の乗り換えの時ですらゲームをし続ける行為に,正直,辟易する部分があります。「そういう時ぐらい,止めたら?」と思うのですが,本当に多いなあ,と思う。平気でぶつかってくる,と言うか,アイコンタクトもへったくれもないから,どうしようもない部分がある。

 

 それだけのめり込む,ゲームというものは何なのか?

 

 本書の今回取り上げたパートで1つの仮説を持つに至りました。それは, 「人生はゲームのようなもの」であり,その意味で,人は常にゲームをし続けているわけで,ゲームを止めないのは,常に人生の中でゲームをしているから,「ゲームをし続けていようが問題はない,と,頭がどこかで認知している」という仮説。

 

 どうなんでしょう? この仮説。

 

 さらに追い打ちをかけて,こんな仮説も持ちました。「私たちはこれまで,気にするに値しないことを気にしてきた。その1つは他者への配慮。他者のことは,気にするに値しないこと。人にぶつからないようにする,という配慮は,気にしないで良いこと」という仮説。

 

 まあ,確かに自分にできることしか,自分にはできないわけで,他者がどうするかを気にしていても仕方がない,という部分はあるわけですから,その意味で,他者のことを気にしている場合ではないのは事実かもしれない。

 

 こうして自分でこの文を打っていて,「何だか,結構な説得力があるのかも」と思ってしまう自分がいます。もちろん私自身は,この論には否定的。なぜならこの論,人々の欲求が,マズローの5段階欲求説の低次のものにしかなっていないように見えるから。まあ,実際問題として,そうなっていっているのかもしれないのですが・・・。


20221016

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第8回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)人生を見直す①

 Beyond Orderなど。

 人生に意味などない。それは不快なことかもしれない。しかしそれが真実なのだ。人生とは,日々くり返されること。だから死は,必要なものなのだ。明日死ぬと思えば,何をやるか,やりたいことを選択することになる。死が人生の価値を作り出すのだ。

 一方で,多くの場合,明日死ぬことはない。つまり,日々のくり返しを適切なものにすることが,その豊かさにつながる,ととらえられる。だから,大事なのは勝ち負けではなく,与えられたゲームをどうプレイするか,行動が大事だ,ということになる。

 自分に見えている未来を実現するのは自分自身。その実現に向け行動すべきであって,それを共有することに時間を使うべきではない。注目すべきは,自分にとって自然にできること。それがギフトだ。そのギフトを大切に,行動するのだ。そこに他者の評価は関係ない。

 止まらずに動き続ける。歳を取ることが敵なのではなく,停滞すること,満足すること,が,敵なのだ。打ち込めるものを探すのではなく選ぶ。今,目の前にあるものから選ぶ。単純に,打ち込むと決めるか否か,そして,行動するかどうか,なのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 「人生に意味などない」という仮説

 

 今回冒頭の「人生に意味などない」という言葉,取り方を間違うと,適切な解釈ができなくなるな,と思います。この言葉を適切に解釈しようとするなら,起点を「人生に意味などない」と置いてみよう,という提案のように思う。すると,「それでも,私たちは,自分の人生には意味がある」と思うのだとしたら,「それはナゼなのか?」と考えていくことができるから,です。 

 

 人生に意味があること,を,前提にした場合,「何らか意味あることをする必要がある」と考えがちではないか,と思います。でも,「そもそも人生そのものには意味がない」ことを前提にすれば,「意味をつくるのは自分」ということにできるし,「そのために,自分はどんな行動をするか,するのが良さそうか」ととらえることになる。

 

 銀河鉄道999では,主人公が,機械の体を手に入れるための旅をする物語です。「機械の体を手に入れて,永遠の命を手に入れよう」としている。一見すると,機械の体を手に入れるという手段によって,永遠の命を手に入れるという目的を果たすために,旅をするという行動をしているかのようにとらえられます。しかし,永遠の命を手に入れるというのは,本当に目的なのか?

 

 「永遠の命を手に入れた結果,何をしたいのか?」が,本来的な目的というもの。ということは,ここでは,手段の目的化,が,起きているように見えるわけです。

 

 「人生に意味などない」というのは,思考の出発点ではないか? つまり,仮説として,そのようにとらえれば,「自分自身の人生とは何なのか? の答えが得られるのではないか?」という提案のように思える。

 

 そうとらえると,このような仮説の置き方って,他でも使えるのではないかな? と私は思いました。


20221009

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第7回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)チームを動かす①

 From the Ground Upなど。

 プロとは何なのか? その1つの答えは,その役割を「演じ切れる」ということだ。だから,プロは,役割・任務に対して徹底的なまでの自己責任意識を持つ。

 リーダーは,本来の自分と関係なく動く「役」である。リーダーという「役」には,今の状況を何とかすることが求められる。結果に責任を負うが,すべてを自分で実行することはできない。だから,「指導,チーム構築,結果を出すこと」が役割になるし,だから「カバー&ムーブ,シンプル,優先順位と実行,権限移譲」により,勝つための準備をさせる必要がある。

 適切にホメ,適切に叱ることで,部下との適切な関係をつくる。そのポイントは,自分が今,どの位置にいるのか,自覚すること。「目指す姿・未来か,現状・今か」と,「遠回しに言うか,率直に言うか」を2軸として,マトリクスでとらえる。実現したいのは,「目指す姿・未来×率直」の状態であり,特に,部下から上司に対する関係として,実現したい状態である。その実現には,「部下から批判してもらう」のが,手っ取り早いと言える。

 役に対する期待通りの仮面をかぶり,まずは相手の利益を考え伝えつつ,何度でも大義を確かめる。それがリーダーが行うことなのだ。

 勝ちに導くために,自分がメンバー以上の必死さを見せること。怖いと言いつつ,大胆に行動し,そうではあっても一貫性は保つ。自分の価値観と行動とを一致させること。その上で,ルーティンを作らせつつ,他と同じことをやっても勝てない,という自覚の下で,他とは違うことをさせる。強みづくりとその強化に導くことが,リーダーには求められるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 自分に対するリーダーシップの発揮

 

 リーダーシップを発揮する,というと,「他者に対して発揮するもの」のように,とらえがちなのかもしれません。けれど,実際にリーダーシップを発揮する対象は全員,つまり,自分も含まれるわけです。と言うよりはむしろ,自分に対してリーダーシップを発揮できなければ,他者に対するリーダーシップは発揮できないのではないか,とも思います。

 

 セルフ・リーダーシップという言葉あるものなのか? 調べてみると,やはりあるようですね。ただ,どうもセルフ・マネジメントとの混乱が見られるようで,しっかりと区別がされているわけではなさそうです。ということで,このあたりは,「リーダーシップとは何か?」 と「マネジメントとは何か?」とを,比較してからとらえた方が,わかりやすいように思うのですが・・・。いずれにしても,リーダーシップとマネジメントは,ありたい姿を実現するにあたっての両輪ととらえられるのだとは思います(だから,混乱が見られるのかもしれない・・・)。

 

 仮にそうとらえることができる,としたとき,「マネジメントは得意だけれど,リーダーシップを発揮するのはニガテということは,どういうことなのだろうか?」という問いを立てられるように思うのです。

 

 さまざまな答えが考えられるのだろう,と思うのですが,その1つは「他者から目標,あるべき姿は,常に設定されてきた。その目標,あるべき姿の達成に向けて,どうやれば良いかを考え・示し,その進捗状況を測定・評価し,その後の行動に反映する力を磨いてきたから,それは得意になった」ということになるように思います。

 

 と,このように考えてみて,少し愕然とした部分があります。「そうか,こうなる1つの答えは,自分で目標を立てる,決めることを,してこなかったということか」と。うーん。。。


20221002

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第6回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)チームを動かす①

 From the Ground Upなど。

 組織のリーダーであるためには,リーダーという「道」の言葉を知り,使い,理想のリーダー像をもって振る舞い,迷った時には理念に立ち返ることだ。「現状は,その理念と,どの程度のギャップがあるのか? 課題は何か?」と考える。すべての結果を個人の成果ではなく,チームの成果ととらえ,見込みのある人には,ポジションを与え,トライ&ラーンをさせる。そして,部下には自分の考えについて,怖気ずに反論させつつ,自分が決断した後は,その決断が自分たちの決断であるかのように振る舞わせる。

 組織は,家族ではなく,プロスポーツのチームだ。優秀な人だけを残し,その人にしかできない仕事を任せ,上も下もなく全員に原則を守らせる。たとえばスタバは,顧客に,仕事でも家庭でもない,そこでしか得られない体験ができる「第3の場」を提供し続けることが目標だが,そのためにはディテールにこだわる必要があり,順に実現しなければならないことがある。コーヒー屋ではないが,コーヒーが美味しくなければスタバではない,ということなのだ。

 Amazonの活動は,自分や会社の役割を果たすこと。その役割を出発点にサービスを提供しているのだから,サービス活動は活動の1つに過ぎない。「役割を果たすにあたって,成功したらすごいこと」を考え,実験とミスの連続が,おもしろいこと,重要なことをもたらし,莫大な利益を生みだしているに過ぎない。そのために,価値がある,と決めている評価軸に対して徹底的にこだわり抜く。常に起業したてのような高い目標を設定し,集中力を持って活動する。だから,Amazonのジェフ・ベゾスは,辛辣なFBをする。しかしそれは,優秀な人材に対してだけだ。あたかもオリンピックの強化トレーニングに参加しているようなもの。そうやって,企業文化は作られていくのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 出発点は「相手は誰?」,ではあるのだけれど・・・

 

 人というものは人である以上,何らかの事象に直面したとき,多かれ少なかれ,何らかの感情を抱くものだと思います。では,仕事に対して,あるいは,仕事をする上で直面する,さまざまな事象に対して,どのように感じるものなのか?

 

 そもそも「仕事は面白いものと,とらえられる人」であれば,仕事をする中で直面するさまざまな出来事,事象は,面白いものととらえられるのかもしれない。けれど,実際にはそんなことない,ですよね? たぶん。。。だとしたら,「そもそも仕事は面白いもの,とは,とらえられない人」にとっては,仕事をする中で直面するさまざまな出来事,事象は,面白くもなんともない,非常に面倒くさい,つまらないものなのかもしれない,と思うのですが,どうなんでしょうか?

 

 恐らく,リーダーになれる人,というのは,少なくとも仕事に対して,何らかの面白さを見出した人,と言えるのではないか,と思うのです。その仕事そのものが面白いとか,仕事を通じて得られた何かが面白いとか。そんなリーダーが,そうでない人たちだけで構成されるチームのリーダーになった場合,どうしたらよいものなのか? 

 

 やっぱり,仕事自体の面白さを語ったり,仕事を通じて面白さを経験させることが,最初の一歩になるように思う。それを飛ばして仕事の何らかを語っても,四則演算ができない子どもに会計の話をするようなものなのかもしれない。ちんぷんかんぷん,なのですから,仕事に面白味を感じるどころか,仕事嫌いを助長するようなもの?

 

 物事には順序があるように思います。それは,シナリオとか,ストーリーと言い換えてもよいのではないか,と思います。そして,「誰が相手なのか次第」で,シナリオやストーリーの面白さは影響を受ける。すると,シナリオ,ストーリーが持つべき論理って,「誰が相手なのか」を出発点にすることが,何より必要なことだとは思う。

 

 でもねえ・・・,と一方で思います。だって,義務教育でも慈善事業でもなく,ビジネスですからねえ・・・。私が今,考えていることって,こんなこと,なんですよね・・・(苦笑)


20220925

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第5回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)能力を高める②

 Rangeなど。

 成功と言い訳とは両立しない。今の自分を超えることを目指すこと,その行動をすることが必要だ。そこでポイントとなるのは,コア・パーパス,バリュー,MTP(劇的なインパクトをもたらす目的),OKR(目的達成のキーとなる成果)で構成されるビジョンをつくることになる。このとき,ゴールの50%は,50%の確率で失敗するものを選ぶことがポイント。成功するものだけをゴールとしていては,今の自分の再現にしかならないからだ。そのために,睡眠・感謝の時間・運動・食事・学習の最適化が必要だ。1つの方法として,パーフェクトな1日を想像する方法がある。

 今の自分を超えるとは,能力を高めるということでもある。そのためには,1つひとつ自分で考えることが有効だ。それをくり返すことで,原理原則を知れば,判断が格段に向上する一方で,自分の考えの背景にある価値観に気づける部分もある。たとえば恥は現実と価値観とのギャップととらえられるが,そこには恥と考えるルーツが存在する。つまり,そのルーツが価値観に相当する。このように考えると,恥を共有できるコミュニティこそが共通の価値観を持つコミュニティであり,それがコミュニティに醸成されるカルチャーというものなのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 自分の価値観に気づくには?

 

「成功と言い訳とは両立しない」という言葉,確かにそうだな,と思います。では,「成功って何なんだろう? 成功している状態って,どんな状態?」と考えたとき,「それは人それぞれ」になってしまうのかな,とも思うわけです。

 

 一方で,成功に対するイメージは,ある程度共通している部分があるのも事実。それが恐らくは文化,カルチャーと呼ばれるものなのだろうと思います。そして,「それを実現するためにどんな行動をするのか? その実現を目指すときに,とってはならない行動,選択しない行動は何か?」を,切り分けている基準が価値観なのではないか? 

 今回のパートを読んでいて,私はこのように整理しました。

 

 この整理が適切なのかどうかはわかりません。が,私の中ではかなりスッキリしたところがある。それぞれを相対的に位置づけると,それなりの整理ができそうだ,と気づけたから。価値観とか文化とかって,目に見えるものではないし,とらえにくいものだと思います。言葉にすると,何だか逃げていってしまうようにも感じられる部分もあるけれど,道具を使うことで,何らかのスッキリ感を得られるる・・・。 

 

 こういうことが,考えるということなのかもしれませんし,そこで得られることが原理原則なのかな,とも思います。「相対的に位置づける」あるいは「比較する」ということを,自分なりに使って思考した結果,自分の理解を整理する道具となることを実感した。だから,これは原理原則として使えるだろうと思える。

 

 今回のパートでは,実はもう1つ,私がやってみようと思ったことがあります。それは,「パーフェクトな1日を考える」こと。そして,パーフェクトな1日があるから,それと比較したときに,日々の1日1日を評価できる。想像するだけでツラそうですが(苦笑),そこで冒頭の言葉に戻ってくるように思います。「成功と言い訳とは両立しない」。身につまされるおもいです・・・(;’∀’)


20220918

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第4回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)能力を高める①

 Rangeなど。

 能力を最大化させる方法として,特化の風潮がある。確かに一部の天才に,その傾向はみられるが,そうでない天才も多い。たとえばスポーツでは,テニスのフェデラーはさまざまな分野のスポーツを経験した。つまり,さまざまな能力を身につけた後,「これだ」というものに出会い,のめり込んでいくのだ。同様に,経験が専門的な能力に直結するか否かは,その分野に大きく依存する。同じパターンが現れるような親切な学習環境と,パターンがあいまいだったり,フィードバックが遅かったりといった意地悪な学習環境もあるのだ。だから,2つの領域に,常に身を置くことが大切なのだ。それは,たとえば平日は現在進行中のPJの研究にひたったら,土日は興味のおもむくままに研究してみる,といったようなやり方が,イノベーションにつながる可能性を高めるように。

 毎日高いパフォーマンスを保とうとしたら,呼吸の深さが重要。たとえば,起きようと思っても,思うように体が動いてくれないような頭と体のズレが生じているときは,そのズレがなくなるまで深呼吸をくり返すのがポイントだ。また,シャワー後に冷水を浴びるなど刺激を与えると,自分をコンフォートゾーンから抜け出させる。パフォーマンスの発揮に,血流は非常に大きな影響を与えるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 あえて立ち止まって考える

 

 「天才には2つのパターンがある。1つは,それに特化して才能を発揮しているタイプ。ただ,実はそのタイプよりも,幅広くさまざまなことをやってみた上で,その中から,ある1つの領域を選び,特化していったタイプ」という話題について,みなさんは 「え? そうなの?」と「そりゃ,そうなんじゃない?」の,いずれで受け止めますか? あるいは,どちらの思いの方が強いものですか?

 

 私は,この主張自体は知らないことだったのですが,「そりゃ,そうなんじゃない?」という受け止め方をしています。その1つの理由は経験的なものなのですが,もう1つは,統計的に見たときにそう思うのです。

 

 先日,ある天才と言えるような方を育てたという保護者の方が,「私はこうやって育てた」ということを語られていたのをTVで見ました。非常に興味深く,勉強になる内容ではあったのですが,それは誰かの体験談ですから,あくまで一例としてとらえた方が良いと思うわけです。だって,誰かの体験談は,誰かの体験談なのであって,万人に当てはまるわけではないのですから。

それは,言い換えると分布でとらえて考えている,ということでもあると思います。

 

 分布でとらえて考えてみると,天才とは外れ値にあたるような人たちと言えるのかもしれませんが,天才と呼ばれるような人たちだけに絞れば,そこは正規分布に近いような分布になっているだろう,と想像できる。そして,その分布は「一般と,基本的には変わらない」という仮説を立ててみる。すると,「どうなのだろうか?」と考えることができる。

 

 私は統計を使うことを教える立場であったりもするのですが,統計を使うって,こういうことではないかなと思いますし,言い換えれば,知識を使うってそういうことではないか,と思うのです。そして,人には多かれ少なかれ,知識として得ているものはあるわけですから,その知識を使うことである程度のことは考えられるし,それを使って一定程度の判断をすることができるのではないか,と思うわけです。

 

 今の状況下でできることを考える,というのも,そういうことなのではないかな,と。

 

 すると,普段なら瞬間的に判断していることを,立ち止まって考えてみる,というのは,非常に有益な方法のように思うのです。結論は同じなのかもしれないけれど,自分の知識を錆びつかせないためにもあえて使う。これって,ものすごく大切なことのように思います。


20220904

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第3回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)自分を動かす①

 Can’t Hurt Meなど。

 自分の全力は,40%程度しか発揮されていない。脳が限界を設定し,妥協をしているのだ。だから,その脳の支配を少しずつ取り除けば,限界を超えられる。そのためには,小さな無理をくり返すことなのだ。変わるためなら何でもやる。それをしたとき,羨望の眼差しが向けられる。そして,圧倒的な結果を出すことになるのだ。

 誰でも怖い。ただそれは,未知のものに直面したときの,一時的な感情に過ぎない。それらを自分の宿題とし,行動できるか。「やりたくない,面倒」といったときにとる態度も,同じことだ。そして,何より,事実と想像とを分けることが重要なのだ。そして,恐れているのだからこそ,徹底的に調べる,時間をかけて立ち向かう,そのことについて考え続け,より良くのためにアドバイスを求める。自分が理想とするアバターになり切って過ごすことも,ひとつの方法だ。逆に言えば,理想とするアバターを徹底的に作り上げることも1つの対策となり得る,ということなのだ

 

 

<ひと言コメント>

 「いつもと違う」に対する接し方

 

 日々の仕事は,「いつもと同じような業務」であることもあれば,いつもとは違う業務である場合もあるわけです。では,どちらが怖いものなのか? 多くの場合,いつもとは違う業務の方が,怖いものなのではないか,と思うのです。「怖い」という言葉を使うイメージしにくいかもしれません。むしろ,新鮮と言うか・・・。

 

 いつもと違う,というのは,言い方を変えれば刺激なのだと思います。それは,適度なものであれば,新たな気づきを得られる機会になるけれど,過度なものになれば大きな緊張をもたらす。もしくは,ストレスという言い方もできるのかもしれません。ストレスにはマイナスの側面もあるけれど,プラスの側面もある。要は,それらの刺激を自分はどう受け止めるのか,ということなのだと思いますし,それらの刺激に対してどれだけの備えができているのか,ということでもあるのだと思うのです。

 

 備えについては,さまざまなアプローチがあるのだと思います。何度もくり返し練習するというのも1つの備えのあり方でしょうし,今回取り上げているような「アバターになりきる=俳優となって,役を演じ切る」というのも1つの備えのあり方なのだと思うわけです。ただこのような態度は,「何か,自ら解決に向けた行動をする」という態度だと思います。

 

 一方で,「他のことを考えて,そのことを忘れる(忘れたふりをする)」というのも,1つの備えのあり方なのかもしれません。

 

 良い悪いではないのだと思います。ただ,その態度は何か真逆の態度であるように思う。それは価値観の違いなのかもしれない。そして,その価値観をお互いに共有できない,あるいは,その価値観をお互いが認められないとしたら,一時は別として,共に何かをやり続けることはできないのかな? と思うのです。

 

 だから,1つの事象について,しっかりと確認し合う時間をつくること。たったそれだけのことが,先に進んだ時に大きな差異を生むものなのかな,と思うわけです。


20220828

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第2回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)習慣を変える②

 Atomic Hbitsなど。

 習慣は,「何を」ではなく,「どのように続けていくか」がポイントだ。そのためにも,問題の段階(きっかけ+欲求)と解決の段階(反応+結果得られる報酬)とに分ける。すると,自分が悪い習慣と思うことは,その習慣のきっかけを与えない,つまらないものにする,難しくする,満足できないものにする,といった,対策を検討できることになるし,習慣化したいものは,その逆から対策を検討すればよいことになる。

 人の判断や行動の4割は習慣だ。その4割の習慣について意識することで,ナゼそれが習慣化したのか,あるいは,あえて違う選択をすることなどによりリニューアルすることで,習慣化のリアリティを知ることができる。

 すると,自分の行動を観察することが,極めて重要であることがわかる。その洗い出しの際には,箇条書き,短文化し,その行動のきっかけとなったことを探ること,そして,毎日1ミリでも改善することで,自分の癒しとなるのだ。

 同様にとらえれば,不安についても,そのきっかけを探ることが,その解消につながるのだ。人間は,たとえば不安が減るという報酬を得られるように,不安からも報酬を得ているという認識を得ることで,不安も習慣であることを理解できる。

 本当に必要なものに時間を使うには,自分の限界を受け入れ,何をしないかを決め,また,集中を妨げるスマホなどを遠ざけることが有効だ。

 

 

<ひと言コメント>

 同じ言葉に対する「観」の違い

 

 日本は「自由と平等とを,国民の共通の価値観としている」とされています。が,自由に対する私たちのイメージとは,どういうものなのでしょう? 

 

 公益財団法人のNIRA総合研究開発機構が実施した調査によれば,「平等よりも自由を選ぶ回答者の方が圧倒的に多いことが明らかになった」とのこと。一方で,こうも指摘しています。「このことをもって直ちに<日本人は平等より,自由を重視している>と結論づけることには慎重である必要がある」と(次のWEBサイトで,その意味も含め解説がされていますので,関心があるようでしたら・・・ https://nira.or.jp/paper/opinion-paper/2022/62.html)。

 

 ここで考えたいのは,ナゼ,公益財団が,「<自由か平等か>というような問いを,調査テーマとしたのか?」ということ。何らかの思惑がない限り,このような問いを立てたりはしないと思うわけです。すると,「そもそもナゼ,<自由か平等か>という問いが成立するのか?」ということ自体を,考えざるをえないわけです。

 

 そこには,「自由と平等とは,両立しないものである」という暗黙の価値観があるのだろう,と考えられます。そして,その価値観は,多くの日本人が持つ「自由<観>」と「平等<観>」と,合致しているものなのだろうか? ということも,考える必要がありそうです。

 

 別に定義にこだわりたいわけではありません。ただ,いわゆるアメリカ的,と言いますか,リバタリアン的な「自由<観>」と,日本的な「自由<観>」とには,大きな差異があるのではないのか? と思うわけです。エマニュエル・トッド氏の主張ではないですが,日本の家族構造と,アングロ・サクソン国家であるアメリカのそれとでは,そのとらえ方の根本が異なる。もっと踏み込んだ言い方をすれば,「日本には,そもそも自由にあたる概念は存在しておらず,輸入された概念なのではないか?」というようにとらえることもできそうです。そして,改めて思うわけです。日本的な「自由<観>」とは一体どのようなものなのか?

 

 私たちは当たり前に自由,あるいは,平等という言葉を使っています。しかし,同じ言葉であっても,誰もが同じようにとらえているとは限らないわけです。ただ,そのとらえ方が異なるのだとしたら,枝葉まだたどり着いたころには大きな差異が生じる可能性がある。逆に言えば,枝葉の議論をする前に全体の文脈をとらえていた方が,無用な議論を生まずに済ませられる。逆に言えば,枝葉で混乱が見られるのだとしたら,大元,あるいは全体像に一旦戻ってみた方が,実は早く解決につながるのではないか,とも思います。

 

 もし,雑多な議論が多いということであれば,大元,全体像を疑ってみた方がよいかもしれない。こんな知恵を頭の片隅に持っておくだけでも,混乱状態から抜け出しやすくなるのではないだろうか,と私は思います。 


20220821

「逆襲のビジネス教室」 池田 貴将 著 ~第1回~

 

<概要>

 アメリカという「自由な環境」で戦うビジネスパーソンが学んでいる新しい考え方。ビジネスの発想・方法・哲学のヒントとしての「ニューヨーク・タイムズ」で取り上げられたベストセラービジネス書50冊のサマリ

 

1)習慣を変える①

 The Art of Impossibleなど。

 自分の限界を超えるカギは,「フロー=没頭状態」にある。その状態を作り出すには,大量の情報を一気に詰め込むことで負荷をかけ,その状態から解放,自由になり,フローになることを妨げる中断・否定的な思考・エネルギーの不足・スキルとメンタルの準備不足という4つの要因を排除する,という手順を踏む必要がある。

 仕事のストレスから自分を守るには,そのタスクが本当に必要なものなのかを問い,1日の終わりにはそれを内省する。そのためには,静かな場所と時間を確保することが必要だ。

 努力感なく成果を出す人は,本当に取り組む価値のあることならば,「もっと楽にできる方法があるはずだ」と考える一方で,疲れ果てる人は,「その価値に相応しい努力が必要だ」と考える。脳というものの特性を利用し,「きっと余裕だ」から始め,「必ずできることにブレイクダウンしてから,それを死んでもやる」ことで,瞬間的な突風状態で一気にやり切ることだ。そして,くり返すことは,習慣の状態」にすべく「予約する」ことで,「努力なくできる状態」をつくるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 些末な事を使ったトレーニング

 

 今回取り上げる本書は,本の要約書,と言いますか,本のご紹介書,のような位置づけになります。時々,こういうものを取り上げるのには理由があります。それは,「これだけ変化が激しく,情報量も多い世の中で,情報を拾いきれるものではない」ということ。

 

 情報,つまり知識・スキルはインプットすれば使えるようになるわけではなく,自ら使ってみる,やってみる,アウトプットをするから,実際に使えるようになっていくわけです。使えるようになるには,それなりの時間がかかる。だから,使えるようになるための時間をなるべく確保したい,確保してほしい。その意味で,「ざっくりはこういうことである」ということを,本格的な学びの前に共有することは,非常に大切だと思うわけです。

 

 本書が取り上げる50冊について,たとえば1冊目に出てくるThe Art of Impossibleは,「フロー」という言葉を使っているという意味では新しいのかもしれませんが,主張されていることは,ジェームス・W・ヤング氏の「アイデアのつくり方」と同じだと感じます。つまり,「アイデアのつくり方」をしっかりと読んだ人であれば,これを読む必要はないだろう,と思うわけです。それよりは,実際にやってみることに時間を使った方がよい。

 

 やってみることで得られるリアリティは,やってみた人の血となり骨となる。これは,単に目に見える行動だけではなく,思考という活動でも同じではないか,と思います。得られた情報を利用して思考する。すると,同じ情報からでも,得られるものが異なることがわかる。そうやって,コミュニケーションの密度が上がっていく。得られる情報の質と量が変わるから,情報を受け取った側は,それに見合った検討や,それに対する行動を行うことになる。

 

 一方で私たちは,さまざまな言動や行動によって,意識しているかしていないかに関わらず,何らかのメッセージを発信している。「それが意図通りに伝わるよう,さまざまな言動や行動を見直す」。事が重大であるものほど,こういった見直しが大切なのでしょうし,重大な事で,不用意な誤解を生まないためには,ある意味では些末なことでトレーニングをしておくことが大切になるのではないか,と思ったりもするのです。いきなり本番,は,誰にとっても難しいと思いますから・・・

 


20220814

「第三次世界大戦はもう始まっている」

 エマニュエル・トッド 著 ~最終回~

 

<概要>

 2022年3月時点で「冷酷な歴史家」の視点からとらえた,歴史的転換点としてのロシアによるウクライナ侵攻

 

1)第1次世界大戦に似ている

 ロシアのウクライナ侵攻によって起きている状況は,第2次世界大戦よりも,第1次世界大戦に似ている。多くの人が予想していたような電撃戦ではなく,「長期戦」となってきているからだ。逆に言えば,予想外のことが起きている,ということでもある。

 長期戦になることによる被害者は,ウクライナに住む人々である。戦争は長期戦になるほど,一般人の被害が大きくなる。そして,今回それを実現しているのは,アメリカによるウクライナへの兵器供与という事実だ。それは,ウクライナ人という人間の盾を使った戦争をしているということであり,ウクライナの破壊ということでもある。

 すると,この戦争が終わったとき,ウクライナ人がどう感じるか? が予想できることになる。それは,アメリカに対する憎悪であるはずなのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 日本の存在意義って?

 

 私には,これまで以上に気になっている国があります。

 

 その国に対して,少年時代の私は,ある種の憧れを抱いていました。特に,音楽を始めた影響は,この国の影響が大きい。それぐらい,当時のこの国の音楽にきらびやかな何かを感じていたし,それは結果,その国に対するイメージとして植えつけられた部分がある。プラスのイメージを植え付けられるだけの何かを,その国は持っていたと思うわけです。

 

 もちろん,その国に対して,マイナスのイメージもありました。第2次世界大戦で彼らがやったことは,とんでもないこと,であることは,頭でわかっていた。ただ,それに対するリアリティを,少年時代の私は持ち合わせていなかったのだとも思います。だからこそ,憧れることができたのだろうとも思いますし,当時の大日本帝国という国に対するある種の嫌悪感が,彼らがやらかしたことを正当化している部分もあったのかもしれません。

 

 既にお気づきか,と思いますが,私がこれまで以上に気になっている国。それは,アメリカです。ただ,これまで以上に気になっているのは,少なくともプラスの側面に対してではありません。むしろ,マイナスの側面に対して,です。

 

 私の少年時代でさえも,アメリカは大いなる矛盾を抱える国でした。けれど,その矛盾は,「より良い」を目指そうとしているからこそ生じている矛盾なのであって,挑戦しているからこそ生じる矛盾ととらえていた部分があります。「こういう自分たちでありたい,でも,今はそうではない,だからチャレンジしている」という態度が生んでいる結果に過ぎないのではないか,と思っていたわけです。

 

 そうは見られなくなっている自分がいることに,かなり以前から気づいてはいたのは事実です。ただ,その度合いは年々強くなっている。

 

 そして,思うわけです。「じゃあ,日本って,どうしたいの?」と。

 

 「アメリカと同じ価値観を共有している」とは,政治家からよく聞かれる発言ですが,「それを,自分たちなりの言葉で語ろうよ」,と。実際,それを自分たちなりの言葉にしたとき,「同じ価値観って何のこと?」 

 

 ヒントになるのは,「パーパス経営」だ,と,私は思います。これを政治にも持ち込めばいいではないか? 目指す姿ではなくって,パーパス,存在意義です。日本のパーパスって,何なんだろうか?

 

 すると,仮に同じ価値観を共有していようがいまいが,独自のものになるわけです。自国の存在意義なんだから。すると,憲法論議について,9条から入るのではなくて,結果9条を考えることになる。まあ,明らかにしてはいけないことなのかもしれませんが・・・。


20220807

「第三次世界大戦はもう始まっている」

 エマニュエル・トッド 著 ~第3回~

 

<概要>

 2022年3月時点で「冷酷な歴史家」の視点からとらえた,歴史的転換点としてのロシアによるウクライナ侵攻

 

1)日本が取るべき態度

 「日本はどうすべきか?」と言えば,長期的に見たときの国益を最優先にすべき,と言える。そもそも西洋は,世界の一部でしかない。西側に追い込まれたことによってロシアと中国が接近することこそが日本にとっての悪夢だ。この危機が去った後も,地政学的に日本は中国とロシアの近隣国であり続ける。また,米国の核の傘下が幻想にすぎないことは,ウクライナ問題における米国の態度でも明らかなのだから,取るべき態度は自ずと導かれるのだ。

 

2)米国という国と,起きていること

 米国はGDPこそ世界1位ではあるが,それは実態を示してはいない。GDPは,モノであれば,社会の生産力を忠実に再現する一方で,サービスは現実から乖離した過大評価が往々にしてなされる。それは米国の訴訟の多さとその莫大な訴訟費用を考えれば明らかで,リアルな生産力を持たない国なのだ。

 このような米国の,社会としての衰退とロシア嫌いは,東西対立の終焉を旧ソ連の一方的な敗北ではなく,米国のシステムも内部崩壊していた,ととらえることで説明できる可能性がある。

 米国は第2次世界大戦後,自由に万人の平等という価値を加えようとした。つまり,一方は自由と非平等に基づく,もう一方は権威と平等に基づく,という2つのシステムを,対外関係を利用して内包させるということだ。つまり,旧ソ連の崩壊で,米国のシステムの理論的限界を超えてしまい,結果,内部崩壊が起きている,ととらえることができるのではないか,ということだ。

 

 

<ひと言コメント>

 相対的であることで成り立つしくみ

 

 私たちは,「比較」をすることで,物事を判断できる部分があります。たとえば,あの時代に比べれば,あの場所に比べれば,あの人に比べれれば,あの物に比べれば,あの目的に比べれば,あの方法に比べれば,「こちらの方が良い」という判断をしている部分がある。たとえば,日本製のものが優れている,美味しい,といった評価ができるのは,比較をするからだ,ということです。

ただ,単に比較だけでものごとを理解しようとするのは問題があるということを,著者は示している部分があると思います。

 

 たとえば,先日発表された,世界のジェンダー・ギャップ指数について,その結果日本は,先進国では最低の116位という結果でしたが,この結果をどう理解するのが良さそうなのか? もちろん,男女の不平等があるのは現実だと思うわけですが,その結果に大きく影響したのは,政治分野と経済分野における女性参画の低さだったわけです。ではその点について,どれだけの日本人が問題ととらえているものなのか? 私は「そこで生きる日本の人々の意見」を知りたいと思うのです。他国との比較ではなくて。

 

 同じくジェンダー・ギャップ指数を例にすると,解釈のスキルの問題もあると思います。「男女間の不平等があるから,ジェンダー・ギャップ指数の値としてあらわれている」という因果関係にあるのか,第3の変数の存在,つまり,「他の要因が,ジェンダー・ギャップ指数を測定する要素に影響を与えている」ととらえられるのか,という問題です。たとえば,税制や社会保障制度に見られる扶養制度などが,政治分野と経済分野における女性参画の低さに影響している,というとらえ方をすれば,「それは男女間の不平等の問題なのか?」ということになるわけです。

 

 比較で理解できることもある。一方で,単に比較で理解すべきではないこともある。改めて言うことのほどではないのですが,やっぱり大切なのは,「私たちはどうしたいのか?」ということだと思うわけです。


20220724

「第三次世界大戦はもう始まっている」

 エマニュエル・トッド 著 ~第2回~

 

<概要>

 2022年3月時点で「冷酷な歴史家」の視点からとらえた,歴史的転換点としてのロシアによるウクライナ侵攻

 

1)世界は既に第3次世界大戦下にある

 ロシアによるウクライナ侵攻に始まる「起きた事態」に皆が驚いている,というのが現状だ。

 ウクライナは,この事態に際し,米英がより積極的に守ってくれると思っていたはず。しかし,ウクライナ人を「人間の盾」に利用し,実質的にロシアと戦争をしているこの状況は,長期的には反米感情を引き起こす可能性がある。

 ロシアにとっても,エネルギー資源をロシアに依存するヨーロッパが,ここまで強硬に出るとは思っていなかったはずだ。だが最大の誤算は,ウクライナ社会のロシアへの抵抗力の大きさだったはずだ。実際上,国家として破たんしているウクライナに侵攻,ロシア的なイデオロギーで建て直しを図ろうとしたら,反ロシアでウクライナ社会を方向づける結果となってしまった,ということだ。

 西欧,特に独・仏は,「まだ交渉可能だ」と最後まで考えていた。ウクライナのNATO加盟が,ロシアにとってどれほどの脅威なのか,理解できておらず,また,米英によるウクライナ軍の武装化の度合いを認識できていなかったからだと考えられる。

 米国は,ロシアが米国主導の国際秩序に正面から歯向かうとは思っていなかったはずだ。だが,戦争状態に突入した以上,米国は関与し続けざるを得ない。ロシアに負けることは,米国主導の国際秩序の崩壊を意味するからだ。結局米国は,世界のあらゆる地域を戦場に変えている。それが米国という国の態度であり,最も予測不能な国ともとらえられるのだ。

 一方中国は,ロシアを支援するはずだ。もし,ロシアが倒されれば,次に狙われるのは中国だからだ。

 このように見てくると,あらゆる意味で,世界は第3次世界大戦に突入してしまっている,ととらえられるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 リアルなトレーニング

 

 世界は第3次世界大戦に突入しているのでしょうか? エマニュエル・トッド氏は,「突入している」との立場を取っていることが明確だと考えられるわけですが,氏の主張をどう受け止めるか?

 

 仮に,氏の主張に何らかでも「対論(反論という言葉を使いたくないので・・・)」を示せないのだとしたら,それを受け入れるか,あるいは,判断を保留するしかないわけです。少なくとも氏は,その根拠を,自身の専門の視点から分析,提示しています。そして,多くの国の立場,視点,受け止め方を考察しているわけですから。そして,「対論」を示す,もしくは,判断を保留するからには,同程度の根拠,もしくは,その仮説を示す必要があるわけですが・・・。

 

 「論理的に考えるとは,どういうことなのか?」を,氏は示してくれていると,私は感じます。だからこそ,大いに学べる部分があるとも思うわけです。こう言ってしまうのは憚られる部分があるのですが,少なくとも,地理的にそれほど近い地域で起こっていることではないこと,ではありつつ,それでも物価上昇等の影響が出ている事実についてだからこそ,冷静に検討できる部分もあるし,真剣にとらえることもできる,と思うのです。さらに言えば,日本を取り巻く環境を考えれば,決して他人事では済まされない問題でもある。

 

 こういったリアルな問題は,トレーニングとしては最適なものの1つだ,と,私は思っています。そして,こういったリアルな問題について真剣に考えるからこそ,多くのことを学ぶことができる。

 

 感情的な部分を言ってしまえば,とてもとても,そんな風にはとらえられないわけですが,それでも真剣に向き合うことで,「いつかその時」にも,冷静に判断できるのではないか,とも思うのですが・・・。


20220724

「第三次世界大戦はもう始まっている」

 エマニュエル・トッド 著 ~第1回~

 

<概要>

 2022年3月時点で「冷酷な歴史家」の視点からとらえた,歴史的転換点としてのロシアによるウクライナ侵攻

 

1)この戦争の責任は,NATOとアメリカにある

 ロシアのウクライナ侵攻について,西欧諸国は皆,感情に流されている一方で,アメリカでは地政学的・戦略的に議論されている。その中で,ミアシャイマー氏は「この戦争の責任は,プーチンやロシアにあるのではなく,アメリカとNATOにある」と,結論づけている。

 その理由は,「ウクライナが形式的にNATOに加盟しているか,ではなく,実質的にNATO加盟国であったこと。そして,NATOが自国の国境まで拡大していることは,ロシアにとっては死活問題である,ということを,ロシアはくり返し強調してきたという事実にある」という点だが,その主張は明快であり,筆者も同じ立場にある。

 実際ウクライナは,米英により武装化され,事実上NATOに組み入れられている。ウクライナの武装化による脅威が手遅れになる前に破壊すること。これが,ロシアのウクライナ侵攻の目的だ。

 そしてこの状況は,融和的態度でヒトラーの暴走を許したミュンヘン会談になぞらえるより,ソ連が地政学的にアメリカの裏庭とも取れるキューバに核ミサイルを配備しようとしたキューバ危機になぞらえる方が適切と言えるだろう。

 ロシアは,人類史上最も強固な全体主義体制を自らの手で打倒し,東欧の衛星国の独立を受け入れ,ソ連解体さえも受け入れた。また,ウクライナとベラルーシの分裂も受け入れた。ウクライナとベラルーシは,旧ソ連以前,独立した国家であったことはない。つまり,ソ連時代に人工的に作られた国境が,そのまま尊重されることになったのだ。ロシアはそこまでして,西側との共存を目指したのに,裏切られた,ということなのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 どのように1つの事象をとらえるか?

 

 私たちは「適切な判断をしたい」と願うものだと思います。だから,客観的に,物事をとらえられるようになることを願っているし,そうであることを目指して工夫もしているわけです。そして,そんな工夫の1つは,知恵を使うということでしょう。

 

 たとえば,1つの事象であっても,そのとらえ方はさまざまであることを,私たちは知っています。一方で,その事象が衝撃的なものであればあるほど,感情に揺さぶられやすいことも私たちは知っている。そのような「知っていること」も勘案して,客観的に,物事の良し悪しを判断しようとしているのだと思います。

 

 けれど,言うは易く行うは難し,でして・・・。

 だから,他者の知恵もお借りした方が良いのだろうと思うわけです。それが今回,エマニュエル・トッド氏の著書を取り上げようと思った大きな理由でもあります。

 

 適切な判断をしようとするとき,私たちがやろうとすることの1つは,情報を集めることだと思います。そして,それらの情報は,可能な限り1次情報である方が,バイアスがかからない,という意味で適切です。けれど,ここで忘れてはならないことがある。それは,仮に1次情報であったとしても,それ自体が切り取られたものである以上,既にバイアスがかかっているものだ,ということです。

 つい最近,JRの駅員が,線路に財布を落とし,緊急停止ボタンを押したという乗客に対し,かなり激しい口調でその乗客に接していたことが話題になりましたが,その接し方だけを見たら,「おいおい」という部分はあるわけです。でも,前後の経緯やら踏まえたら,逆に「おいおい」となる部分がある。つまり,ピンポイントの一部を切り取って,その事象についてとらえようとすること自体に限界があるのだろうと思うわけです。

 

 筆者は,今回のロシアのウクライナ侵攻について,その根本責任はアメリカとNATOにある,と主張しています。その主張は,歴史の流れからとらえたものであり,私は説得力がある,と感じています。もちろん,戦争行為が許されるものではない,と思っていますし,それ自体は忌み嫌っているわけで,だから,直接的に戦争を起こしたロシアに責任がないなんてことは,これっぽっちも思っていません。そうではあっても・・・

 

 私は学んだ方がよい,と思うのです。筆者のような事象のとらえ方,つまり,事象は文脈でとらえた方が,より適切な判断に近づくのではないか,ということを。そうすることで,より適切な判断に近づけるということを。もっとも,このようなとらえ方,文脈でとらえる,という方法でさえ,限界はあるのだと思います。なぜなら,その歴史にしたって,その期間における文脈でしかないから。

 

 他にも,たとえば数字でとらえるということも,より適切な判断に近づくための工夫だと思いますが,これにも限界がある。いずれにしても,それぞれの限界を認めつつ,さまざまな道具を使えるようになっていくこと。私たちがより適切な判断ができるようになるには,そのような努力の積み重ねしかないのかな,と思っています。


20220718

「私はどうして販売外交に成功したか」

 フランク・ベトガー 著 ~最終回~

 

<概要>

 失敗のどん底から販売に成功した著者が,販売の仕事に身を投じた当時,何とかしようと努力してきた事柄・事実

 

1)筆者の実行した教訓

 筆者は,フランクリンの13の教訓を基に,販売で成功する13の教訓に順に取り組んでいった。その13の教訓とは,次のとおりである。以下を毎週1週間注力して実施する。そのために,1枚1枚カードを作り,くり返し見られるようにしておいたのだ。つまり,1年間で4サイクルまわすことで,はじめは難しかったことが,自然とできるようになっていることに気づくのだ。

 

1.情熱 2.秩序(自分の行動の組織化) 3.他人の利害を考える 4.質問 

5.問題の核 6.沈黙 7.誠実(信用に足る行動をする) 

8.自分の事業に関する知識 9.正しい知識と感謝 10.微笑 

11.人の名前と顏を記憶する 12.サービスと将来の見込みのための予想 

13.購買行動を促す

 

 なお,オリジナルのフランクリンの13の教訓とは,次のようなものである

1.節約 2.沈黙 3.秩序 4.決意 5.倹約 6.勤勉 7.誠実 8.正義 9.中庸 10.清潔 11.平静 12.純潔 13.謙遜

 

 

<ひと言コメント>

 ルーチン

 

 この世に生まれたからには,幸せになりたい,幸せな暮らしをしたい,と,多くの方が思っているものでしょう。誰もあえて不幸になりたいなどとは思わないものでしょう。ただ人である以上,また,人が生活をする以上,忙しいときもあれば,余裕のあるときもあるものでしょう。多かれ少なかれ好不調の波はあるものですし,どうも地に足のつかない状況に陥ることはある。

 

 では,必ずしもうまくはいってはいないとき,どうすればよいのか?

 

 もがき苦しむことも,それ自体が,時に将来の糧になる部分はあるのだと思います。だから,そのこと自体をしっかりと受け止めることも大切なのでしょう。それが,将来の活力になる部分もあると思うからですし,同じような場面がやってきたときに,うまくやれる自分になっていれば,幸せに近づくと思うから。

それでも,どうにも苦しいとき,真っ先に必要なのは休養だと思います。

 

 私自身はどうも休むのがヘタ,という自覚があります。休むことに不安を覚える部分がある。けれど,本気で休まないと,越えられるはずの壁を越えられない場合があることも自覚しています。みなさんもありませんか? 体が言うことを聞かない,あるいは,何らかの不調が見つかる,という機会。このところの睡眠ブームなどは,多くの人たちの,そんな苦しさの自覚の表れの一つなのではないのかな?と思ったりもします。最大パワーを発揮し続けることなんて,物理的にできないことは,各種の実験でも証明されていること。だから,それこそ英気を養うことは,とてつもなく重要だろうと思うわけです。

 

 一方で,大きな視点でとらえれば,そんなときでも人生の終わりに向けた歩みは進めているわけです。人生の大きな目的を見失うことはしたくない。

 

 そんなときにできることの1つは,ルーチンなのかな,と私は思います。ルーチンは,スポーツ選手などによく見られる,実際のパフォーマンスの前に行う一連の動作ですが,成功の妨げとなる思考や行動の防止,不安や緊張を和らげ集中力を高める,プレイの確実性を高める,といった効果があるとされています。でも,もし,スポーツでこのような効果が認められるのであれば,スポーツ以外にだって通じるはず。ならば,生活の中にだって,ルーチンを取り入れればよい,ということになる。

 

 本書で筆者が提示しているような行動もルーチンの1つだと思います。まして,それで,少なくとも筆者は成功した,わけですから,やってみて損する話でもないでしょう。

 

 問題は,それを習慣にまで高めるには,それなりの時間がかかる,ということでしょうか。習慣化には,簡単なものでも1カ月近くかかる,との実験結果もあるぐらい。だからこそ,カードに書いて持ち歩く,という筆者の工夫などは,ほんのわずかなことかもしれませんが,大切な工夫なのかもしれないな,と思います。


20220701

「私はどうして販売外交に成功したか」

 フランク・ベトガー 著 ~第4回~

 

<概要>

 失敗のどん底から販売に成功した著者が,販売の仕事に身を投じた当時,何とかしようと努力してきた事柄・事実

 

1)セールスで成功するための具体的な方法

  • 信用を得るには:紹介状など証人を持ち出す,身だしなみを整える(初対面の印象は90%が服装から)
  • 顧客から快く迎えられるには:笑顔,毎朝30分間の機嫌をよく接するためのトレーニング(大袈裟に笑う,テンポの速い楽しい歌を歌う,起きたら床の中で「大いにやる!」と自分に言い聞かせる)
  • 名前を覚える,覚えさせるには:印象・反復・連想,自分の名前の連呼,キャッチコピーとの組み合わせ
  • 相手への配慮:要点がいくつあるのか,先に伝える
  • 商品を売る前に自分を売る:単なる注文取りではなく,よき買い物の相談相手,もしくは,友人になってもよい相手になる
  • 予約を取る:相手に選んでもらう,食事の時間をもらう,移動時間をもらう,余裕を持つ
  • 顧客から忘れられない:新しい顧客は,既存顧客から生まれる

 2)失敗の原因

  • しゃべり過ぎ:相手に話をさせない,考えさせない
  • 小手先のテクニックを使う:面会理由で嘘をつくなど
  • ホームランを狙うのではなく,まずは塁に出る:基礎となるロールプレイをひたすらくり返す
  • 「検討する」で引き下がる:契約書に自署すればよいだけの状態を提示するなどの準備
  • 失敗を失敗で終わらせる:ベーブルースでも三振する,最後に成功すればよい,勇気とは,物事を恐れないことではなく,恐怖心を克服すること

 

 

<ひと言コメント>

 自分が欲しいものを得るには?

 

 「セールスとは何か?」という問いがあったとき,みなさんならどう答えるものなのでしょうか? 辞書的な答えは当然あります。ただ,「それをどうとらえているのか?」を問われたら?

 

 恐らくその答えは人それぞれで,どれも正解なのだと思うのです。それでも私は,自分たちの商品・サービスを通じて,顧客の課題を解決するという価値を提供することであり,その顧客の数を増やすことだというように答えると思います。その結果が,販売数や売上・利益という形で見える形になる。

 

 そこでは,WIN-WINの関係が成立していることになると,私はとらえています。顧客にとっては,顧客の課題を解決できるわけですからWINになるし,セールスする側にとっては,購入してもらえるのだからWINになる。

 

 でもそれって,多くの場合であてはまるものなのではないかな,とも思っています。たとえば友だちづきあい。別に見返りがほしくて友だちづきあいを求めているわけではないとは思いますが,それでも,相互に良い影響を与え合えるから,友だちづきあいというものが成立するのであって,どちらか一方にしかメリットがないのだとしたら,それって長くは続かない。と言うか,密な関係にはならないと思うわけです。先生と生徒,あるいは,先輩と後輩,はたまた,上司と部下のような関係であってもそれは同じで,やっぱり相互に良い影響を与え合うことを目指すものなのではないか,と。

 

 そのようにとらえると,自分にとって良い影響,つまり,自分が得たいものが明確であればあるほど,それに見合ったものが手に入れられる可能性が高まるのではないか,とも思うわけです。それが明確であればあるほど,相手はそれを知ることになるでしょうし,可能な限りそれを与える必要があると感じることになるだろうから。だとしたら,自分が本当に必要としているものをしっかりと描く,そして,それを口に出して言えることが,自分が手に入れたいものを手に入れるための鉄則なのではないか,と思うわけです。

 

 そして,自分が求めるレベルが高ければ高いほど,自分に求められるレベルも高くなることを覚悟する必要がある。そうでなければWIN-WINにならないから。だから,自分ができることをしっかりと確認しておく,できることを増やしておく,できることのレベルを上げておく,ということが必要になる。

 

 自分の欲しいものを得るって,そういうことなのではないのかな,と私は思うのです。そして,だから,自分の欲しいものが明確であればあるほど,その思いは叶うということなのではないのかな,と。そして,だとするならば,無償の愛を与えるのではダメなんじゃないのかな,とも思うのです。それは,その対象となる相手の成長につながらないから・・・。


20220626

「私はどうして販売外交に成功したか」

 フランク・ベトガー 著 ~第3回~

 

<概要>

 失敗のどん底から販売に成功した著者が,販売の仕事に身を投じた当時,何とかしようと努力してきた事柄・事実

 

1)セールスで成功するためのポイント

 「セールスという仕事は,煎じ詰めるとたったひとつの事柄になる。それは<できるだけたくさんの人に面会する>ということだ」

この言葉は,著者が務めた保険会社の社長の言葉であり,深い感銘と,永久に忘れ難い影響を与えた言葉だ。「毎日4,5人に会って,熱心に話を持ちかける。たったそれだけのことで成功できる」

 そこで忘れてはならないのは,記録を取ることだ。そして,その記録を使って分析する。すると,どんな場合に商談が成立し,どんな場合に商談が成立しないのか,が,わかる。だから,計画も立てられる。計画は,半日を費やす程度までしっかりと立てる。商談相手がどんな相手で,その相手にどんなメリットがあるのか,だから,どんな話をするのかまで考えるのだ。そして,計画を立てたなら,それを実行すべく,自分を監督するのだ。

 このような準備をすれば,商談相手と臆することなく話をすることができる。ただ,スピーチの訓練は必要だ。しかし,人は,自分の経験談であれば,30分間でも話せる。そこから始めるのが,1つのポイントだ。

 もう1つは,質問をすることだ。つまり,計画・準備の段階で,質問を考えるのだ。質問をすることで,商談相手が自分の考えを具体化する手助けをする。仮に相手が自分の意見と反対の意見を言うのであれば,そこに質問をフォーカスしていく。説得を試みるより質問する方が,100倍以上も有効なのだ。それは,商談相手が購買決定の要点と思い込んでいる点から,本当に重要な問題に気づかせることにつながるからだ。その意味で,相手の話をしっかりと聞く,聞き上手になることが重要なのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 感情を伴う経験

 

 本書を私が非常に面白いと感じるのは,「仕事というもの,あるいは,営業というものの,起点にあたるもの」と,「自分の臆病さや怠惰な部分など,人間の本質にあたるもの」とを,非常に的確に表現しているからなのではないか,と思うのです。

 

 いわゆる成功体験本や,ビジネス書にあたるものは,ハンドルの遊びにあたる部分をそぎ落としてしまいがち。だから,ものすごく立派と言うか,高貴・高潔と言うか,そう感じられる部分があるように思います。でも,私自身はそんなに立派でもないわけです。さらに言えば,きっと人間って,それほどすごくはないだろうとも思う。

 

 さらに言えば,人間って,一直線に成長していくわけでもない。大きくとらえたら一直線に見えるような場合であっても,上がり下がりがありながら,そして,下がったときに踏ん張るから,結果成長しているように見えるだけだと思うのです。

 

 事の本質にあたるもの,原理・原則にあたるものは必ずある,と私は思います。

 

 「営業とは,できるだけたくさんの人に面会すること」というとらえ方は,極めて重要な原理・原則にあたると思います。実際,AIDMA,AISAS,最近だとSIPSといった消費行動モデル,言い換えると営業ファネルにおける最重要ポイントでもある。けれど,そんなことを知らなくても,「できるだけたくさんの人に面会する」ということなら,「誰もが具体的な目標<数>を設定できる」し,「結果,本当にその目標<数>を達成できたのか」については,記録を取りさえすれば,客観的に評価することもできるし,批判的に見ることもできる。

 

 一方で,そこで気づくことがあるわけです。「そもそも人に面会することが大変なんだ」と。

 

 その事実に気づいたとき,挫けそうになる,嫌になるわけですが,そこで,自分で自分のことを奮い立たせることが必要になるし,さらに気づくのだと思うのです。たまたまの大ホームランを狙うのではなく,地道に,コツコツと,アポイントを取る行動をすることが,結局近道だということに。

 

 そこには圧倒的なリアリティがある,と私は思います。言い換えると,感情を伴う経験がある。そんな感情を伴う経験が,私たちの血肉になっていくのではないかな,と思います。


20220619

「私はどうして販売外交に成功したか」

 フランク・ベトガー 著 ~第2回~

 

<概要>

 失敗のどん底から販売に成功した著者が,販売の仕事に身を投じた当時,何とかしようと努力してきた事柄・事実

 

1)セールスで成功するためのポイント

 著者の体験上,セールスの分野で成功するには,次のような成功のポイントを抽出できる。

  • 面会の約束をすること
  • 面会時の主な論点を整理し,いつでもその論点に立ち戻れるようメモしておくこと
  • 面会にあたって,主な論点めがけてさまざまな想定を行い,準備をすること
  • 準備で洗い出した質問をすることで,面会相手に自分の意見を考えるよう誘導すること
  • 面会相手が驚く,ダイナマイトのようなものを用意し,実際に使うこと
  • それをしなかったときにどうなるのか,といった恐怖心を抱かせること
  • 面会相手の信用を得るために,その相手の購入の助手となり,兄弟を想うかのように接し,競争相手をホメ,自分にしかできない何かを準備,提示すること
  • 面会相手のことを正当に評価すること
  • 必ず商談は成功すると信じること
  • 対談中には,「私や私ども」という言葉を削り,「あなた」という言葉を何度でも使うこと

 

<ひと言コメント>

 想像力を発揮する

 

 今回取り上げている,著者がその体験から得たセールスで成功するためのポイントは,まとめてしまえば至極当たり前のことのように思う方も多いのではないかと思います。では,それをすることによってどんな効果が得られたのか,リアリティと共に感じることができるのか?

 

 たとえば,面会の約束をするということ1つを取ってみても,それが非常に難しく,ツライ部分があるのも事実だと思うのです。そしてその結果,面会の約束をすること自体のハードルの高さに挫けてしまう。そして,それをやらなくなっていってしまう。遠ざけるようになってしまう。。。

 

 それぞれの行動にまつわるリアリティがあると,ツライこと,嫌なことについて,それを自分がやるにしても,あるいはそれをマネジメントするサイドとして関与する立場にあるにしても,その行動を動機づけられることが非常に重要なことだと考えられる。

 そのハードルの高さに挫けそうになったとき,あるいは,実際に挫けてしまったときに勇気づける。仮に今,結果が出ていなくても,「それを続ければ,必ず次のステップに進める」と声をかけたり,「今,それをやっていること,続けられていること自体」をホメたりする,といったように。するべき声がけというものは,そういうものだと思うのですが・・・。

 

 一方で,たまたま商談が成立することはある。そして,偶然の商談成立を経験すると,本来必要となるいくつかのハードルを乗り越えるという努力をすっ飛ばそうとする。そのように動機づけされてしまう。実際に商談成立した経験があるのですから,「それができるはずだ」と思うようになってしまう。 そして,実はそれが適切な方法なのではないか,と考えるようになってしまう。

 

 ムダな努力はしたくないのは,誰もが共通して思うことなのだと思います。それでも,自然の摂理,原理原則にあたるものはある。原理原則から外れたやるべきことの省略は,良い結果をもたらさない,と私は思います。地道な努力って,やっぱり必要なのだと考えていますから。

 

 その意味では,セールスを経験したことがなくても,リアリティとともに想像することはできるのではないか,と思います。

 

 著者が指摘するように,セールスの成功者になるにはいくつかのハードルを乗り越える必要があると思います。同様に,セールス以外でも,努力が必要なこと,仮に嫌でも,行動としてしなければならないことがあるのも事実。そのような体験と重ね合わせることで,一般化して理解できることはたくさんある,私は思いますし,それが本当の意味での想像力なのではないか,と思います。


20220612

「私はどうして販売外交に成功したか」

 フランク・ベトガー 著 ~第1回~

 

<概要>

 失敗のどん底から販売に成功した著者が,販売の仕事に身を投じた当時,何とかしようと努力してきた事柄・事実

 

1)情熱の人になるには,情熱の行動から

 プロ野球選手だったものの,解雇宣告を受けた。理由は「のろまだから」。

 「神経質で人におびえる。大きなプレッシャーに弱く,リラックスしてプレーできない」と伝えたところ,その場で受けた「大いに勇気を出して,その仕事に熱中するようにならなければ,どの職業に就いたって,一生うだつが上がらない」との言葉を,アドバイスと受け止める。

 その後,別のリーグを紹介されたとき,「過去の自分を誰も知らないのだから,のろまと誰からも非難されない」と決心。努めてキビキビとした動作,生き生きとした言葉で張りきると,その熱意あるプレーを認められ,10日後には月給が700%増に。

 だがそれからわずか2年後,大きなケガで,野球を断念せざるを得ない状況に。集金屋としての2年,その後の保険の販売員となった10カ月は失望のどん底に。憂鬱な気分のまま続ける仕事で成果を出せず,「自分はセールスパーソンとして適任ではない」という結論を自分で下してしまった。

 そんなとき,勉強しようと通っていた話し方教室で,カーネギーに自分がスピーチ中にストップされ,こう問われた。

 「自分がしゃべっていることに,自分自身が興味を感じるのか?」,「感じているのなら,ナゼ,熱のこもった話し方をしないんだ? 自分自身が生気と活気を持たずして,どうして聞いている人に興味を感じさせることができるのか?」と。カーネギーは,自分に代わってスピーチを始め,その興奮は椅子を振り上げ,壁に叩きつけ,それを壊すほどだった。

 それを見て,生活を一変させることを決意。初めての飛び込み営業では,いまだかつて,こんなに熱心なセールスマンとは一度も出会ったことがないと思ってもらえるようにしようと行動すると,契約に成功。その日以来,自分の本当のセールスは始まった。「熱意の魔術」が自分の仕事に作用し始めた。

 情熱の行動をすることで,自ずと情熱的になる。今日から30日間,まずは毎朝,床の中で自らの情熱を声に出し,起き上がったら再び声に出す。30日間実行すれば,止めようと思っても止められなくなるはずだ。

 

 

<ひと言コメント>

 圧倒的リアルのおもしろさ

 

 実は私,恥ずかしながらこの本のその存在すら知りませんでした。

 とある企業さん向け研修をお受けするにあたり,前任の方が課題図書としていた本ということでめぐり合いました。実際に読んでみた上で,私自身は,研修の主旨から,これを課題図書にはしなかったのですが,この本自体は「とてもおもしろい」

 

 初版が1964年ですから,この業界の趨勢を考えると古典とも言える域。それでも再版され続けているのですから,名著なのだと思います。が,と言いますか(だから,と言いますか?),書いてあることは至極ごもっとも。特に目新しい,奇をてらったようなものではありません。扱われているネタも古い。でも,「おもしろい」のです。

 

 ではナゼ,「おもしろい」のだろう?

 そこに私は,「圧倒的なリアルがある」と感じたからなのだと思っています。そのリアルは単なる事実だけなのではなく,著者の感情の吐露も含めたもの。それが決して長々と書かれているわけではないのですが,販売員となった当時,著者はまったく自信が持てなかったのだろうということがよくわかるし,「自分にこの仕事は向いていない」と感じていたこともよくわかる。それでも,自分で自分自身を鼓舞したことも,そして恐らくは,必死に努力しただろうこともよくわかる。

 

 それは,多くの人が感じたことのある感情に寄り添うものだから,なのかもしれません。誰だって,気弱になることもあるし,自信が持てない自分でいる時もある。なんだかんだ言い訳をする自分がいる時もあるし,そんな自分を責める自分がいる時もある。まあ,私自身が実際そうだし,そうだったからなのかもしれませんが。

 

 実際,筆者が言っていることは,それほど難しいことではないと,私は思います。別に難しい理論やら,なんやらが出てくるわけではない。ただ,「こうなりたい」という「志(この本では,情熱,という言い方をされていますが)」を持ったなら,本当にやるべきことは限られるのだと思いますし,だからこそ,それを徹底してやればプロになれる,ということだと思うのです。

 

 やるべきことの1つは,間違いなく「自分を自分で動機づける」こと。

 そのために,やることを決めて,徹底してやること。そのために自分のルールをつくる。自分で決めたルールなのだから,それを守る,それを守れる工夫をする,その工夫を考える,しくみにする。うまく行けばそれを続けるし,うまく行かなければ,どうして守れなかったのかを考え,改良する。言葉にしてしまえば至極当然,当たり前。

 

 でも,「人間だもん」なんですよね。

 だから,「仕方ない」,「自信が持てない」,「向いてない」といった感情を持ったこと,その感情を持った自分を,「どうしたんだ?」と,受け止め,「そんな情けない自分じゃないだろ? だって,あれはできたじゃないか!」といったように,自分に問いかけ,自分を鼓舞すること。

 

 それがわかるから,おもしろい,と感じるのかな,と思うのです。

(今回長めにその概要を取っているのは,おもしろさにあたる部分を,取りたかったから。次回以降は,もっとサマライズする予定です)


20220605

「News Diet」 ロルフ・ドベリ 著 ~最終回~

 

<概要>

 速報性のみに価値のあるニュースの悪影響と,より良い生き方としてのニュースダイエット

 

1)本当に役立つ知恵を得る

 短いニュースの悪影響を知っても,「本当にそれをやめて大丈夫なのか」と思う人はいるだろう。その時オススメする方法は,過去10年と対応するニュースという年表を「自分が記憶しているものについてのみ」洗い出し,つくるという方法だ。これをやるとニュースがいかに一過性のものかが理解できる。さらに,その10年での自分に起きた大きな変化を追加,その変化とニュースとの関係を直接,線で結んでみる。自分とニュースとの間に,ほとんど関係がないことがわかるはずだ。

 さらに,10年前,20年前の新聞記事を読んでみる。すると,今日,重要になっているテーマであるほど見過ごされている。さらに,誤った兆候を取り上げ,誤った解釈を加えていることすらあることに気づけるのだ。

 では,時事問題を知れずに,適切な投票行動はできるのか? 住民投票などの場合であれば,対立する複数の意見について,それぞれの主張を自分の意見と同じレベルで,論理的に主張できるレベルまで考える。選挙であれば,まず実績を確認し,公約との関係を,自分のこととして論理的に主張できるレベルまで考える。このような思索が大切なのだ。

 その思索のレベルを上げるためにオススメする方法は,ニュースランチだ。ひとりが15分ずつ,1つのテーマについて話す。評価の基準は,それまで知らなかった真実や重要な何かを聞くことができたかどうか。そうすることで,互いの知恵を深めることができる,ということだ。

 

 

<ひと言コメント>

 「自分たちが,自分たちで,自分たちの首を絞めている」という問題

 

 最近,どうにも気になることがあります。それは,自分たちが,自分たちで,自分たちの首を絞めているのでは? ということ。

 

 たとえば,都心から近い河原でのバーベキューが,これまでの無料から有料・予約制になったとの話題がありました。その理由は,一部の利用客による,ゴミの放置や騒音とのこと。もちろん,多くの利用客は,常識的な対応をしていたのかもしれませんが,「一部の方々」の数が,一定数以上いる状態になってしまったのでしょう。

 

 自らが考え,常識的な行動を取っていれば,別にルール化されることもないわけですし,まして有料化されるようなこともなかったのでは? それを自分たちでやれないからルールを定められ,ルールを守れないから行政による監視コストがかかるようになり,その対応費用が増えていくから,いよいよ有料化もされてしまう。

 

 一部の方の文句は,適切と言ってはなんですが,ごもっともな文句なのだと思います。「そんな行動をしてきたやつらが悪い」と。一方で,有料化した行政機関に対する文句は,的外れと言えるのではないか,と思うのです。そして,こうも思うのです。「じゃあ,どうするの?」。まあ,「それが行政の仕事だろ」という文句も出てきそうですが,「そう,だから,ルール徹底のためにも有料化なんです」

 

 「自分たちが,自分たちで,自分たちの首を絞めている」問題は,他にもたくさんありそうです。本当に大きな問題で言えば,たとえば,食糧問題に安全保障問題,エネルギー問題もそうなのではないか,と私は思います。もっと言えば,労働力の問題なども同様でしょう。

 

 同じように考えれば,「自分が,自分で,自分の首を絞めている」という問題もあるのだと思います。それを探す。それは自分のことなのだから,周囲を巻き込む必要があるものよりは変えやすいはず。そしてそれは,「誰のためでもなく自分のために」が出発点なのですから,それが「自分ファースト」ということなのだと私は思っているわけです。


20220529

「News Diet」 ロルフ・ドベリ 著 ~第6回~

 

<概要>

 速報性のみに価値のあるニュースの悪影響と,より良い生き方としてのニュースダイエット

 

1)短いニュースの悪影響2

 私たちは,自分たちにはどうすることもできないことばかり聞かされると,無力感を抱く。そうして,受け身になっていく。つまり,ニュースを消費することで,そうした問題に絶えず直面することで,受け身になっていくのだ。逆に言えば,自分が影響を及ぼせることにエネルギーを注ぐべきなのだ。

 ニュースはジャーナリストによって書かれるが,世の中一般がそうであるように,ジャーナリストにも良し悪しがある。また,たとえ優秀なジャーナリストであっても,彼らはニュースの大量生産というしくみの中で活動せざるを得ない。結果,充分な勉強がないまま,ニュースを書かざるを得なくなっている。世の中の90%はがらくた,というスタージョンの法則というものがあるが,これは,みんなががらくたを好きだからでもある。私たちが短いニュースを消費しなくなれば,長文の,意味のある記事を書くしくみに変えていける部分もあるのだ。特にネット上の記事は,50%以上がフェイク。ニュースに見える記事の中に,PRやプロパガンダが大量に仕込まれているのだ。

 偽りの同情を芽生えさえ,不安に掻き立てられ,結果,それは行動を抑制し,また一方でテロリズムを助長している部分もある。不安だから,その要素を潰せという思考回路だ。

 長い記事を読むこと。記事を読む前には,そのテーマについて思考し,自分の考えを構築すること。そのためにも,ひと月に一度は大型書店で出来るだけ多くの新刊に目を通すことが有効だ。そうすることで,自分の専門を伸ばしつつ,他の領域の知識も身につけるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 テロリズム的行動の原因

 

 ロシアのウクライナ侵攻や,北朝鮮のミサイル発射に見られる行動の原因はどこにあるのか? どれか1つが原因ということはないのだと思います。けれど,「貧すれば鈍する」,「窮鼠猫を噛む」といった言葉が古くからあることを考えると,そのような行動は,今に限らず見られたのだろうと思います。

 

 そして,そのような行動にたどり着く強い動機の1つは,マズローの5段階欲求説にある低次の欲求が脅かされるときなのではないか,とも思ったりするのですが,どうなんでしょうか。

 

 マズローの5段階欲求説では,低次なものから順に,「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」となるわけですが,ロシアにしても,北朝鮮にしても,どうも高次な欲求と言うよりは,低次な欲求が満たされていないことが,その行動の原因となっているように感じられる。もちろん高次の欲求についても,それが満たされていないという不満はあるでしょうし,表向きは高次の欲求を理由にするかもしれませんが。

 

 ワイドショーネタになるような,常識的には考えられないような事件や犯罪なども,その根っこにあるのは,生理的欲求や安全欲求が満たされないことへの不安であるのかもしれない。ある意味,ロシアや北朝鮮の行動の動機づけと,同じような動機づけがされているのではないか?

 

 仮にそうだとしたら,私たちにできることも多少はあるように思うのです。それは,仲間外れをしない,とか,持てる範囲で心豊かな生活を試みるとか,そういったこと。そういう目で,税金の使い方や,社会保障費の活用の仕方を見てみると,やっぱりおかしい部分が相当あると思いますし,議論すべきはそういうことだろうと思うのです。「他国は消費税にあたる間接税を下げているから,日本も下げろ」とか,「原子力発電は根こそぎ反対」とか,そういった短絡的な主張をすることではなくて・・・。  


20220522

「News Diet」 ロルフ・ドベリ 著 ~第5回~

 

<概要>

 速報性のみに価値のあるニュースの悪影響と,より良い生き方としてのニュースダイエット

 

1)短いニュースの悪影響

 短いニュースは,思考を妨げる。物事を思考するには集中力が必要なのだが,短いニュースは,注意をひきつけるよう,つまり,できるだけ集中を妨げるようにつくられているのだ。このように,情報の豊かさというものは,注意力の貧困を招く側面がある。ニュースサイトは,一度アクセスすると,さまざまなニュースに誘導するよう作られている。これがニュースの問題なのだ。もちろん,意志の力でそれを断ち切ることはできるかもしれない。しかし,意志の力は,筋力のようなもので,それを使うと疲弊する。つまり,より重要なことに意志の力を利用できなくしている,ということなのだ。

 短いニュースは,脳を変化させる。脳は,ある領域が発達すると,それに伴って別の領域を退化させる側面があることが,タクシー運転手の脳の変化から予想されている。これは短いニュースにおいても同様で,複数メディアを同時に消費する頻度の高い人ほど,注意力や倫理的な思考などを司る脳の部位の脳細胞が減少するとの成果が確認されている。つまり,長文などが読めなくなるのだ。

 また,短いニュースは,名声と業績のつながりが破壊されつつある。業績を上げたから名声を得るというような報道がされず,単なる有名が,名声にすり替わっているのだ。このような「虚偽の名声」のたちの悪さは,「フェイクニュース」と同様と言える。短いニュースの大量消費とは,そんな虚偽の名声を煽っていること,そこに加担していることと,ほぼ同義になっている側面もあるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 「少しは考えろ」というようなフィードバックの意味2

 

 前回,「考え,思考が浅い」というフィードバックに対し,それを素直に受け入れられる理由について,モデルの活用という視点から整理しました。

 

 ただもう1つ,大きな理由があります。それは,「モデル自体の選択もさることながら,それらのモデルを使って「洗い出すこと」,つまり,「世の中で起きていること,そこにある情報について,自分が知らないことはたくさんあるし,それをさまざまな人の立場で見たら,それこそどれだけのことが洗い出せるのか,わかったもんじゃない・・・(苦笑)」から。

 

 そうとらえると,「考え,思考が浅い」というフィードバックは,「他のモデルの利用,組み合わせての利用,洗い出すことも含め,もう一度検討してくれ」という要求である,ととらえることができると思うから。

 

 もちろん,検討したって,同じ結論が導かれるだけになるかもしれない。しかし,仮にそうではあっても,少なくとも検討した量は増えるわけですから,導いた結論の確度が少しは上がるのではないか? と考えられる・・・。

 

 私たちは,複雑な世の中で,何らかの決断をして,成果を出そうとしているわけです。より適切な決断をしたいと考えるのは当然だと思います。そうとらえると,「思考の浅さに関するフィードバック」というのは,マイナスイメージを持つようなものでもない,と思うのです。

 

 すると問題になるのは,むしろ時間の制約の方ではないのかな,と私は思っています。「では,どうやって時間をつくるか?」

 

 その1つが,ニュース・ダイエットだ,というのが,著者の主張なのだろう,と思うわけです。そして,ニュース・ダイエットによって,1日90分もの時間を生み出せるのだとしたら・・・。それは本当に貴重な時間になると,私は思います。

 

 すると,「少しは考えろ」というフィードバックは,「考える時間を確保せよ」ということと,とらえることもできそうですし,フィードバックする側になったら,「最低○分,時間を確保せよ。その時間で検討したこと,つまり,何について,どのモデルを使って,検討に関して要素を洗い出したのか? を報告せよ」とした方が,洗い出した要素の過不足を明確になる分,その後が進めやすくなるのかな,なんてことを思ったりするのですが,どうなんでしょう・・・?


20220515

「News Diet」 ロルフ・ドベリ 著 ~第4回~

 

<概要>

 速報性のみに価値のあるニュースの悪影響と,より良い生き方としてのニュースダイエット

 

1)短いニュースの大量消費の害

 ニュースは時間という視点で,大きく3つの害がある。1つは使う時間。1日のうちニュースの消費に使う時間はおよそ60~90分に及ぶ。1年あたりに換算すると,1カ月分にも相当する。他の大事なことに集中する前後の時間も奪い,さらにそのニュースが,注意力を阻害する。時間という貴重な資産を無駄遣いすることになるのだ。「お金のことになると倹約家なのに,時間のこととのなると浪費家になる」とは,古代ローマの哲学者セネカの言葉だ。

 ニュースは理解も妨げる。ほぼすべてのニュースが,複数の出来事の関連を指摘したりしない。物事の理解には,個々の出来事のつながりを把握する必要があるが,それをニュースは行わない。また,読者の大多数は1つを掘り下げた記事よりも,一口サイズのニュースの消費を好む。その嗜好性が利用されているのだ。それは結果,人々を出来事の存在を知っているという点において,自信過剰にする点も問題なのだ。結果,決断の質を明らかに低下させることになる。

 脳は,良いことよりも悪いことに反応する。悪いことの方が重要だと感じやすいのだ。結果,悪いニュースは,個人的な心配事を深刻化させることになる。それが精神的な変調の原因となることもあるのだ。

 ソーシャルメディアは,「見たいものしか見ないこと」を助長する。また私たちは,「取り出しやすい情報を優先」して判断する。結果,自分の短絡的な結論を強化する側面がある。つまり,決断の質の低下を助長させるようなものなのであり,自分の「能力の輪」の外に対して短絡的な意見を大量に生み出すことにもつながっている。ニュースは結果に対する原因を短絡的に結びつける。本来社会は非常に複雑なのに,単純なものとの錯覚に飲み込まれてしまうのだ。短いニュースが提供する理由を受け入れるより,むしろ「反論」に敏感になること,そして,自分で考えをめぐらせることが重要なのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 「少しは考えろ」というようなフィードバックの意味1

 

 「少しは考えろ」,「よく考えて結論を出せ」,「もう少し考えろ」といったフィードバックを,ビジネスパーソンの方々は,一度ぐらいを受けたことがあるのではないか,と私は思うのですが,いかがでしょうか? 要は「考え,思考が浅い」と。

 

 「いやいや,ちゃんと考えましたよ」と,フィードバックを受けた側からすると思うのではないか,と思うのです。もちろん速攻で「ごめんなさい」という場合もあるのでしょうが・・・。そして,私自身も,そんなフィードバックを受けたことがある。そのときは,「考えたよ! (時間の制約はあるのは事実だけど)」と思ったもんです。

 

 一方で,今ふりかえって,思うわけです。「確かに思考が浅い場面はあった(と言うよりは,恐らく,多くの場面で浅かった)」と。そして,今だって,時間の制約があるわけですから,充分思考できているかどうかはわからない。なので,「もう少し考えてほしい」と言われれば,素直に受け入れられる部分があります。

 

 このように認められるようになったのには,いくつかの理由があります。

 

 「思考とは何か?」と問われたら,みなさんは,どのように答えるものなのでしょう? 辞書で「思考」を調べると,このようにあります。「目標に効果的に到達するために,世界をモデル化して,そのモデルを操作する活動」。これで意味が通じるものなのだろうか,と不安に思う部分もありますが,思考,考える,というのは,検討することに非常に近いことはわかると思います。

 

 世界をモデル化する手法の1つとして,たとえばPDCAだとか,3C,4P等々に代表される,ビジネスフレームワークの活用があるわけですが,それらのさまざまなモデルの中には,自分の知らないモデルだってある。知っているモデルに限定したとしても,使えるものもあれば,イマイチなものもあるのだと思います。そして,それを組み合わせれば,それこそ無限に,モデル自体を利用するパターンが生まれることになります。

 

 このようにとらえると,「考え,思考が浅い」というフィードバックは,「もっと多くのモデルを使って,検討せよという指示だ」というように解釈できる部分があるわけです。

 

 「何らかの結論は出したい。けれど,結論を出すに至った情報を,もっと揃えたい」というフィードバックだった,ということ。何だか途端に受け入れやすいもののように,私は感じるのですが,みなさんはどうなんでしょう・・・?


20220508

「News Diet」 ロルフ・ドベリ 著 ~第3回~

 

<概要>

 速報性のみに価値のあるニュースの悪影響と,より良い生き方としてのニュースダイエット

 

1)ニュースは脳の特性が利用されている

 穏やかなニュースダイエットの方法は,紙の新聞を1紙のみ,あるいは,週刊誌1誌のみ読む,という方法だ。ただしその際には,制限時間を設けるのがポイントだ。この実験により,大事な情報を逃すことはないことを身をもって知ることもできる。

 自分にとっての重要事項とメディアにとっての重要事項とは同じではない。本当に重要なものとは,良い決断を下すのに役立つもの。つまり,自分の能力の輪の中にあるものなのだ。だから,まずは自分の能力の輪を見極める必要があるのだ。

 脳は,過激なものに過度に反応する一方で,抽象的であいまい,複雑なもの,自分なりの解釈を加えなければならない情報には反応しにくいという性質がある。メディアはこれを利用している。

 たとえば,「車が橋を渡っていた時,橋が崩落した」とき,メディアの関心は車の状態,車に乗っていた人等々に向けられる。もちろんそれは悲劇的なことではある。しかし,私たちにとって重要なのは橋の方ではないのか? 崩落した橋に関する情報がわかれば,同様の橋を避けるなどして,より多くの死傷者が出ることを防ぐことに利用できることになる。それなのに,メディアが前者に関心を向けるのは,その方が脳への刺激が強いからだ。私たちは重要度の評価を間違えていることが多いということに注意すべきなのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 強い刺激に認知が歪む?

 

 私たちの脳は,極めて優秀です。しかし,脳科学者の方々,あるいは,心理学者の方々が指摘されるように,脳にはサボろうとするクセがあることを,自分自身が感じるときがまま,あります。言い方を変えれば,すべての刺激に対して平等に反応しているわけではないということ。これは,脳が大量のエネルギーを消費するものだから,とか,進化の過程で優位にするものが選択されてきたから,などと言われているようです。

 

 また脳は,同じ見方をしようとする,というクセもあると言われています。それが行き過ぎた状態とも言えるのが,精神病理学で言うところの認知の歪みというものなのでしょう。

 

 このようなことを考えてくると,刺激の強いニュースというものは,脳をどんどん鈍感にさせていくのではないか,と思ったりするのですが,どうなんでしょうか? わずかな変化に鈍感なのは,刺激か強いものを多く浴びているからか(?),目からの刺激にしても,耳からの刺激にしても,鼻からの刺激にしても,味として感じる刺激にしても,どんどん過激になっているから,どんどん鈍感になっていく・・・。これって,感覚器の問題なんじゃなくて(それもあるかも,ですが),脳が過激な刺激に慣れ過ぎたからかも?

 

 うーん・・・もしそうだとすると,繊細さというものが,どんどん求められなくなっていくのだろうか・・・と思ったりしますが・・・。

 

 だからこそ,と言いますか,そうであるなら,と言いますか,自分の根本をどこに持つか,ということか,大切になるのだろうと思いますし,自分の根本としていることをベースに,「少し立ち止まって考えてみる」ことを,意識的に行うことが必要になるのではないか,と思うのです。それが,ブレない自分づくりの1つの方法なのかな,と思うからですし,あまりに鈍感になっていないことに気づく1つの方法なのだろう,と思うから・・・。


20220501

「News Diet」 ロルフ・ドベリ 著 ~第2回~

 

<概要>

 速報性のみに価値のあるニュースの悪影響と,より良い生き方としてのニュースダイエット

 

1)速報性に価値が置かれるニュースを断つ

 筆者はニュース中毒と言えるような状態だった。ニュースに1万時間をも費やした後に気づいたこと,それは「ニュースのおかげで,世界をより理解できるようになり,また,よい決断ができるようになったか」という問いに対する答えが「NO」だったからだ。

 ニュースは新聞という形でわずか350年前に生まれた。それはビジネスとして確立,やがて編集者は,読者の興味を駆り立て,新聞の売上につながるものはすべて「伝える価値のあるもの」とみなすようになったのだ。

 一方で,ニュースの対極にあるものは,長文記事,特集記事,エッセー,ルポルタージュ,ドキュメンタリー,本などのうち,情報の新しさではなく,情報の重要性に重点が置かれているものだ。本は週に1冊は,そして,2度続けて読むこと。その効果は筆者の経験上10倍以上になる。そのための時間をつくるためにも,ニュースを完全に断つのだ。ニュースを完全に断つことで,1日90分の時間が確保できる。

 ニュースダイエットの勝負は,最初の30日間だ。そして,広く学ぶのではなく,深く学ぶ。重要度が高く,自分の「能力の輪」に関わるテーマであることが重要だ。

 

 

<ひと言コメント>

 ニュースの価値って? 

 

 筆者が「断つべき」と主張している「ニュース」とは,「速報性のみに価値がある情報のこと」をさしています。が,そのようなニュースに,1日90分も使っているか? 

 

 ところが,なのですが,確かに相当な時間を使っている,と言えるのかもしれない。

 

 もちろん,ニュースだけでもその程度の時間を使っている,という方もいらっしゃるかもしれません。そして,報道に限定しなければ,つまり,SNSなどを通じて提供されている情報にも,「速報性のみに価値のある情報」が含まれていると考えられる。するとひょっとしたら,90分どころか,それ以上の時間を使っている方も多いのかもしれないな,と思うのです。

 

 ただそもそも,なのですが,速報性のみに価値があるものも含め,ニュースの価値って,何なのでしょう? 

 

 この1週間,多くの時間が割かれているニュース,報道の中心になっているニュースは何か? と振り返ってみると,ウクライナ危機,新型コロナ,観光船の遭難等々・・・あたりではないかな,と思うのですが,それらのニュースにどの程度の価値があるものなのだろうか? 少し疑問に感じる部分もあるのではないか。

 

 一方で,仮にそのようなニュースであっても,私は価値があるとも思っています。使い方次第で。

 

 たとえば,新聞は,トップ記事と各分野面の記事で構成されているわけですが,その扱いには大小があります。どんな基準で取り上げられているかは別として,扱いの大小を直感的に見て取ることができる。その大小関係が,社会の潮流を読もうとする際の1つの方法になり得ると思うのです。

 

 他にもどんな広告が掲載されているか,ということも,社会の潮流を読もうとする際に使える可能性がありますし,記事と記事とを無理矢理つなげて物語をつくる,といったトレーニングなどもできる。

 

 そう考えると,ニュースの価値って,本当は自分で作るものなのかな,と思ったりもするのです。


20220424

「News Diet」 ロルフ・ドベリ 著 ~第1回~

 

<概要>

 速報性のみに価値のあるニュースの悪影響と,より良い生き方としてのニュースダイエット

 

1)自分にできることに集中する

 ストア哲学の見解として,世界は,自分が影響を及ぼせることと,影響を及ぼせないこととに分けられる。ニュースメディアを通じて読む情報は,その多くが後者に属する。何らかのニュースに触れると,自分は意見を持つが,その意見は,専門家より知識面で劣っている人の意見であることを認める必要がある。一方,ジャーナリストは,決して高度な知識を持っているわけではなく,専門家の言葉を引用するか,意見の相違を戦わせることしかできない。また,それらのニュースの多くは,それほど自分の人生に多くの影響を及ぼすわけではない。それ以上に困難な事態に直面しているはずなのだ。「死」を意識した場合,最悪のケースの想定が可能となり,そのケースに備えれば不安を減らすことができる。

 そして,もっとも重要なことは,どんな状況に置かれたとしても,生きている限り,私たちは,思考において「自由」だ。人生の質は,思考によって決まるところが大きい。それは,紀元前の時代,セネカが極へき地に島流しにあっても,精神の健全さを保つことができたことからも明らかなのだ。

 そうとらえるだけでも,ニュースは断った方がよい,ということになるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 前提としてのInput 

 

 本書は,「Think Clearly」など,思考法に関する世界的なベストセラー作家であるドベリ氏による,ただ速報性のみに価値があったり,事象の記載,羅列にとどまるようなニュースが及ぼす悪影響に関する分析と,分析結果を踏まえた結論としての,ニュース断ちをすすめるものです。

 

 当初,この主張に対するジャーナリストたちの反応は,「極めて冷たいものだった」と筆者自身が告白しているように,この主張をメディアを通じて発信するということ自体が,どれだけ困難なものであったか? その困難さは想像に難くないわけです。それでも著者はそれを発信し,そして,1冊の本としてまとめたわけです。私はそれだけでも読む価値がある,と思うのです。「困難さ」というものと,「思考は自由」の2つを,リアリティを持って提示しているから・・・。

 

 が,私自身は,筆者の主張に対し,半分は賛成で,半分は疑問を持っています。賛成の部分は,自分が影響を及ぼせることにこそ目を向け,考えるべきだ,という点。これは本当にそうだ,と思うのです。たとえば,「どうしたら,プーチンを止められるのか?」,「どうしたら,新型コロナは終息するのか」なんてことを考えても,私にはどうすることもできない。そんなことについて考えるより,自分のできることを考えた方がよいと思う。

 

 しかし・・・,世の中で,どんなことが起きているのか自体を知らない限り,そのことに興味を持ちようがないのではないか? とも思うのです。もちろん筆者は,その代案についても,後々提示しているのですが,私はそれは「相応のInputが,既にある人だからできること」なのではないか? 

 

 どの程度を,相応のInputとするのか,というのも難しくはあるのですが・・・


20220417

「エマニュエル・トッドの思考地図」 エマニュエル・トッド著~最終回~

 

<概要>

 世界の大きな出来事を予言したとして知られる,歴史人口学者エマニュエル・トッド氏の思考,組み立て方,しくみ

 

1)出力するには 

 学ぶこと,理解すること,アイデアを得ることは,それ自体が喜びだ。筆者の場合,それでも出力するのは,仕事だからであり,それが家系として受け継がれてきた断固たるものだからだ。

 出力の方法としては,話す,書くといった方法があるわけだが,いずれにしても友人を説得するように出力するのが基本だ。

 政治的な面では,人々が間違った人々が間違った方向に向かっていると感じたときに発言する。たとえば風刺画掲載で知られるシャルリ紙が,イスラムの創唱者ムハンマドの風刺画を掲載,襲撃された事件を経て,フランス各地でデモが発生した。それは一見,「表現の自由」を主張しているようだったが,実はカトリックが非常に強い地域とデモの規模と関係していることが,筆者の感じた違和感の原因だと気づいたからだ。

 昔はこのような思考を形にするために書く作業が必要だったが,筆者のモデルはシンプルな要素から成り立っているので,今では頭の中で完結できる。一方,学術研究についてはもっと複雑で,非常に疲れるものでもあるのだ。

 

2)出力することで待ち受けること

 何らかの出力すると待っているのは批判だ。今の社会は,宗教的な枠組みの崩壊で,思考面で自由になったはずなのに,実は自由に思考してはいない。明らかになったのは,個人というものがいかに小さく,孤独か,ということ。個人が真似し合い,監視し合っているのが現代社会なのだ。よって,アイデアが真に独創的であればあるほど,激しい逆風にさらされることになる。

しかし批判を受けるということは,特権であるととらえることもできるし,社会から批判されることを恐れてはならない。

 

 

<ひと言コメント>

 批判を恐れないだけの準備 

 

 人が社会で生きる以上,何らかのInputをし,そして,何らかのOutputをしています。たとえば,高校生なら,教科書に示されていることをInputし,テストでOutputすることを求められているわけですし,社会人なら,自分が関わるビジネスに関して,たとえば社会や顧客,競合からの情報をInputし,いかに生産性を上げていくのか,を考え,Outputに結びつける活動をしている。

 

 それらの活動の中では,自分の意見を提示することも求められるわけですから,やっぱり意見を提示できるだけのInputが必要だし,Inputしたことを使ってOutputする必要があるわけです。

 

 問題は,Outputすることによって生じる批判です。

 

 あくまで「批判」であって,「非難ではない」わけですが,どうもこの解釈がうまいことかみ合わないように思うわけです。

 

 Outputした側は,冷静な視点からの批判についても,非難と受け止めやすいように思います。そうなってしまいがちなのも,ある意味では当然で,論として批判をするのではなく,「自分への不利益は,すべて他者のせい」といったような態度で,何でもかんでも攻撃する人々がいるのも事実だからです。

では,それを恐れてOutputしない方がよいのか? 

 

 それは1つの方法ではあると思うのです。それはそれで仕方のない態度だと思う。でも,もっと積極的な態度をとれないものか? そのためにはできることの1つは,批判を恐れないだけの準備をすることなのだろう,と思うわけです。具体的には,論理で。そしてもう1つは毅然とした態度で。難しいことなのですが・・・。


20220410

「エマニュエル・トッドの思考地図」 エマニュエル・トッド著~第4回~

 

<概要>

 世界の大きな出来事を予言したとして知られる,歴史人口学者エマニュエル・トッド氏の思考,組み立て方,しくみ

 

1)視点を得るには?

 思考する対象が社会であるとき,自分自身もその社会の一部である。では,そんな自分自身が,客観的に考察することは可能なのか? つまり,先入観や偏見なしに思考することは可能なのか?

 現実を直視するには,その社会の外の視点からとらえるという方法が考えられる。たとえば,海外からの視点,SFの視点,古典の視点,あるいは,恋愛面で危機にあるときなどは,社会の外の視点からとらえるという意味で有用と考えられるのだ。

 そしてそれは言い換えれば,比較ということであり,その手段として統計がある,というとらえ方ができる。

 

2)分析の軸としての歴史とデータ,必要となる統計学のレベル

 分析の軸になっているのは,筆者の場合は歴史とデータだ。

 筆者にとっての重要な変数は,家族,宗教,教育レベル,経済変数,死亡率などだが,それらの変数は,長期的な観点から分析することではじめて変数として意味を持つ。ある一時点でのデータは興味深いものではなく,傾向となってはじめて意味が見出せるのだ。つまり,歴史を使うとは,今現在から逃れるということになる。すると,同じ年でも世界中の国の発展度合いという意味では同じ時代を生きているというわけではない,といったことに気づけることになる。

 これらを比較したり,傾向を把握するために用いるのがデータだ。そして,その指標が意味することは,自分で定義するものであり,作るものでもある,ということなのだ。だから,統計学と言っても利用するレベルは,パーセンテージや相関係数,回帰程度のものなのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 「それはどうしたらわかるのか?」を考える 

 

 今現在の社会に属していること,また,その影響について,私たちは理解しにくいと思います。要は,それが当たり前だと,知らず知らずのうちに思ってしまっている,ということ。それが当たり前ではない,ということに気づくのは,なかなか難しい。だから当たり前なわけで・・・。

 

 それが当たり前ではない,ということに気づくには,筆者が指摘するとおり,「比較」が大切な役割を果たすのだと思います。そして,これまた筆者が指摘する通り,海外からの視点,SFの視点,古典の視点などは,自分が今現在生きる社会の当たり前に気づく上で,重要な視点と言えるのだと思います。

 

 一方で,よりミクロのことであれば,当たり前を意識することはできるのではないか,と思います。私たちは,家庭や学校・勤め先,地域社会などなど,さまざまな単位の社会に属しているわけですから,その外の社会を知ることで,比較ができるわけですから,気づきを得られる可能性がある。

 

 あるいは,ある出来事を境にした前後というとらえ方もできる。メジャーリーグの開幕前後の自分の心持ちの違いから,私自身が気づいたこと,などというのも,その1つなのだろうと思います。

 

 逆に言えば,「当たり前は当たり前ではないのでは?」あるいは,「この当たり前は当たり前なのか? どうしたらそれがわかるのか?」と,ふと立ち止まる瞬間をつくる経験をくり返せば,多くの気づきが得られるのではないか,と思うのです。


20220403

「エマニュエル・トッドの思考地図」 エマニュエル・トッド著~第3回~

 

<概要>

 世界の大きな出来事を予言したとして知られる,歴史人口学者エマニュエル・トッド氏の思考,組み立て方,しくみ

 

1)発見とは

 思考の本質とは,ある現象と現象との間に偶然の一致を見出すこと,変数間の一致を見出すこと。つまり,発見なのだ。発見は,ある日突然やってくるもので,計画的なものではない。それは,アイデア,直感,仮説であり,ひと言でまとめると「ブレイク」の時なのだ。それ自体は,非常にシンプルなものが多く,15秒もあれば生まれるものなのだが,それが生まれるまでの間には,非常に長い。

 それは単に,データの蓄積だけでは生まれない。それらの情報が,完全に咀嚼され,無意識のレベルにまで沈殿させる必要があるのだ。その無意識によって,別々の情報が自然と攪拌され,あるとき突然,新たなアイデアが飛び出してくるのだ。

 このようなアイデアを妨げるものがある。それは,1つめは自分の中に無意識でランダムな考え方がないということ。もう1つがグループシンクの問題だ。

前者は,データの集積不足あるはその把握力の不足,データの意味や背景にある者の理解する力の不足,データが無意識のレベルにまで定着していない,データと別のデータ,ある現象と別の現象とを結びつけて考えようとする試行錯誤がない,ということ。

 後者は,同じような思考を持った集団が,ある事柄を信じ込み,それが現実とはまったくそぐわない自体が起きることを言う。つまり,社会がそのアイデアを持つことを認めない可能性があるということだ。

 

 

<ひと言コメント>

 使い分け 

 

 問題と課題の違いについて,質問されたことがあります。「違いは何か?」と。 正直言えば,どっちでもいい場合が多い。でも,そうでない場面もあるわけです。たとえば,コンサルの場面や,講義の場面,と言った場面。

 

 「今,ウクライナで起きている事象について,私は破壊行為により,多くの人の命が奪われていることを問題だと思っているわけです。この問題を,解決すべき課題としてとらえるなら,最もプライオリティの高いものが何かということについて共通認識を持つことなのだと思うわけです。

けれど,それを許さないことがある。それが,トッド氏の指摘する,自分の中に無意識でランダムな考え方がない,もしくは,グループシンクの存在なのだともまた,思うのです。」

 

 どうでしょう? 事象と問題,課題の違い,わかるものでしょうか? 

 

 こんなことを私のことを知っている人が聞いたら,「ウソだ!」と言われるのではないか,と思うのですが,私自身は,あまり言葉を厳密にとらえることをしたいタイプではありませんし,言葉遊びをしたいとも思わないタイプです。なので,ざっくりと言って通じるのなら,それでよいと思っています。

 

 けれど,そうはいかない場面もある。たとえば,トッド氏が言われていることを理解しようとするとき,上記のような文章をアウトプットすることで,腹落ちすることもある。言葉の厳密な定義自体も,そうやって腹落ちしていく部分もあるかもしれない。だから,使うことが大切でもあると,私は思っています。


20220327

「エマニュエル・トッドの思考地図」 エマニュエル・トッド著~第2回~

 

<概要>

 世界の大きな出来事を予言したとして知られる,歴史人口学者エマニュエル・トッド氏の思考,組み立て方,しくみ

 

1)知的活動の原点は入力

 あらゆる知的活動は,「入力→思考→出力」という3つのフェーズで構成される。このうち,思考は,「着想・モデル化とその検証・分析」などにさらに細分化できる。

 筆者の場合の「ぼうっとしている」というのは,何もないところでそうしているのではなく,脳に入力された図書館の中をさまよっているようなものなのだ。理論を理解し,研究プログラムを練り,仮説を明確にする,といった思考を行うには,入力が必要。その意味で,読書を通じたデータ収集が必要なのだ。

 

2)問いの対象は人間であり,社会であるから

 データ収集を積み重ねると,やがて着想(=仮説)が得られる。一方で,これは自然科学と社会科学とでは,アプローチが異なる。

 社会科学の対象は,私たち自身であり,社会である。社会は,1つの幻想の上に成り立っていると考えられており,この幻想を取り払うことが社会科学の役割だ。たとえばマルクス主義という虚偽を説明するということだ。

 一方で,家族構造や宗教構造,思想への信条など,すべては人生に意味を与えている。つまり,社会がある幻想の上に成り立っていることを説明するには,人生には意味がないこと,それが幻想であることを受け入れる必要が出てくるということなのだ。

 「人間とは何か?」について,その問い自体を出発点に思考すると,歴史を見誤ったり,捻じ曲げたりすることになる。逆に歴史という事実を出発点にすることで,真実を理解でき,「人間とは何か?」に近づくことができるのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 本当の意味での思考

 

 「あらゆる知的活動は,<入力→思考→出力>という3つのフェーズで構成されている」と,筆者は指摘していますが,もう少し一般化すると,「あらゆる活動は,<入力→変換→出力>という3つのフェーズで構成されている」と表現することができるかと思います。さらに言えば,活動の複雑さというものは,「<入力→変換→出力>の連なりの長さ」と,表現することができるのだと,私はとらえています。

 つまり,複雑な活動というのは,「変換の結果として出力されたものを入力として,それを変換,出力し,その出力をさらに入力し・・・ということのくり返しであり,それは,一直線につながっていくものだ」ととらえている,ということです。

 

 「いやいや,複雑な活動には試行錯誤がつきもので,だから一直線なんかでは進まない」し,まして,「思考には試行錯誤が必要で,だから一直線なんかに進まない」と言う方もいらっしゃるのだと思います。

 それは確かにそうなのかもしれないのですが,ただ,「思考の結果というものは一直線につながっていくものなのだ」と,私は思うわけです。そして,だからこそ,人間はコンピュータを活用して作業を効率化することができる,と,私はとらえているのです。

 実際,コンピュータによる処理というものは,基本的に一直線です。(もちろん,物量の大きさに対応するための並行処理や,同じInputから2つのOutputをつくり,合流させる,というようなことはあるわけですが・・・。)

 

 一方で,「本当の意味での思考は,人間にしかできない」と,私は考えています。

 

 「本当の意味での思考とは何か?」については,私は上手く説明できないのですが,それは1つには,「人の命が何より優先される」という価値観に基づき,論を組み立てるということだと,私は思うわけです。だって,地球にとっての最適解は,人類が滅びることなのかもしれないのですから・・・。


20220321

「エマニュエル・トッドの思考地図」 エマニュエル・トッド著~第1回~

 

<概要>

 世界の大きな出来事を予言したとして知られる,歴史人口学者エマニュエル・トッド氏の思考,組み立て方,しくみ

 

1)思考とは?

 社会を考えようとするとき,機能不全や一見関係のないもののつながりに気づくことが何より大切になる。

 たとえば「資本主義は,集団の道徳基盤なくしては考えられないコンセプトである。それが存在しなければ,その効力はなくなり,腐敗していく」と考えられる。ただこのような思考の結果は,「自分の頭から真実が生まれる」ととらえる哲学的な思考のアプローチによる結果ではない。

 「思考とは?」を考えるとき,さまざまなとらえ方ができる。たとえば,暴力の反対というとらえ方だ。他にも,思考とは手仕事というとらえ方もできる。

一方で,思考とは学びだというとらえ方もできる。知性は大きく,処理能力のような頭の回転の速さ,記憶力,創造的知性の3つの種類があるととらえることができるが,それらを,学びを通じて成長させていく。そして,それがあるから,世界や社会の課題に気づくことができるのであり,「それがどういうことなのか」を思考した結果を,モデルとして示すこともできるようになる。

 つまり,世界について,あるいは社会について思考するとき,「無から創造はできない」ということなのだ。

 自然発生的な「思いつき」,「気づき」にあたるものは,方法論として体系化することは難しい。しかし,その「思いつき」,「気づき」を起点に,思考した結果を示そうとするときには,思考のフレームが利用できる。そして,著者の場合のそれは,統計学のフレームなのだ。

 

 

<ひと言コメント>

 学びは真似び

 

 著者であるエマニュエル・トッド氏は,ご自身が本著冒頭でもふれているとおり,日本ではソ連の崩壊,リーマン・ショック,アラブの春,英国のEU離脱の他,米国におけるトランプ政権の誕生などを予言した,世界を代表する知性として知られています。その研究アプローチ・思考アプローチは,経済現象ではなく人口動態を軸として人類史を捉えるというもの。本著は,そのような思考スタイル,思考プロセスを,ご自身がとらえ直したもの,ということになります。

 

 実は本書,まえがきと目次・序章と進む間に,「思考の見取り図」というものが示されています。つまり,エマニュエル・トッド氏の思考のアプローチが全体像として示されているのです。逆に言えば,この部分が,著者の思考アプローチを整理した結果,結論にあたると,とらえることができます。

 

 この結論,見る人が見ると,実は「統計学的な思考アプローチ」で整理されていることがわかります。つまり,トッド氏の思考アプローチの一端が,そこから読み取れるわけです。

 

 その結論だけを見て,トッド氏の真意,つまり,「トッド氏の思考アプローチが,ナゼ,そうなったのか?」ということは,理解できないのではないか,とは思います。だから,本書があるわけで・・・。

 ただ一方で,トッド氏の思考アプローチをマネすること自体はできる。「学びはまねび」という言葉もあるぐらいですから,マネから始めてみること自体は,決して悪いことではない。むしろ学びの本質なのかもしれない。であれば,このトッド氏の思考アプローチを真似ることから始め,そのトレーニングをすることによって,改めて自分の思考アプローチ自体をとらえ直してみることが,ある意味ではトッド氏の真意なのではないか,とも思います。


20220313

「戦争プロパガンダ10の法則」 アンヌ・モレリ 著

 

<概要>

 自国の戦闘を正当化し世の中を誘導するプロパガンダに共通する10の法則

 

 プロパガンダの法則を知り,自国の正当性を「疑う」ことが「監視の役割」を果たす第一歩となる。 その10の法則とは,以下のような訴えであり,主張であり,それを信じ込ませることだ。

 ①我々は戦争をしたくない

 ②しかし敵側が一方的に戦争を望んだ

 ③敵の指導者は悪魔のような人間だ

 ④我々は偉大な使命のために戦う必要がある

 ⑤犠牲を出すこともある

 ⑥犠牲が出ているのは,それは敵が卑劣な行為を用いているからだ

 ⑦その被害は小さく,敵に甚大な被害を与えている

 ⑧芸術家や知識人たちも正義の戦いを支持している

 ⑨我々の大義は神聖なもの

 ⑩この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である

 

 

<ひと言コメント>

 考える

 

 以前もこの場で紹介した本著ですが,今だからこそ,改めて見直しておく必要があるように思います。ロシア側の非なのか否かを問うことは,目的ではありません。ただ,「この法則に当てはめたとき,どうなのか?」は,ロシア側,そして,ウクライナ側からも,冷静に見ておく必要がありそうです。

 

 少なくとも①~⑥,及び⑧・⑨については,双方の主張に当てはまるように思います。よって,問題は,⑦と⑩だと思うのですが,決定的に異なるのは⑩なのではないか,と,私は思います。

 

 「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者」

 

 この言葉の意味は,非常に重いものがある。「裏切り者がどのような仕打ちを受けるか,を,考えよ」という意味でもあるからです。しかし,そこには少なくとももうひとつ,「疑問を投げかけるようなことを考えるな」ということも言っている。要は,「考えろ」,けれど,「考えるな」ということ。そこには,矛盾があることに気づけるのではないかな,と,私は思います。


2022027

「永遠平和のために」 カント著

 

<概要>

 カントが考える永遠平和の実現の方法

 

 永遠平和は机上の空論ではない。確かに今は,平和は自然状態とは言えず,創設されるものだ。ただ,そうであっても理論的な6つの条件と,実践的な3つの条件を満たせば,さらに,自然の摂理に従えば,いつかは必ず平和が自然状態になる。だから,平和は実現できる。

 

1)理論的な6つの条件

 理論的な6つの条件とは,次のとおりである。

 ①戦争の種を残さない平和条約締結

 ②他国侵略の禁止

 ③常備軍の全廃

 ④戦争国債の発行禁止

 ⑤内政への武力干渉禁止

 ⑥将来に禍根を残さない

 

2)実践的な3つの条件

 実践的な3つの条件とは,次のとおりである。

 ①すべての市民が,自由・法の下に従属・平等の原則に基づく共和的体制に属す

 ②連合性による国際法と各国の自由の保障

 ③各国間の往来の自由

 

 

<ひと言ポイント>

国際機関は,その役割を検討してきたのか? という問題

 

 以前にも紹介した本書,カントの指摘は「平和状態とは,少なくとも現段階では,自然状態とは言えない,つまり,平和は創設されるものだ」ということ。言い換えれば,「自分たちがそれを求めない限り,少なくとも今は平和を実現できない。ただ,どれだけの時間がかかろうと,それが自然状態となるよう,行動することで,いつかは必ず実現するのだ」ということです。

 

 さて,そう考えたとき,国際機関の役割として,どんな行動が求められていたのでしょうか?  

 カントの主張が正とするなら,そのひとつの答えとして,「カントの論を満たす行動を,その役割として担うこと,実際に行動を起こすことだった」と言えるのではないでしょうか?

 

 仮にそうだった,とするなら,国際機関は,それに向けた行動をしてきたのか? という点が,1つの大きな焦点になる。

 たとえばEUがとってきた行動は,もちろんその具現度はともかくとして,実践的な3つの条件を満たそうとする動きだったのだろう,と解釈することができそうです。

 一方で,国連はどうなのか? 

 その理念として掲げていることは,確かに平和なのかもしれない。けれど,本当にその役割を担うべく行動をしてきた,とは,言い難いのではないか? たとえば,安全保障理事会の常任理事国の構成員を見たとき,どうなのか? 「常任理事国」というしくみ自体に,欠陥はないのか? 

 

 今起きていることは,第3次世界大戦につながるようなものだと考えられる。そして,もし,そんなことが起きたら,それこそ核戦争です。実際プーチン氏は,その使用をちらつかせる発言をしている。

 

 できること,それは,自らの行動を変えること。起きてしまったことを変えることはできないけれど,将来は変えられる。

 制裁はもちろん必要なのかもしれない。けれど,たとえば国連が,ツイッターでもフェイスブックでも,あらゆるSNSを使って,あるいは,各WEBメディアの情報を利用した推計をおこなって,直接賛否を収集したらどうなのか? 市場の広告を,この1週間だけでも,すべて直接賛否を問うものだけに変更したらどうなのか? それを国が主導することはできないのか? 

 

 こんなアイデアは陳腐かもしれない。それでも,数の形で事実を示すことはできるのでは? それは国際機関として,あるいは国として,ウクライナの人々へのメッセージとして,そして,ロシアの人々へのメッセージとして,示せるものなのでは? 

 日本は軍事介入なんてできないわけですから,できることを考え,それを実行して,示すことなのではないかな,と思うのです(ということは,首相官邸にも送ってみました・・・)。


 20220220

会社のITはエンジニアに任せるな!」 白川 克 ~最終回~

 

<概要>

  ITを会社の武器にするために,経営者が自ら判断できるようになるための知識・スキル

 

1)ITプロジェクトの成功は,経営者にしか抽出できない

 現代経営は,ITなしでは成立しないことが多いことを考えると,経営戦略とIT戦略は,ニワトリとタマゴの関係とも言える。しかし,経営,業務部門,IT部門のそれぞれの間には,コミュニケーションの断絶がある。

 その壁を越えるには,カネと軸に,経営が妥協せず,「経営のわかる言葉,経営が判断する論理で,何度でも説明してほしい」と伝えること。すると,ITプロジェクトの特徴や,IT開発コストが高い理由,不確実性との向き合い方など,相互の理解ができるようになってくるし,適切な経営戦略に結びつくのだ。たとえば,ある企業の行っている,既存のITの保守,既存のITの改修,新規のITの投入の3層に分けて管理するといったことをするだけでも,さまざまな切り口で,ITをとらえられるようになってくる。このようなしくみ,しかけが必要なのだ。

 ITプロジェクトの成功は,QCDで語られることが多いが,実際にはそうではない。「業務効率の大幅向上など,経営的な成果が大きい」「全社の仕事のやり方を変えることを伴うなど,大規模な変革を実現する」「当初不具合ではなく,柔軟性や保守性,長期コストなどの視点からカネがかからないという意味で品質が高い」「参加メンバーの成長」「10年単位で語り継がれる」といった,「経営目線での成功」に結びついたもの,なのだ。そして,それを抽出できるのは,経営者しかいないのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

ピンチはチャンスを実現するために

 

 松下幸之助氏は,「失敗とは,成功する前に止めること。成功するまで続ければ必ず成功する。」という主旨の言葉を残されています。この言葉は,しっかりと理解した方が良いと思います。

 

 何かを成し遂げようとするときには,それを成し遂げるために,転んでは立ち上がり,チャレンジを続けることは必要。しかしそれは,特定のアプローチに固執することとは違う。それは,現パナソニックの,「ナショナルランプ」の発明は,当時の何らかの技術に関するトライ&エラーを積み重ねた結果だったであろうこと,そしてそもそもは「ナショナルランプ」を発明することが目的だったわけではないだろうことからも想像ができる。つまり松下氏が言っているのは,何を成し遂げるのか,ということであり,一つひとつ,個別の成功・失敗というような小さなことを言っているわけではないと,考えられるわけです。

 

 すると,この松下氏の言葉はむしろ,「ピンチはチャンス」という言葉に近いニュアンスを持っている,と,私には思えるわけです。つまり,何らかの危機的な状況に陥ったとき,それを客観的に評価して,そのまま突き進むのか,あるいは,別のアプローチを考えるのか,その判断を適切に行い,前に進むということ。

 

 人間ですから失敗することはある。けれど,その原因を可能性,仮説として抽出し,それを潰す方法を検討,実行する。そして,失敗の原因となっている可能性をすべて潰せば,必然的に成功につながる。だから,失敗したときこそが,その失敗の原因を洗い出すチャンスであり,対策を検討するチャンスであり,それを実行するチャンスなのだ。

 

 そう考えると,ピンチをチャンスにするには,「現実の徹底的な直視」をすることが,その第一歩であることがわかるわけです。現実を直視しないと,原因となる可能性を見誤る。すると,どんなに努力しようが,その努力は無駄足に終わる可能性が高まってしまう。

 

 本書の最後に,ITプロジェクトの本当の成功とは何か? について触れられています。実はこれ,ピンチはチャンスを使った,「経営者が何らかのプロジェクトを立ち上げる際の戦略的なしかけ」と,とらえることもできるのではないか,と思います。わざと失敗させることはないにしても,そうなったとしても良いように考えておく。相当高度なテクニックですが・・・。


 20220213

会社のITはエンジニアに任せるな!」 白川 克 ~第4回~

 

<概要>

 ITを会社の武器にするために,経営者が自ら判断できるようになるための知識・スキル

 

1)自社はITで勝負するのか? 他で勝負するのか?

 ITはカネがかかる以上,自社がITで勝負するのか,他で勝負するのか,の意思決定が必要だ。金融業にとっては,ITはビジネスの装置であり,それはプラント型ITと言える。一方で,コンサルティング業は,プラント型ITは重視しない。つまり,これを両極と置いたとき,自社をどこに位置づけるのか? という意思決定だ。ただ,いずれにしても,その勝ち筋足るストーリーをつくる必要がある。それは,ITビジョンとも言えるものであり,日々の判断基準になる,ITの役割,長期施策における意思決定ができること,が必要になる。

 ITビジョンを検討する,とは,ITには大きく4つの役割があることを理解し,そのどれを重視するか決めること,とも言える。4つの役割とは,既存事業の維持発展,既存事業の業務変革,便利な道具としての新技術の提供,新事業の創出であり,その役割が決まれば,社内のIT部門の機能も見えてくる。つまり,ITも作りPLも担う,PLに専念する,ITはBPOする,そして,作ることに専念する,の4つから選択する,ということだ。

 

2)ITを武器にするには,長期視点が必要だ

 旅館の建て増し,という状況があることは,よく知られている。これは,ITにおいても同様だ。よって,数値化しにくい定性効果,長期の効果,長期の事業リスク対応効果など,短期の金額効果だけでは見えない視点で,ITを見る必要がある。

 さらに言えば,人の育成という視点も欠かせない。伊勢神宮が式年遷宮を行うのは,技術の承継の意味合いを持つ。こうすることで,ITに担わせている業務のブラックボックス化を避けることも可能になる。業務のブラックボックス化が避けられれば,技術の進歩に伴い,ITに担わせている業務自体を改革できる可能性が高まる。たとえば,既存のIT処理には,バッチ処理が組み込まれているが,これは,リアルタイム処理が,その負荷の都合できなかったことも理由の1つだ。このような課題を解決していくためには,マンパワーを明らかにし,その平準化をはかりながら改訂,あるいは,改革していくことも必要になるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

ITはIT部門だけで考えるものではない

 

 今回ご紹介している本,そのタイトルは「会社のITはエンジニアに任せるな!」です。その文言だけを見ると,「ITプロジェクトの成功確率が低いのは,その能力の低さに問題があるから」であり,だから,「ITエンジニアに,ITプロジェクトを任せてはならない」ということを意味しているように,とらえられるかもしれません。

 

 しかし,本書が指摘していることは,そうではない。と言うよりはむしろ,「ITを業務として利用している側,事業サイドの課題」を指摘している部分の方が強いと思います。それは,ITを利用する事業サイドが,ITというものの性質をあまりにも理解していない,という指摘です。

 

 この指摘について,みなさんはどのように感じるものなのでしょうか? 

 

 私はこの指摘,的を射ている,と感じています。ITエンジニアは,そうは言ってもビジネスパーソンです。ビジネスというものがどういう性質のものであり,事業サイドの要求がどういうものなのかについては,経験を積めば積むほど,自然と理解できるようにもなる。一方で,事業サイドにいるビジネスパーソンは,勉強しなければ,ITというものの性質を,本当の意味で理解することができない。「あるのが当たり前」だからです。みずほ銀行のシステム障害は,まさにこの事実を端的に表している,と私は思います。

 

 ただ,勉強と言っても,その対象を統計やプログラミングスキルととらえるのは,安直すぎるとも思います。

 もちろん,その基礎知識は必要かもしれませんが,それよりも,ビジネスプロセスフローをかけたり,プロセス単位に機能を詳細化したり,それをマニュアルとして示せたり,といった力があることの方が重要。それ以前に,「どうしたい」という意志を持ち,それがどういうことなのか,機能として分解し,説明できる力が必要。その意味では,本書の著者が,いくら「プラント型」と表現しようと,ITが手段であることに変わりはないわけです。

 

 DXだ,AIだ,と言いますが,それは,まとめてしまえば,ITという技術を使って,これまでの様々な課題を解決するということ。その専門的な知識やスキルだけがあっても,それをどう利用し,何を実現するのかがなければ,何も解決しない。

 

 目的は何なのか? 目的を実現する状態とはどういうことなのか? これは,ITエンジニアだけで考えるものではありません。だから,そういったことを考える力を身につけること。たとえば,BPOが適切にできる,既にBPOしている業務について,その意味や意義を明確にできる,といったことは,本気でDXやAIの活用を考えるのなら,身につける必要のある力だと,私は思いますし,それがプログラミングの力ではないことは明らかだ,と,思います。


 20220206

会社のITはエンジニアに任せるな!」 白川 克 ~第3回~

 

<概要>

 ITを会社の武器にするために,経営者が自ら判断できるようになるための知識・スキル

 

1)ITプロジェクトで経営がすべきGO or notGOの意思決定

 ITプロジェクトをめぐり,経営とITエンジニアとの間では,見方が異なることが,相互不信の原因と考えられる。その典型は,プロジェクトの不確実性についての理解の違いだ。

 実際,スタート時点では,何も決まっていないのに,ITエンジニアはそこにかかるお金については問われる。そこで,勘・経験を頼りに金額を伝えると,「高い」と経営から言われ,低めに言うと後から叱られる。つまり,ITエンジニアにとっては,どちらでも叱られるという構図になっているのだ。これがさまざまな問題発生の根源なのだ。

 「金額だけ先に決まる,想定外のことが起こる」が,金額のブレの原因。そこで必要なのは皮算用。ワーストケース・中間ケース,ベストケース程度に見積もるといった,シミュレーションが必要になる。また,段階的意思決定も1つの方法だ。つまり,スタート時点,概要を受けた概算見積,要件確定後の確定見積といったマイルストンを設定し,各段階で意思決定をする,という方法だ。そこまでに投入した時間を含めたコストを考えたとき,当事者に撤退の判断はできない。その判断ができるのは経営なのだ。

 

2)ITプロジェクトでPLを育てる意思決定

 変革のスピードは,PLを任せられる数で決まる。だから,PLの育成は,企業経営のキモだ。

 ITプロジェクトにおけるPLとは,経営・事業部・IT部門の3者協調をリードすること。よって,高い能力が求められる。プロジェクトそのものの管理を担うPMは,外部人材で賄うことも可能だが,PLは外部の人材では務まらないのだ。ただ,近年はPLが育ちにくい。案件が少なく,ベンダーに丸投げになりがち。要は経験不足なのだ。PLはプロジェクトでしか育たない。だから,プロジェクトでは,PLを育てることが大切な役割となるのだ。そして,その意思決定ができるのも,経営だけなのだ

 

 

<ひと言ポイント>

自分の仕事を表現する

 

 「あなたの仕事は何ですか?」と言われたら,どう答えるものなのでしょう? 

技術者,営業,経理担当,マーケティング担当,編集者等々,いわゆる職種で答える方は多いかもしれません。あるいは,経営,現場マネジメントなど,役割で答える方もいらっしゃるでしょう。ただ,職種や役割で答えたとしたら,その実際のところは,本当のところはなかなか伝わらないのではないか,と思います。

 

 仮に,「あなたの仕事は何ですか?」という問いが,面談などの場での問いであるなら,「あなたは何ができる人なんですか?」という問いと同じことを意味しているでしょう。つまり,問いには「真意というものがある」ということ。

 

 もう1つ考えたいのは,「その答えから,質問をした人が受け取れる情報は,どの程度のレベルのものか?」という問題があるという点。たとえば,「プロジェクトを推進すること。実際○円規模から○円規模まで,多くのプロジェクトでPLの経験をしてきた」という答えから,その相手が受け取る情報はどの程度のものなのか? 

 

 「そもそもプロジェクトリーダーって何? ○円規模のプロジェクトでは,どんな利害の対立が発生する? 案件の難易度による責任の軽重って?」等々,その情報を解釈する基準を持っているか否かで,受け取れる情報量に大きな差異が出ると思います。

 

 とすると,「あなたの仕事は何ですか?」という問い,実は,さまざまな答え方があるのだろう,と思うわけです。たとえば,「こういう課題が発生する,こんな日々の積み重ねが必要な仕事です。そして,具体的にはこんな仕事をこんな役割で担当してきました」というような答え方。

 

 もしこんな答え方をした人がいたら,私なら,一発採用かもしれません。なぜなら,その仕事自体を知らない面接官の立場が考慮できることを示せ,さらにどんな日々の積み重ねができる力があるのかもわかり,さらに,面接官が次にどんな質問を促したくなるかのしかけもできることがわかるから・・・。


 20220130

会社のITはエンジニアに任せるな!」 白川 克 ~第2回~

 

<概要>

 ITを会社の武器にするために,経営者が自ら判断できるようになるための知識・スキル

 

1)ITプロジェクトの成功確率を上げるには?

 ITプロジェクトはQCDの基準で3割しか成功しない。直感以上に複雑で,難しいのだ。ただ,ポイントはある。ITプロジェクトの場合,そのプロジェクトオーナーのポジションになる経営幹部にしかできないことは,「1.実現したいことを明言」「2.経営・業務・ITの3つのポジションからプロジェクトメンバーを集める」「3.そのプロジェクトの味方になる」「4.財布のひもを握る」「5.1を実現できる計画であるか吟味する」「6.現状を変えさせる」「7.対立を裁く」「8.リスクを取る」「9.遠慮のないコミュニケーション」「10.1.を実現したのかを問う」の10の鉄則だ

 

2)ITプロジェクトのコストを下げるには?

 ITプロジェクトの費用は,直感的に高く感じる。が,それは,ハードにお金を払う感覚があるからだ。ITプロジェクトのハードに関する費用は3%に過ぎない。

 また,ソフトについては,「直感以上に複雑,プログラムを書く=細かな作業指示が必要な新人類を相手にするようなもの,言葉の定義なども含めた「そもそも論」を問う必要がある,4割以上がテストと言われるほど念入りなテストが必要,保守が必要でそれがプロジェクト全体の7割の費用を占める」といった理由で,コストがかかるのだ。

 よって,そのウラを返せば,コストは下げられる。つまり,本当に欲しい機能の絞り込み,業務とITのシンプル化,既製品の購入だ。これをすることで,ソフトの多くを占めるかかる人件費の抑制ができることになる。

 

 

<ひと言ポイント>

リスク想定力の不足なのか,あるいは,実行力の不足なのか?

 

 ITシステムの開発プロジェクトの基本となる進め方は,ウォーターフォールと呼ばれる,計画重視の進め方です。もちろん最近では,アジャイルと呼ばれる開発手法も取り入れられていますが,「アジャイル開発=ラク,ユーザーフレンドリー,安い」などと思っているようなら,どこかで手痛い目に遭うと思います。他の人に責任を押し付けられる立場なら良いのでしょうが・・・。

 

 ということで,ウォーターフォールで進める場合について,ですが,このとき,プロジェクトマネジメントの基本として利用されるのはPMBOKです。PMBOKでは,10のマネジメントの視点があるのですが,それは,スコープ,QCD,資源,コミュニケーション,リスク,調達,ステークホルダー,そして,それら個別要素の統合マネジメントです。

 

 さて,PMBOKが指摘するマネジメントの視点を見て,気づくことがあると思います。それは,このマネジメント視点,ITシステム云々の問題ではない,ということ。対象がITシステムだ,というだけで,マネジメントの視点という意味では,どれも同じだということです。

 と言うことは,です。経営人材,経営のプロは,ITでもマネジメントできることになる。すると,「ITのことはわからない」と言って,ITをマネジメントできないのだとしたら,経営のプロではない,ということになる・・・。

 

 実はこれが,みずほの経営陣が総入れ替えとなった1つの理由だと,私は思います。損害を出したから,と言うよりは,マネジメントができないのだから,経営陣として入れ換える。そして,特に問題になったのは,リスクに関するマネジメントだったのだろうと私は思います。

 

 同様に,新型コロナという「リスク」についても,マネジメントはできる。ただし,コントロールはできません。「どうなる可能性があるのか?」を想定し,想定した可能性に対して,打ち手を考えていく。その兆候が見えたときに実際にその手を打っていく,ということ。

 

 さて現在の日本の新型コロナについて,感染の急拡大という生じている事実は,想定を超えてしまったものなのか,それとも,想定の範囲内なのか?

 想定を超えてしまっているとするなら,リスク想定能力を問う必要がありますし,想定内なのだとしたら,打ち手の実行・指示力を問う必要が出てくる。どうなんでしょう? いずれにしても,一緒くたではなく,しっかりと分離して,確認する必要があるのだと,私は思います。


 20220123

会社のITはエンジニアに任せるな!」 白川 克 ~第1回~

 

<概要>

 ITを会社の武器にするために,経営者が自ら判断できるようになるための知識・スキル

 

1)ITには,ツール型とプラント型がある

 「ITはツール」という言葉があるが,「ツール=道具」という言葉に引きずられ,勘違いを生んでいる部分がある。もちろん,このタイプのITもあるが,大規模施設であるプラントのようなITも存在する。プラント型ITとも呼べる後者のタイプのITは,それが人の働き方を決め,ビジネスを支えている部分がある。

 この後者のタイプのITの質が低いと,たとえば営業担当なのに,そのITとの格闘に時間がかかり,顧客と会ったり,提案を練り込んだりといったような仕事の時間が取れないといった,本末転倒のことが起きてしまう可能性がある。また,このようなITと無関係な仕事は通常3割程度しかなく,結果,業務変革を成し遂げようとすると,ITをどうするかが課題になる。

 つまり,ITは,エンジニアに丸投げするには,経営にとって大事過ぎる代物なのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

ITシステムに関する事実

 

 ITシステムの開発に携わった経験がある方,どの程度いらっしゃるものなのでしょう? 

 

 このような問いを立てると,プログラマーやSEと呼ばれる方々の仕事をイメージされる方が多いようです。しかし実際には,それに関連する仕事は他にもある。たとえば,そもそも解決したい課題を設定することであったり,それを実現する要件を整備することであったり,あるいは,それを可視化したものとも言えるビジネスプロセスフローを整理したり,構築されたシステムが要件通りであることを確認するテスターであったり・・・。つまり,多くの人が携わるのが,ITシステムの開発だ,というようにも,とらえることができるわけです。

 

 そして,ITシステムの開発に携わる,ということは,それを完成に導くことはもちろん,その活動を通じて,実現したい全体像づくり,その細分化の知識・スキル,その実現を通じたリーダーシップといった力を発揮することが必要になりますし,それが磨かれる実践の場でもある,と,私自身はとらえています。場合によっては,数億,数十億,数百億のお金を投入することになるのですから,組織のしくみや,関連する法令などを学ぶだけでなく,経営的な視点も磨かれることになるわけですし・・・。

 

 だから,ITシステムの開発リーダーを担当するのは,非常に重要な機会だと,私はとらえています。それは,ITベンダーと対峙する立場でも構わないし,業務を担う社内部門と対峙する立場でも構わない。もし,そのような機会があるのなら,積極的に手を上げてもらいたいな,と思うのです。特に,ビジネスサイドの業務に携わって来られた方は,後者の立場を実際に経験することで,飛躍的に成長できるのではないか,と思うから・・・。


 20220116

「世界の経営学者はいま何を考えているのか」 入山 章栄 ~最終回~

 

<概要>

 主に米国の経営学の研究者たちの間で議論されている,演繹的なアプローチによる経営学のマクロ分野での研究内容

 

1)経営学の課題と解決のアプローチ

 現代の経営学は,いくつかの課題を抱えている。それは,「1.業績主義を発端とする理論偏重による,理論の乱立」,「2.おもしろい=これまでの常識を覆すような理論の追求が,本来求められているはずの,多くに求められる経営の事実・法則の分析を妨げている」,「3.平均に基づく統計手法では,独創的な経営手法で成功している企業を分析できない」という点だ。

 それぞれの課題解決に向けたアプローチが始まっている。1.に対しては,エビデンス・ベースト・マネジメントのアプローチだ。「定型化された事実法則」を,現実の経営にあてはめ,それを研究するという手法だ。2.に対しては,「数多くの研究を研究する手法」とも言える,メタ・アナリシスが,1つの有効なアプローチと考えられる。また3.に対しては,サンプル全体の平均的な傾向ではなく,それを構成する企業について,1つひとつのパラメータを確率的にとらえる手法とも言えるベイズ統計を利用したアプローチや,事象には安定した平均は存在せず,外れ値は常に生じ得ることを最初から組み込む「ベキ法則」を利用したアプローチなどが考えられる。

 

 

<ひと言ポイント>

「科学的」であることの使い方

 

 「科学的であるとは,どういうことか?」と問われた時,どの程度の方が説明できるものなのでしょう?

辞書で「科学的」を調べると,「考え方や行動のしかたが,論理的,実証的で,系統立っているさま」と説明されています。思考の妥当性が保証される法則や形式に則って,データなど事実によって裏づけられていること,と言うことができるでしょう。

 

 一方で,これは本書でも指摘されているのですが,科学的であることが求められる研究分野において,一般的に用いられている統計学的な手法は,ガウシアン統計に基づく統計的仮説検定のアプローチです。このアプローチ,有意水準を設定し,その水準を満たせば仮説が正しいことを支持する,というアプローチを取りますが,一般的には95%以上(もしくは99%)の確率で,それが当てはまる場合を正しいと支持することになります。裏返せば,科学的であったとしても,当てはまらない可能性はある,ということ。個々の事情には当てはまらない場合がある,例外というものは発生する,と考えた方がよいわけです。

 

 これを,新型コロナを例に考えると,「どんな対策を打とうと,あなた個人は感染するかもしれないし,感染させるかもしれないけれど,適切な対策ととれば,多くの場合では感染しないし,感染させることもない」ということ。

 

 以上を前提に,今,最も問題になる可能性があるのが,病床逼迫だ,とするなら,利用できる病床数からの逆算で,病床利用が必要な重症化率と,発症率,感染率から,何人まで感染したとしても医療崩壊は免れる,と計算することになるわけです(実際には,もっと複雑な計算が必要とされるでしょうが)。とは言え,ここで利用する重症化率などの値を,科学的に求めようとすると,科学的であることを求めるが故に,相当数のデータが必要になるわけですし,データ数次第で誤差が大きくなるわけです。

 

 一方でこれは,病床逼迫を基準にしたモデルであり,別のモデルを作ることも可能。同様に考えていくと,モデルの選択そのものや,結果取り得る選択肢というもの,あるいは,何を解決すべき課題と設定するのか,については,新型コロナの場合,極めて政治的なものだ,と考えられるわけです。

 

 何が言いたいか? それは,先に,極めて政治的に判断をしているにも関わらず,その根拠に科学的であることを求めることに,どれだけの妥当性があるのか,ということです。

 

 もし政治的な判断に,科学的であることを求めるなら,順序が違うのです。「この案と,この案があって,こういう状態であれば,(病床逼迫という)設定した課題を解決できる」と置いた上で,「そのような数値になっているのか? その数値にするには,どういう方法があるのか?」という順に考えるのが,科学的であることを根拠に判断する,ということ。単に計算に利用する数値,パラメータの値を算出し,それを利用すれば科学的ということではない。

 

 どんな問題を解決しようとしているのか,それは政治的な判断です。その根拠を示すのが先。その上で,「数字上,こうだから,これをやれば,この問題は起きない可能性が高い(ことが,科学的にわかった)。だから,この施策を実行する」という説明が必要なのだ,ということです。


 20220110

「世界の経営学者はいま何を考えているのか」 入山 章栄 ~第6回~

 

<概要>

 主に米国の経営学の研究者たちの間で議論されている,演繹的なアプローチによる経営学のマクロ分野での研究内容

 

1)M&A買収額に見る経営者心理

 M&Aでは,買収プレミアム,つまり,払い過ぎが発生しがちだ。その原因には,経営者の思い上がり,自社を成長させたいというあせり,国を代表しているというプライドの3つがあるとの研究が発表されている。つまり,経営者の意思決定は,人間臭い面がある,ということだ。

 

2)イノベーションのためのCVCというとらえ方

 コーポレート・ベンチャーキャピタル(CVC)投資とは,社内であたかもスタートアップ企業のように自律性をもった新しい事業部門を立ち上げること。1990年代以降,米国内のVC投資総額の15%ぐらいが該当すると考えられている。このポイントは,イノベーション・パフォーマンスが高くなることだ。そのメリットは,審査過程でそのスタートアップの技術がわかること,人材を派遣することでそのビジネスモデルなどを深く知ることができること,仮に失敗してもその事業の将来性について学べることなどがある。

 

3)経営学の課題?

 リソース・ベースト・ビュー(RBV)とは,企業が優れたパフォーマンスを実現するには,人材・技術・ブランド・蓄積された知識等々の内部リソースに注目すべきだ理論だ。そして,このRBVは,ポーターが考案した,Structure・Conduct・performance(SCP)と表裏の関係にあると言える。だが,この理論をめぐっては,経営学者間で論争を生んだ。それは,ここでの命題が,常に真となる論理命題であるトートロジーに近い状態だったからだ。このような議論に決着をつけられるか,ということは,経営学における理論の課題と言えるかもしれない

 

 

<ひと言ポイント>

科学的な実践と,経験的な実践と

 

 何らかの成功をつかむには,何らかの行動を起こすことが必要になります。ただ,多くの人と同じことをやっていても,成功はおぼつかない,とも言われている。ある意味,常識を疑う,当たり前を疑う感覚が必要になるわけです。ただ,多くの人と違う,ということは,それはリスクを伴うものですから,多くの人が反対するものでもあります。だから,それでも行動を起こすには,反対する方々を説得する必要が出てくる。よって,成功をつかむための第一歩は,「堂々めぐりから,いかに飛び出すのかという問題だ」と言い換えられるのかもしれません。

 

 そこで利用できるものの1つが,科学的である,ということなのだと思います。たとえば感情に依存するものでも,宗教的な価値観に引きずられるものでもない。だから,どんな立場であったとしても,論理的に解釈できれば,納得ができる,ということ・・・。 と,ここまで科学的であるということを持ち上げるのもどうか,と思うのですが,科学が,その立場を目指しているのは事実なのだと思います。

 

 ただ,その科学にも限界がある。それは,今回取り上げた,RBVをめぐる論争にあたるような問題の発生です。

 

 正直,「こんな論争をして何になるのだろう?」と,多くの方が思われるのではないか,と思うのです。価値があるなら,価値として認めればいいでしょ,と。たとえば,RBVの考え方は,多くの人が理解できることでしょうし,納得もできるものだと思うわけです。ただ,これを科学的に,理論として認めるには,乗り越える壁がある。それを越えないと,感情や価値観に引きずられていることと変わりがないわけで。つまり,科学にも限界がある。

 

 経験的なものにも,科学的なものにも,共に課題があるのであれば,どちらか一方で立ち向かうことはできないのだろう,と思うわけです。科学的な実践をしたから得られることと,経験的な実践から得られることとがある。そして後者から得られるのは,それを通じたリアリティと,同じ価値観を共有する仲間なのかな,と思うのですが,いかがでしょう?


 20211226

「世界の経営学者はいま何を考えているのか」 入山 章栄 ~第5回~

 

<概要>

 主に米国の経営学の研究者たちの間で議論されている,演繹的なアプローチによる経営学のマクロ分野での研究内容

 

1)国際起業論で注目されるアントレプレナーシップ活動の国際化

 アントレプレナーシップ研究では,一般に,起業家やベンチャーキャピタリストは一定の地域に集中する傾向がある,というコンセンサスがある。その典型がシリコンバレーだ。この理由は,密集している方がリソースが確保しやすいという点,ベンチャーキャピタリストが地理的に近いスタートアップに投資しがちだ,という点だ。

 ところが今,アントレプレナーシップ活動は国際化している。背景には,通信・交通技術の発達の他,国境をまたいで活動する起業家が増えていることにもある。つまり,国境を越えたコミュニティの台頭により,従来は国境を越えなかった深い知識や情報が,コミュニティを通じて,それを越えるようになってきているということだ。

 

2)リアル・オプション

 経営戦略の先端理論に,リアル・オプションがある。

経営戦略論には,大きくコンテンツ派とプランニング派とがある。前者は「どのような戦略を取るべきか」を考え,後者は「どういうやり方で,戦略や事業計画を立てるべきか」を考える。後者では,計画は事前にできるだけ精緻に立てるべき,という立場が主流だったが,不確実性が高い時代においては,綿密な計画は立てにくい。そこで「不確実性の高い時代には,事業の目的や計画は,事業を進める中で自ずと掲載される」とする学習主義が示されるようになっている。

 そして,この両者の橋渡しの役割を果たすような考え方が,リアル・オプションの事業計画法だ。その基本は,「段階的な投資」だ。仮定を設定し,その仮定通りか否か,で,判断をくり返す,ということだ。そして,リアル・オプションでは,不確実性が高いほど上振れするチャンスが大きくなる,という考え方をとる。

 ここでポイントとなるのは,仮定は仮定であることを忘れてはならないという点,もう1つが,不確実性を,内生的な不確実性と,外生的な不確実性とに仕分けるという点だ。前者は企業自らの行動で低下させられるが,後者は企業の努力では引き下げられない。リアル・オプションにおいては,この後者の不確実性を検討すべき対象としているから,前者については計画で対応する,というように,考えることができるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

計画立案力の要素

 

 「計画を立てるとはどういうことなのか,具体的に説明してください」と問われたら,みなさんなら,どのように答えるでしょうか? ここで1つ参考になるのは,PJマネジメントの知識体系を示したPMBOKです。

 

 PJには,成果物が明確,期限がある,という大きな特徴があるわけですが,期限通りに成果物をアウトプットする上で欠かせないのが計画。よって,PJでは,計画性が重視される傾向が強いのですが,PMBOKでは,計画立案の対象として,「スコープ,スケジュール,コスト,品質,リソース,コミュニケーション,リスク,調達,ステークホルダー」と,その横断的な意味を持つ「統合」が,その対象としてあげられています。ここでリスクについては,今回紹介している,事業計画の立案における不確実性に相当する。つまり,リスクには,内生的なリスクと,外生的なリスクと,2つのリスクがあるととらえられるわけです。

 

 リスクは本質的に,必ずしも発生するとは限らないもの,不確実なものです。つまり,仮定である。逆に言えば,さまざまな仮定をすることが必要になる,ということ。そして,その仮定に対して,何らかの対処策を検討しておけばよい,ということになる。ただ,それができるのは,内生的なリスクだ,と,経営論の中では考えられているわけです。

 

 では,新型コロナのオミクロン型については,どうなんでしょう? 

 確かにその発生自体は,外生的だと言えるのかもしれません。けれど,それが発生する可能性については,仮定ができたわけです。そして,それが発生した際に,感染率×重症化率という条件から,それぞれ「どういう状態を整備しておけば,国内での感染拡大を抑制できる」という基準も設定することもできた。つまり,外生的だからと言って,まったくどうすることもできないわけではない,ということになる。

 

 事業活動という視点で言うなら,それが発生したときには,さらなる投資を中止する,あるいは,投資を拡大する,といった,基準に基づく行動は,一定程度計画できる,ということです。外生的だから,と思考停止すべきではない。つまり,それを内生的な問題としてとらえ直せるようになることも,計画立案とそのマネジメントに必要となる,1つの大きな要素なのであり,計画立案力を強力な武器とするための,大きな要件なのだと思います。


 20211219

「世界の経営学者はいま何を考えているのか」 入山 章栄 ~第4回~

 

<概要>

 主に米国の経営学の研究者たちの間で議論されている,演繹的なアプローチによる経営学のマクロ分野での研究内容

 

1)3つのソーシャル

 経営学では,3つのソーシャルが研究されている。

ソーシャル・キャピタルは,人と人との強い結びつきからもたらせれる便益のことを言う。

 関係性のソーシャル・ネットワークでは,弱い結びつきの強さ,が注目される。ただの知り合いで構成される弱い結びつきは,多様な情報を効率的に伝播させる特徴を持つ。ソーシャル・キャピタルとの関係で見ると,相反するもののように見える部分もあるが,それは,目的,得たい知識や情報の質,事業環境という3つの条件によって変わるということも示している。

構造的なソーシャル・ネットワークで考えることは,ストラクチャル・ホールを活用するという点である。ストラクチャル・ホールとは,ネットワーク構造の中で,そのネットワークが途切れている部分。このとき,これをつなぐ役割が求められることになるから,利益を上げることができる,ということだ。 

 

2)国際経営論で議論されている,国民性の違いとビジネス

 ビジネスの戦略決定では,国民性はないがしろにされがちだ。しかし,これにより失敗することが少なくないのだ。その実践的なフレームワークとして,ゲマワットのCAGEがある。これは,進出先候補と自国との間の4つの距離をできるだけ定量化しようというもので,国民性・行政上・地理的・所得格差の4つの距離を取り上げるものだ。この中で,もっとも曖昧度が高いのが国民性。だから,国民性が,研究対象となっている側面があるのだ。

 国民性を測定する指標として最も有名なのは,ホフステッド指数だ。これは,国民性を4つの次元で評価するもので,それは「個人主義か集団主義か」「権力の不平等性に対する受容度」「不確実性に対する受容度」「競争や自己主張を重んじる度合い」だ。この指標を取り入れ,コグートとシンは国と国との距離を計算する式を開発した。他にも,ハウスが開発したGLOBE指数がある。

 これらの指標を利用して明らかになったのは,日本人は世界的に見て,際立って集団主義的ではないということ,日本企業はやや集団的な国民性を持つ人から成るが故に,海外企業との協力関係を築くのがうまくない可能性がある,といった点だ。

 

 

<ひと言ポイント>

尺度の妥当性

 

 「国民性」というものは,なんともつかみどころのないもののように思えます。そもそも自分が当事者であり,また,日々,日本という国の中で生活する際には,同じような考え方の人々の中で生活しているわけですから,それがどんな特徴なのか把握しにくいわけです。言い換えれば,当たり前すぎる。だから何とか比較しようとするわけです。国民性というものも,他の国と比較した方が,それを理解しやすいと考えられる。

 

 ここで問題は,どんな視点,つまり,どんな尺度を使って比較するのか? という点。重さを比較しようとしているのに,定規を持っていても意味がないわけですが,それ以前に,そもそも重さを比較しようとしているのか? という問題です。比較する際に,重さを基準にしてよいものなのかどうか? 

 

 これは,ものすごく難しい問題です。たとえば,今回紹介しているホフステッド指数やGLOBE指数なども,それが日本の国民性を測定するにあたって,妥当性が高い尺度なのかどうか? 論文にされているぐらいですから,その妥当性は高いのだと想像するわけですが,もしかしたら,それ自体,疑う必要があることなのかもしれない。だから,原典に当たることが,必要になるわけですが・・・。

 

 ところで,ホフステッド指数で判断すると,日本と国民性が一番近いのは,ハンガリーなのだそう。「へえ!」とは思うのですが,それをそのまま受け入れるかどうか,は,別問題かな,と思っています。だって,ホフステッド指数の国民性を測る尺度としての妥当性について,私は評価していないから・・・。


 20211212

「世界の経営学者はいま何を考えているのか」 入山 章栄 ~第3回~

 

<概要>

 主に米国の経営学の研究者たちの間で議論されている,演繹的なアプローチによる経営学のマクロ分野での研究内容

 

1)経営効果の過大評価という問題

 シェーバーは,「経営戦略が業績に与える効果について,回帰分析を用いた研究の多くは,間違っている可能性がある」と指摘した。経営戦略分析の多くが,内生性の問題をはらんでいるからだ。内生性の問題とは,たとえば,海外子会社の業績が,独自資本と買収とでは独自資本の方が優れているという分析があったとき,それはその企業の技術力のような,別の要因が,そもそもの判断に影響を与えている,という問題である。つまり,海外子会社の業績に影響を与えるのは,企業の技術力である可能性がある,ということだ。

 これは,さらに複雑な要因の関係においても起こり得る。これをモデレーティング効果と言う。たとえばウォルマートが低価格戦略を実現できている背景には,複数の因果関係が複雑に絡み合っていた,と考えられている。何か1つの効果とするには,非常に難しいということであり,経営効果を示すものについて,批判的に見る必要があるということだ。

 

2)両利きの経営

 両利きの経営は,世界のイノベーション研究の主流だ。

 両利きの経営とは,「イノベーションは,知と知の組み合わせから,新しい知を生み出すことだ。知は,既存の事業を出発点とした知の深化と,まったく新しい領域をとらえる知の探索とがある。企業というものは本質的に知の深化に傾斜しやすく,それがイノベーションの停滞を生む。これを避けるには,組織としてそのバランスを保つしくみ,ルールが必要だ」とする理論だ。

 

 

<ひと言ポイント>

相関と因果

 

 みなさんは,「おむつとビール」の話,をご存知でしょうか? 1992年の「ウォールストリートジャーナル」に掲載されたデータマイニングに関する事例として紹介されたものです。簡単に言うと,「おむつを買った人は,ビールを買う傾向がある」ということが,分析の結果明らかになった,というもの。

 

 この例をもとに,簡単なストーリーを作るとすると,「おむつを必要としているのは,幼い子を持つ親。だがおむつは重い。よって,おむつを買うのは,主に若い男性ということになる。若い男性は,若いという理由で所得が低い傾向があり,また,幼い子どもの世話のために,外食に出かけにくい。そこで,どうしても家で食事をすることが多い。そのため,アルコールの消費も,家庭で行われる。だから,ビールも多く購入されることになる。ということは,おむつとビールを同じ売り場で売れば,ビールが購入されやすくなる・・・」

 

 いかがでしょう? 納得度の高いストーリーのように,思える方も多いのではないでしょうか?

 

 もちろん,本当にそうなのかもしれません。しかしこのストーリーを無批判に受け入れる,ということは,少なくとも「相関と因果を同一視している」ということになってしまいます。

 

 「相関が見られる」と聞くと,「因果関係がある」かのような印象を,私たちは受けがちです。しかし,実際には,相関は,因果関係を示す1つの条件に過ぎません。因果関係は,原因と結果という関係です。よって,「原因が先に起き,結果が後に起きる」という,時間の前後が存在します。一方で,相関からは,このような時間の前後は明らかになりません。さらに相関には,「疑似相関」という可能性があります。今回紹介した,シェーバーが指摘する「内生性の問題」は,疑似相関の例と言えます。

 

 このように,相関だけからでは,因果関係があるとはみなせないわけですし,実際,因果関係を証明しようとすると,非常に厳密な調査設計が必要になります。

 

 一方で,相関が見出せれば,さまざまな可能性を検討できるとも言える。たとえば,相関が見出せたもの同士には,因果関係があると仮定して,プロトタイプ的な施策を検討,実行する,というような方法です。「おむつとビール」の話であれば,そこに因果関係が本当にあるのかどうかは別問題として,プロトタイプ的な施策として実行してみる。実行してから,その検証をする,というようなやり方をする。

 

 AIにやらせていること,というのは,実際には,こういうことだととらえられるわけです。つまり,相関など,データを利用できるモデルを使って,試してみる。その結果を使って,もっとも当てはまりが良いモデルを,中心的なモデルとして採用する。そして,そのモデルの精度を上げるためにデータを取得しつつ,モデル自体に改良を加え続ける・・・。

 

 いずれにしても重要になる考え方というのは,データを利用して,モデル自体の改良をし続ける,ということ,つまり,PDCAを回し続ける,ということです。そう考えると,「何を実現しようとしているのか」がない限り,PDCAというものは回しようがないということもわかるのではないかな,と思います。でもそれって,別にAIだけに限らず,政治だって,経済だって,企業活動だって,個人の活動だって,一緒だよな,と,私は思うわけです。


 20211205

「世界の経営学者はいま何を考えているのか」 入山 章栄 ~第2回~

 

<概要>

 主に米国の経営学の研究者たちの間で議論されている,演繹的なアプローチによる経営学のマクロ分野での研究内容

 

1)ポーターの競争戦略論と競争戦略論の変化

 ポーターは,競争戦略論における企業の究極の目的である「持続可能な競争優位の獲得」の実現について,市場構造と市場行動が,市場成果を決めるとするSCPパラダイム(Structure・Conduct・Performance)から,戦略論を提示した。その戦略論は,ポジショニングであり,ライバルとの競争を避ける戦略である。このとき利用できるのが,分析ツールであるファイブ・フォース(新規参入,競合,代替品,顧客,サプライヤー)だ。

 ただ,現代は競争優位を持続できなくなってきている。ハイパー・コンペティティヴの時代だからだ。つまり,競争優位を獲得できている場合でも,一時的な優位をくさりのようにつないでいる可能性が高い。その意味で,ポーター流の守りと,くさりをつなぐ攻めとの両方が必要になると考えられるのだ。

 

2)組織の記憶力~トランザクティブ・メモリー

 組織の記憶力が高まれば,その成長力も高まると考えられる。しかし,組織の記憶力は,個人の記憶力とは異なる。それがトランザクティブ・メモリーであり,それは,「誰が何を知っているかを知っている」というものだ。トランザクティブ・メモリーを組織の中で効率的に発揮するには,専門性と正確性が重要。つまり,組織のメンバーそれぞれが専門性を深めていること,誰が何を知っているのか正しく把握していることが重要だ,ということだ。

 

 

<ひと言ポイント>

戦わずして勝つ

 

 ポーターの競争戦略論は,戦いを避ける戦略,と位置づけられています。無理に資源を投入して戦う必要はない。「競争相手がいない市場だったり,技術面で競争相手がいなかったりすれば,そこでは必ず勝てるのだから」という考え方です。そして,この考え方は,孫子の兵法で説かれる「戦わずして勝つ」と,同じことを意味しているのだと思います。

 

 もちろん,そんな市場があることが大前提になるわけですから,市場を探すこと,あるいは,市場を作ることが必要になるわけです。ただ,そのパワーは,既に競争相手がいる市場や,技術面で競争相手が優れている市場に投入するパワーよりも小さくできるし,だからこそリスクも小さくできることになる。要は投資対効果が高いと考えられるわけです。

 

 ここで考えたいのは,では,「私たち一人ひとり,個人の場合ならどうなのか?」ということ。組織や企業の競争という話ではなく,私たち一人ひとりの場合ならどうなのか?

 

 競争なんてしたくないという方は,たくさんいるのだと思います。けれど,世の中を正面突破しようとしたら,競争は避けられない。だとすれば,「どこで戦うの?」ということは,非常に大きな選択になりますし,「何を武器に戦うの?」ということも同様だと,私は思います。その意味で,今回取り上げている,ポーターの考えと,トランザクティブ・メモリーは,非常に重要な考え方になると思うわけです。つまり,「競争相手がいない分野・領域」で,「さまざまな人の知恵を活かすこと」ができれば,それは,自分自身が戦わずして勝てる可能性を高めることになる。

 

 たとえば,多くの人がやりたがらない役割を担うということは,その市場で競合がいない,ということととらえられるでしょう。そして,その経験を通じて,トランザクティブ・メモリーを得ることにつながる。そして,そのトランザクティブ・メモリーを自分が利用できる形にすれば,自分自身を「唯一無二の存在」として認めさせることができる。

 

 個人が「戦わずして勝つ」を実践しようとするなら,そんな頭の使い方をすることが必要になるのかな,と思います。そして,それは結果的に,リアリティに基づく自分の知恵となっていく。

 

 学びって,本質的にはそういうことなのでしょう。

 

 その意味で,さまざまな思考のフレームを身につけ,自分自身が使ってみることこそが,非常に大切になるのだろうな,と思うわけです。要は戦わずして勝つ,とは,何もしないわけではない。パワーの投入の仕方であり,そこで得られる果実の大きさの話だ,と。そして,「ラクをする」というのも,同じ意味なのだと,私は思うわけです。


 20211127

「世界の経営学者はいま何を考えているのか」 入山 章栄 ~第1回~

 

<概要>

 主に米国の経営学の研究者たちの間で議論されている,演繹的なアプローチによる経営学のマクロ分野での研究内容

 

1)経営学が目標としているもの

 経営学の目標は,「企業経営について,分析・発見・確認された成果を,教育を通じて社会に還元していくこと」にある。ここで,特に米国の経営学の研究においては,「理論→統計分析(=理論分析+実証分析)」という,科学的なアプローチ=演繹的なアプローチが取られている。「科学になることを目指して,研究者が研究対象としている発展途上の分野」ととらえられるということだ。

 経営学は,マクロ分野とミクロ分野で構成される。マクロ分野とは経営戦略論や組織論,あるいはその横断領域であり,ミクロ分野とは,リーダーシップや人的資源管理などが相当する。マクロ分野には,大きく3つの流派がある。それは,経済合理性の考え方に基づく経済学ディシプリン,人は合理的ではなく,それが企業経営にも影響を及ぼすとの考え方に基づく認知心理学ディシプリン,人と人,組織と人などの社会的相互作用に着目する社会学ディシプリンだ。このような流派の違いが,経営学に関わる,たとえば「企業とは何か?」といったとらえ方についても違いを生む。だから,経営学の博士課程では,教科書がなく,古今東西の論文を幅広く,大量に読むことから始まるのだ。

 

 

<ひと言ポイント>

「まずは存在を知る」ということ

 

 ここのところ,「分厚い本」が流行していたように思います。たとえば,読書や独学法,経営戦略に雑学・・・などなど,書店でご覧になった方も多いのではないでしょうか。本書の著者も,負けず劣らず分厚い,832ページに及ぶ「世界標準の経営理論」という書を,世に紹介しています。こちらは,週刊ダイヤモンドの2020年のベスト経済書となっているのですが,恐らくはその前身の1つとなっているのが,本書だと思います。なので,832ページにメゲる,ということであれば,とっかかり,こちらを確認してみてもよいのかな,と思います。

 

 さて,私たちが直面する課題のうち,その大きなものの1つは,働くということだ,と思います。経営学の目標は,著者が指摘するように,「企業経営について,分析・発見・確認された成果を,教育を通じて社会に還元していくこと」と考えられますので,より幅広く解釈すれば,働くということに関する課題解決の手法を提供している(はず)のが経営学だ,ということになるでしょう。

 

 私たちは,まったく知らないものを使うことはできません。そして,まったく知らないものに対して,学びに関する関心を持ちようがありません。「ゼロ」か「ゼロでない」かには,非常に大きな差異があると考えられるわけです。つまり,仮に表面的にしかそれを知らなかったとしても,存在を知っていることによって,人の課題解決のアプローチは変わるし,限定もされれば,広げられる可能性もあるととらえられるわけです。

 

 これは当たり前のようですが,非常に重要なことだと私は思います。まずは,「存在を知ること」。できれば幅広く。

 

 自分が知っていること,について自覚的になれば,私たちはもう少し自分が課題だと思うことを,解決しやすいのかもしれない。本書を読んで,私がまず思ったのは,そんなことです。これは,日々のニュースで得られるものとは異なる性質の情報だと思いますし,リコメンドされる情報とも異なる性質のものではないかと思います。

 

 もっとも,それらが本来的にはどんなに有効なものであったとしても,実際に使うとなると,存在を知っているだけでは使えないわけですが・・・。